光を見ている

まるっと愛でる

「愛している」を私の言葉に

 

※以前別SNSに書いたものを加筆修正したものです。

 

 

─────────────────────

 

 思い返せば7歳の頃から現在に至るまで、何かしらのオタクだ。自分がオタクである(ここでは「かなりの熱量を持って、いつのまにか何かにはまり、それが生活の中に当たり前に存在するくらい好きになり、愛している」とする)ことを自覚してから今まで、ジャンルは移りながらも、常に誰かのファンでオタクをしている。長いことオタクをしているからか、その時々の推し、私が愛しているその人は、私のアイデンティティとなり、またオタクであることもアイデンティティの一つとなっていった。

 成長と共に何らかのコミュニティに属するようになったり、インターネットを利用し始めもっと広い世界とつながることができるようになったりと、取り巻く環境は変わっていったが、これまで趣味がきっかけで出会い、「オタ友」と呼べるくらいの関係性を築くことができたのは5人ほどだ。ツイッターを使うようになり、フォロワーという新概念を手に入れてからは、積極的ではないにせよそれなりに会話をしたり、コロナ禍以前はライブの現場で初めて会い、そこからツイッターで相互フォローになり近からず遠からずの関係が始まる、ということもあった。また、元々関係があった人(小学生からの友達や、親戚など)がオタクで、私が彼らと同じジャンルのオタクになることで「友達」かつ「オタ友」になる、ということもあった。それでも、私はオタクとしての人生をほとんど一人でその時々の何かや誰かを愛してきた。

 


 アイドルというエンターテイメントを好きになってそれなりに長い時間が経ったが、ドルオタになってから、それまでは少なからず持っていた趣味で誰かとつながりたい、どう好きかを誰かと共有したいという思いがだんだんとなくなっていった。自分が考えていることを言語化しそれを口に出すことに時間がかかり、しかもそれが苦手なタイプであることを知ったということもあるが、その頃から、どうも私は周囲の人々と違うようだ、と感じ始めた。

 


 きっかけは、高校の時クラスメイトに「芸能人で好きなタイプって誰?」と聞かれたことだった。その時に感じた戸惑いの感覚を今でも覚えている。アイドルを「好き」と認識することはあっても、自分の好きなタイプなんて考えたこともなかったから。私が好きなアイドルの名前を挙げるのはここで求められている答えには合致しない、ということを何となく感じ取り、しかしそこで選択の根拠にすべき感情は自分の中に存在しておらず、当然そこに該当するような人もいなかった。結局、たまたま知っていた俳優の名前を挙げた記憶がある。また、クラスメイトや部活のメンバー内で付き合っている人たちがいると、周囲の人は彼らに気を遣って二人きりになれるようにして、邪魔をしないように見守るらしい。しかし、あの二人が付き合っているなんて誰も教えてくれないのに、どうやってみんな気づくことができるのか、不思議でならなかった。見ればわかるとか察しろよとか言われても、確かに仲がよさそうなのはわかるけれど、どうして付き合っていると認識できるのか、何をしたら邪魔したことになるのか、どうして邪魔をしたらいけないのか、わからなかった。そもそも付き合いたいとかモテたいとかいうのも、どういうことなのか全然わからなかった。

 また、この頃からインターネットを使うようになったのだが、ドルオタの方々(なんか偉そうな響きだけど、他に適切な言い回しが見つからない。当然私もこれに該当する)のツイートを読んでいると、「お花畑」「リアコ」といった言葉を目にするようになった。

 完全に私が何の気なしに観測した範囲及び文脈、内容に基づいた(ために正確性は正直怪しいけれど、確か私のいたオタク界隈ではこういう風にもこの言葉が使われていたな、という)記憶だが、「お花畑」は【タレントが問題を起こしても批判せず、盲目的に擁護するファン】を指す言葉としても使われていたが、それ以外にも【オタクをすることを人生の中心において、現実の生活を充実させる努力をしない人】といった、【ドルオタで「彼氏」がいない人】を蔑むニュアンスでも使われていたのを見たような気がする。また「リアコ」は、特に男性アイドルや俳優に対し恋愛感情的に好きである、もしくは「リアコみを感じる」のように、恋愛の文脈でその人の魅力を語る際に使われる言葉だと感じる。

 この言葉を見るたび、仄暗く重いもやもやが蓄積していった。ドルオタであることと彼氏がいないことって関係あんの?そもそも彼氏がいないことって蔑まれるようなことなの?欲しいと思ったこともないのに?なのにアイドルって恋愛的な感情で好意を寄せるべきものなの?矛盾してない?私がアイドルを好きなことと恋愛感情って絶対関係ないんだけど?どうしてアイドルを好きだったらその好きなアイドルを恋愛的に好きということになるの?いや、何よりも、恋愛感情ってなんなの?

 


 察した方もいるかもしれないが、私はAロマンティック・Aセクシュアル、他者に対して恋愛感情を抱かない・性的欲求を抱かない、というやつである。そうであることに気づき、このラベルを自分のものとして手に入れたのはここ数年だが、ティーンエイジャーの頃から、そしてきっとその前から、私はすでにAロマかつAセクだった。恵まれた環境で育つことができたため、これまでセクシュアリティが原因で直接差別を受けたことはない。また、セクシュアリティが原因で悩んだこともないし、自分をおかしいとか異常だとか思ったことなど微塵もない。

 しかし、私が男性アイドルを好きということは、私が異性愛者であることだった。アイドルを好きであるということは、そのような人がタイプで、そういう人を「現実」で「彼氏」として求めるということだった。恋愛とオタクを両立させる、もしくは彼氏ができたらオタ卒することを目指すべきで、そうではないオタクは現実を見ていない「お花畑」と嗤われる対象だった。

 

 大好きな人たちがラブソングを歌うことが嫌だった。ラブソングの主人公になってしまうことが嫌だった。熱愛報道があるたび、強烈な異性愛主義を浴びることが嫌だった。アイドルは疑似恋愛の対象という言説を見るのが嫌だった。それに基づいて作り上げられるコンテンツが嫌だった。「リアコ」というわけのわからない概念が当たり前に使われていることが嫌だった。それが褒めの文脈でポジティブに使われ、恋愛が入り込んでくることが嫌で嫌で仕方がなかった。これらの社会から浴びせられる最悪なまなざしは、私だけでなく、アイドルオタクの私、にも同様に向けられる。社会から逃れるためにアイドルに没頭しようとしても、けっして社会からは逃れらない。むしろアイドルとファンという関係や構造にこそ、それらは色濃く表れる。私が発する「好き」という言葉は(異)性愛主義、恋愛至上主義のフィルターを通してしか認識されず、それによって性愛も恋愛も持ち合わせていない私の感情と言葉はずっと奪われてきた。  アイドルを愛するということは、私にとってごく当たり前の、他者を愛する営みだった。でも、それは将来の「彼氏」の代替品に向けられる愛であったり、恋愛的な好意に絡めとられることであったり、「現実」的ではない愛とされることだった。アイドルオタクであることは、その構図に組み込まれるということと同義だった。アイドルを好きになればなるほど、そんな苦痛を味わわなければならないということに気づいてしまってから、好きでいることにしんどさを感じ、アイドルオタクである自分に嫌悪感を覚えるようになった。


 「現実」の方では、人々はいつでも恋愛をしていた。小学校からの友達が家に遊びに来たとき、彼氏についての相談をされた。相談と言いながらも幸せそうな彼女の横に寝転んで話を聞きながら、彼女も、彼氏のこともうらやましかった。そんなにまっすぐ好きと言えることも、そうしても何もおかしくない相手がいることも、私が彼女に言う「好き」と彼が彼女に言う「好き」では、彼女には彼の言葉の方がキラキラと輝いて映っているであろうことも。何の話をしているかよくわからなかったが、それなりにすらすら答えられたと思う。参考文献はこれまで読んできた小説だ。選んだつもりもないのに、何を読んでも恋愛についての描写があるので、本の虫だった私はいつの間にか一般的な恋愛とはどういうものなのか、よくわからないながらも学習していた。正しかったのかはわからないが、あれ以来彼女とは疎遠になってしまった。

 誰に聞いても、恋愛とは当たり前に楽しいものだった。自分のことを伝えて、まだ恋していないだけだから大丈夫と言われることが苦しくて悔しかった。今が一番楽しい時期だね、と言われても、その楽しいとは恋愛ごとを目指している人のためのものだった。私は望んでもいない楽しさを求めるべきなのだろうか。駅を歩いていてたくさんのカップルらしき人たちとすれ違ったとき、ふとこの人たちは全員自分と違う世界のいきものなんだと気付き、そのことにぼんやりと絶望した。

 私にとって「ひとり」とは日常で、理想で、幸福であることだ。家族が寝静まった夜中に家を抜け出して川に散歩に行くとき。学校からの帰り道、音楽を聴きながら歩くとき。バイトが終わって人のいないコンビニに寄り、パーキングブロックに腰掛けて買ったアイスを齧るとき。スーパーからの帰り道、夕日のピンクとオレンジと紫に染まった空があまりにも美しかったとき。待ちに待った新しいアルバムが発売されて、何だか緊張しながら再生ボタンを押すとき。ライブが終わって帰る道中、ペンライトの海が綺麗だったこと、スポットライトを浴びるアイドルたちが愛おしかったことを思い出しながら新幹線に揺られるとき。眠れない明け方に画像フォルダを開いて笑っている彼らの画像を眺めるとき。彼らを腹の底から好きだと思うとき。いつでも私は一人で、幸福だった。隣に誰もいらなかった。これらは私が一人じゃなければ得られないものだから。

 

 この状況は孤独に該当するのかもしれないが、私のそれは不幸とは結び付かない。孤独であることは辛いことを意味しない。何よりも辛いのは、世界に言葉が通じないことだ。誰もが簡単に放つ「好き」という言葉は、恋愛のニュアンスが乗った言葉になってしまった。ただ生きるだけで恋愛が介入してくる社会によって、誰もが「現実の」他者と(に)恋をするのが当然の社会によって。私の好きや愛しているという言葉は、恋愛によって奪われてしまった。あなたが好きだ、とても大切だ、愛おしくてたまらない、愛しているという私の感情が、口に出した瞬間に捻じ曲がってしまう。ものすごく大切なことを表す言葉のはずなのに、意図しない、あえてこう言うが、最悪の形で捉えられて伝わってしまうかもしれない。私の言葉ではなくなってしまう。そうなるくらいなら、言葉にしない方がましだ。奪われるのなら、私だけのものとしてしまっておくしかない。これを違う世界の人々に説明するのは、とても面倒で大変で傷つく経験を重ねなければならないということを学んでからは、理解されようとすることも諦めるようになった。だって傷つきたくない。理解されなくてもすでに存在してしまっている私を守るのは私しかいない。 そうして、選択した孤独と、そうせざるを得ない孤独の両方を抱えて生きる覚悟を決めた。  そのために諦めた人間関係があり、言葉がある。ちょうどその頃、いろいろなしんどい出来事が重なり、いくつかの人間関係を継続できなくなった。ますます孤独になっていった。

 


 BTSとの出会いは『Butter』で、最初は曲が好きでよく聴くアーティストという認識だった。それがあれよあれよとはまっていき、いつのまにかファンになっていた。YouTubeを辿ればMVもパフォーマンスも日常のちょっとした動画も膨大な量があり、サブスクで音源も簡単に購入できるし、タリョラバンタンという最高コンテンツがあるし、入り口に立ったばかりのファンには十分すぎるほどだった。

 

 YouTubeを辿ったりファンの方のツイッターを読んだりしていると、花様年華なるものに辿り着いた。そういうのが大好きなオタクとして、これは絶対ヤバいやつだと察するのは容易だった。  ファンの方がまとめていた時系列順でMVを見て、これまたファンの方の考察を一通り見て、そして実際とんでもなくヤバい作品ということを身をもって感じた。花様年華シリーズを経たことでめちゃくちゃにハマった自覚があり、それを機にきちんと歌詞を知りたいと思うようになった。

 韓国語がわからないため、それまではメロディーや曲を重視してBTSの音楽を聴いてきた。日本語訳を見ながら聴くこともあったけれど、言葉がわからなくとも映像や曲の質感や空気感、どんな感情が歌われているかは感じることができる(特に花様年華シリーズのコンセプトを先に知ったうえで聴くと、『I NEED YOU』や『Butterfly』は青春特有の爆発感と脆さとどうにもならなさと閉塞感をとても感じたし、まさに「ない記憶が蘇ってくる」やつだった)し、それだけでも十分に楽しめた。しかし、こんなヤバいものを作る人たちがどんなことを歌っているのか知らないままでいていいわけがないと思い至り、『花様年華 Young Forever』を購入し、まずは好きな曲から和訳を探して歌詞を理解することにした。

 アルバムを聴くなかで、『Whalien 52』という曲に惹かれた。なんだか温かく寂しい雰囲気。鍵盤の美しく切ない旋律。印象的な、鳴き声みたいな音。繰り返される「lonely whale」で、クジラの歌ということに気づいた。検索すると、「 52Hzのクジラ」というものがモチーフになっているという情報に辿り着いた。へえ、と思いながら日本語訳がされているサイトを見つけた。曲を聴きながら歌詞を読み、そしてこの箇所に差し掛かったとき、ものすごい衝撃を受けた。

 


【BTS】Whalien 52 カナルビ 歌詞 和訳/意訳 - I am a Whalien.より引用

お母さんは海は青いと言った

遠くまで力いっぱい声を出しなさいと言った

でもどうしよう、ここはあまりにも暗くて

別の言葉を話す別のクジラたちばかりなのに

もう耐えられない 愛してると言いたいんだ

ひとりで歌う輪唱みたいな楽譜の上を引き直す

この海はとても深い それでも俺はラッキーみたいだ

涙がこぼれても誰にも気づかれないから

I'm a whalien 

 

 


 これは私の言葉だと直感した。私がずっと抱えてきた思いがそこにあった。ナムさんの声とともにこの言葉が流れ込んできたとき、堪えきれず深夜のベッドの上で号泣した。

 

 私はずっと、 I juss can’t hold it ma  사랑한다 말하고 싶어だった。青くて透明だと思っていた海は、わけのわからない、理解できないルールで真っ暗に染まっていて、そこにはルールを乗りこなせるクジラしかいなかった。同じ言葉を習ってきたはずなのに、彼らは私と全く違う意味でその言葉を使った。それがここのルールだった。そのルールはとても強力で、それに私の感情を奪われたこともある。私を取り戻すためには、言葉を諦めるしかなかった。私の思いを、言葉を失うことが怖い。受け取ってくれる人がいないことを知るのが怖い。当たり前のように違う言葉を話すクジラたちにそのことを言っても、何も返ってくるはずがなかったし、海が広くなってもそれは変わらなかった。たまに賭けるように鳴いてみたけれど、やっぱり何も返ってこなかった。

 ただ愛していると言いたかった。それが私の言葉として届いてほしかった。異性愛主義、恋愛至上主義によって、そう言うことすら躊躇わせてくるような、言葉を奪い、捻じ曲げてくるような世界を生きていくなかで、「愛してると言いたい」という願いすら諦める場面がいくつかあった。あまりにも苦しくて悔しかった。どうしても捨てられず、でも言葉にならなくて、できなくて、ずっと一人で抱えてきた思いもあった。だから、「愛してると言いたい」という感情を認識し、それを表現することは、規範に抗い自分を取り戻そうとすることにつながる。  自分の言葉を手に入れることは、それに付随する痛みごと自分として引き受けることだ。言葉が通じなくて、捻じ曲げられて悔しい、私の感情が奪われたことが悲しい、失ってしまったことが悲しいという痛みを見つけ、手にすることで、その痛みごと私は存在できるようになり、痛みは孤独を照らす。その痛みを感じることが辛くて、奪われていた言葉が私のもとに帰ってきたことが嬉しくて、涙が止まらなかった。

 彼らをどう愛するべきか、という規定はない。ある人は恋愛感情のような愛を、ある人は友愛のような愛を、またある人は家族愛のような愛を、憧れのような、羨望のような、誇りのような、連帯感のような、そしてこれらにあてはまらない愛を向けるだろう。私は、恋人のようにや友達、家族のようにではなく、ただ心から彼らを愛している。もしかしたら生涯会うことのない、何でつながっているのか証明できるものもない、何かが生まれるわけでもない、親密さをはかることもできない、継続する保障もない、いつか忘れてしまうかもしれない愛を彼らに向けている。また、愛することは必ずしも「現実の他者」を必要とする営みではない。そして他者を愛することと恋愛・性愛は強固に結びついており、その規範から外れる人々には時に欠落のレッテルを貼られる。ただそのパッケージでは愛さないだけで、そんなのはあり得ないと、存在ごと否定されることもある。  彼氏も彼女もパートナーも欲しくない私は、 人を愛することができなくてかわいそうで、もしくは人としておかしいらしい。そんなわけないのに。そうであることが、他の何に劣っている証になるというのだろう。余計な前提や規範に当てはまることのない、自分ですらどういうものか言葉で説明できない、よくわからないもの。でも、彼らが私にくれたこの曲は、私の中に一生残る。それはきっと、彼らを愛しているということだ。

 言葉を奪われたといっても、誰かに何かを言えばいいのかわからない。残念ながら(腹立たしいながら)これからも長い間、真っ暗な海を生きなければならないだろうと思う。そう簡単に青い海は見られないことを知っている。だから言葉は、自分を見失わないために必要なのだ。私がここに存在している、同じ言葉を話すクジラがそこにいると感じられる、それだけで一人でここを生きるための勇気が芽生えてくる。

 この曲と出会ったことで、何か現実が変わったわけではない。相変わらずここは真っ暗で、言葉は通じないことの方が圧倒的に多い。でも「愛している」という言葉は、ちゃんと自分のものになった気がする。もうこの言葉を言うことにためらいを感じなくてもいいんだと思える。愛している人からもらった「愛している」を信じて生きていける。こんなに心強く、幸せなことはない。

 


愛してるよ、BTS。ありがとう。

 

 

 

─────────────────────

 1年近く前に書いた(はず)の文章です。あのときはしんどいことが重なり、でもそれらに向き合ったりどうにかやっていくには力強いエネルギーが必要でした。そんなときに出会ったのが彼らであり、この楽曲でした。彼らとの向き合い方は当時とは変わっており、先日の発表を受け、私のこの態度も彼らの苦しみの原因の一つの在り方になってしまっていたのではないだろうか、と思っています。(彼らをかなりの熱量で追いかけていたとき、「消費」というワードがちらつき続けていました。アイドルのファンをすることと消費は切り離せるものではないですし、彼ら以外のアイドルも現在進行形で消費しながら愛している自覚はありますが、大量の情報の大きな渦の中に流されていくようなあの感覚は、今思うと愛の前に消費があったように思います。愛を免罪符にするつもりは全くないですが、それでもあの渦の中で少し立ち止まる時間を持っていれば、と後悔している部分があります。)

 消費をしながら、しかし確かにこの曲に救われたのも事実です。思うところがあり記事を下げ、アカウントも削除しましたが、自分のための記録として再掲することにしました。クィアに開かれた楽曲を好きなアイドルからもらった経験は、何事にも代え難い喜びと、人生の支えを得た希望として私の中に残っています。