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祝福も愛も、君から降り注ぐ 〜『THE BOY FROM OZ』感想〜

 

 

人生にはショータイムが必要だ!

 

 

 『THE BOY FROM OZ』、観てきました。TLの歴戦の坂本さんファンの皆様が「OZはいいぞ」とおっしゃられていたのを見かけて、俄然行きたい!と思っていました。そして自分で取れていたチケットで観劇して、言葉にならないような気持ちにさせられてしまいました。ミュージカルを観るときはキャストを目当てに行って、その上で(物語、フィクションとしての)ストーリーが面白かった、となるのがいつもの感じなのですが、今回の作品は違いました。ピーターの人生を観ながら、感情をぐわんぐわんに揺さぶられ、私の人生まで祝福されたような、希望になったような。ということで、OZの感想、考えたことなどを思うままに書いていこうと思います。ストーリーや演出、パフォーマンスについてというより、作品を見て考えたことを延々と書いているので、観劇レポではないですし考察文でもないです。記憶に残っていることしか書かないので、たぶん色々補正がかかっていると思いますが、ただのオタクの感想文なので!では!

 

 

 

愛されたい人生の祝福

 ピーターは、誰よりも愛されたい人なのに誰よりも愛を与える人で、そして与えるものと求められているものの食い違いにぶつかり続けてきた人生を送ってきたように感じました。その愛は、例えばピーターの原点であるパフォーマンスが認められた喜びと、対価として得た、大好きな母親を映画に連れて行ってあげられる、喜ばせてあげられる達成感や自己の価値の肯定の象徴であるチップを父親に酒代としてせびられ、パフォーマンスを(ピーターに伝わる形では)認めなかったことであったり、ライザを「友情のように」確かに愛していたのに、ライザに私を愛してくれないじゃない、と言われ、そして別れてしまったことであったり。また、やっと互いの愛を疑わなくてもいい関係でいられるグレッグとは、自分ではどうしようもできないエイズ(当時はエイズに有効な治療法が確立しておらず、またエイズパニックと呼ばれる時代のことだったため、現代より強いスティグマもあったでしょう)によって別れてしまいます。思えば、父親がピーターから酒代をせびったのも「あの人は戦争に行って変わってしまった」というセリフによって、ピーターの力だけではどうにもできない理由を察することができますし、ライザと別れたことも、ピーターがゲイであることがその理由になってしまっていることも想像に難くありません。

 ピーターの人生は、自分ではどうにもできない出来事(戦争、病気、セクシュアリティなど) によって引き起こされる孤独を前にどうすればいい?という問いかけと共にありました。冒頭でリトルピーターがタップダンスやピアノパフォーマンスを披露し、大人たちを相手に生き生きと踊る姿をそっと見守る姿や、グレッグ、マネージャー、ママの3人が踊ってるのを一人離れたところから微笑みながら見ている姿や、ライザやマネージャー、グレッグが去っていくのを、いつも追いかけようとしたのに結局立ち尽くし背中を見送る、その寂しそうな横顔がとても印象的でした。ステージの上で喝采を浴び名声を得て自信満々に輝く姿と、楽しそうな輪からふと身を引いてしまう、失い続けてきたことで諦めることでしか心を守ることができなくなってしまった孤独の対比が繊細に、丁寧に描かれていました。

 ピーターが向き合ってきたそれらの孤独は、きっと誰の人生にもふつうに起こる、ありふれた孤独と言うこともできるものだと思います。私の場合、セクシュアリティに関わるものがそうです。まさに私自身の人生において当たり前にある、ありふれた出来事とそれに付随する悲しみ、別れ。愛してきたと思っていたのに、大切なその相手から「あなたの愛は愛じゃない」と否定される悔しさ、無力感。同様に、相手から愛されている実感を手に入れることができず、好きでいるはずなのにいつも愛を渇望している、相手とのすれ違いの苦しさ。その苦しみがあまりにも身に覚えのある感触のもので、物語が進んでいくほどピーターと自分を重ね合わせて追っていました。

 私は恋愛も性愛も人生に不要なのでピーターの悲しみや苦しみのすべてをわかるとは思いませんが、きっとピーターもそれらを求めなくても、やっぱり愛を渇望しながら愛を与えていく人生を送っていたのだと思います。*1イデオロギーは社会によって作られるので、それがもたらす影響を人生から完全に切り離すことはできません。自分ではどうしようもできない別れに絶望を覚え、孤独と共にありながら、でも自分の思うままに生きていくしかない。そうやって生きてきたピーターの姿に、自分のこれからの人生を重ねてしまい、ピーターを愛おしく思う気持ちが止まりませんでした。

 そんなピーターがひとりで力強く、眩しいくらいのスポットライトを浴びて歌い上げる。悲しみ、寂しさ、孤独、喜び、充足感、プライド、愛、手にしたもの、失ったもの、ピーターの人生を全身を使って響かせる姿は、自分ではどうにも出来なかったやるせなさ、悔しさ、悲しみだって、全て含めて自分の人生を自分が祝福するのだと叫ぶような、ピーターによるピーターのためだけの圧倒的な祈りが、ピーターだけに収まらず、観客にまでも降り注ぐような熱さがありました。

 

 歌い終わり、ピーターがステージから去って行った、かと思ったら湿っぽい終わり方はしないぜ!と言わんばかりに、派手で明るくて眩しいナンバー、『I Go To Rio』。マジのサンバで、しかもキャストの皆さんがサンバ衣装だったり白のスパンコールの衣装だったりで、ビジュアルから圧倒的にハッピーなんですよね。切なく悲しい場面で終わるのではなく、最後は華やかに終わりたいというピーターの思いであり、個人的にはジャニー喜多川イズムをふんだんに受け継いだジャニーズの演出にも通ずるマインドを感じられて、舞台も客席もエンターテイメントの圧倒的にポジティブなパワーに引っ張られて明るい空気が流れていました。

 あの眩しく幸せな空間の真ん中にピーターがいて、みんなと顔を見合わせながら笑顔で歌っている姿を見た瞬間、猛烈に涙が込み上げてきました。拍手をしたいのに我慢できずにハンカチで何度も涙を拭って、どうにかステージ上の姿を目に焼き付けようとしても涙が止まらず、結局終盤に差し掛かるまではずっと泣いてしまいました。

 

 最後のあのシーンは、悲しい終わりを嫌ったピーターの人生観の表れでもあると思うのですが、誰よりも愛されたかったピーターが、後世まで、時間を超えて愛された姿であり、坂本さんが演じたことでピーターの夢を叶えたという愛の継承であり、ピーターを演じた坂本さんもまた観客やキャストに、そして誰よりもピーター・アレンに愛されたのだという大いなる祝福であり、ピーターと自分自身を重ねた観客の人生をも肯定し、悲しみや別れ、影も含めて価値ある私がそこにいることの肯定でもある、ピーターを通して今生きている自分を祝福する光景でした。そういうものが一気に流れ込んできて、祝福というか喜びというか癒しというか、力強く温かく人生を肯定されたような初めての感覚に包まれました。確かにピーターがそこに辿り着くまでには、様々な苦しみがあり、別れがありました。でも、苦しみは祝福を得るための必須要件だから苦しまなければならない、という描かれ方ではなく、どうにもできない大きな悲しみにぶつかった時、いかに自分を見失わないでいられるか。そこでわがままと捉えられたとしても、どれだけ不器用な在り方だったとしても、自分を通すこと。ありのままが美しいというような話ではなく、自分を見失わずに生きていけ、というメッセージを受け取りました。適応や取り繕うことをしながら、本当は私がそうする必要なんてないのだ、という思いで葛藤しながら生きている私に、そのメッセージはとても勇気と肯定感を与えてくれました。

 

 

 

孤独はちゃんとそこにある、だから大丈夫

 「孤独を癒す」って結構難しいよなと思います。例えば、好きな相手に愛されたいのに愛されなくて孤独を感じる、というとき、違う相手に愛を求めたとき、それは「孤独を誤魔化す」ことになってしまわないか。愛されたい欲求が満たされたかったのならそれが癒しになるでしょうし、時間が経つことでその相手のことを忘れていくことで辛さが軽減されることもあるでしょう。また、孤独を受け入れており、人生のそばに置いて生きていきたいけれど、それはそれとして孤独の辛さを感じている場合、どうにかしようともがくことが自暴自棄な態度につながり、過剰な消耗や痛みを生むのではないだろうか。誤魔化すことが癒しになることももちろんあるでしょうけど、それがより辛い思いをもたらすとき、果たしてどうすればいいのだろうと思います。孤独を解消するのか解決するのか、微妙なニュアンスの違いですが、ただそこにあることを認めることが癒しの第一歩なのだと思います。

 この物語において孤独は、内容と反比例するようにかなりあっさりと語るピーターによって、無理やりに、あるいは過度にドラマティックにされたり、悲劇の根源と描かれたりすることはなく、俺の人生はこんなだったんだよ、という彼の選んだ言葉による語りの範疇を出ません。ある意味、観客に自身の孤独を理解されたいとすら思っていなさそうな(それはピーターの性格であったり、美学に反するからであったり、理解されようとすることへの諦めでもあると思います)態度で、ただ出来事として描かれます。

 この描き方がとても好きでした。孤独の辛さは人それぞれで、何を孤独と定義づけるか、何を苦しみと認識するかは他者がジャッジできるものではありません。だからこそ、他者に理解されなくても、ピーターのようにある面だけを見ると華やかな人生を送っていたとしても、やっぱり人生に孤独はあり、それを解消しようとすることはせず、打ちひしがれたとしてもそのままでいていいのだから、孤独が自分の人生の中にあっても、孤独を孤独のまま置いていても大丈夫だと言ってもらったような気がしました。

 

 

 

君の夢に終わりはない/君を救えるものは君のたましいだけ

 この物語は、まるでピーターの伝記を読んでいるようなテンポと温度感で進み、絶頂もどん底も、幸せも悲しみも、ただ時間軸に沿って写実的に演じられます。

 その伝記の語り手は、他ならぬピーター自身です。ピーターは、その波瀾万丈な人生を、観客に向かって軽やかに、どこかあっけらかんと語り掛けます。その観客への語り掛けが基本敬語なところに、ピーターがこれから観客に見せるものはあくまで「ショー」、ピーターが観客に見せるためものであると示されているような気がしました。辛さ、悲しさをあんなに苦しそうに演じていたのに、語りかけるとなると湿っぽくなるの嫌うかのような口調で観客に自身の人生を語ってみせます。きっとそういう「悲劇」を見せることを嫌う人で、もしかしたら悲劇として消費させないために、ただ俺の人生はこうだったんです、と語ったのかもしれません。

 

 ピーターの語るピーターの人生は、上向きだったり下降したり、大きく激しい波のようです。でもピーターは、最後は明るいハッピーエンドで閉じることを選びました。あのエンドは、もしかしたら時代を超えた、1992年よりずっとあとの光景だったのかもしれません。時を超えて愛されることだってできる、観るものを楽しませ、祝福することだってできるのです。

 また、ピーターはリトルピーターと対面し、「時間(年齢とか、年だったかも...大事なセリフなのにあやふやですいません...)のせいにしちゃだめだよ」と諭されます。それに対して「しつこい(これもこういうニュアンスの言葉だったのは覚えているのですが、一字一句同じではないと思います...すいません...)ガキだな。でもそういうとこ、......大好きだぞ」と、リトルピーターに語りかけます。その姿は、過去の自身の肯定でもありますが、作中ずっと「ママ」、そしいて「パパ」と呼びかけていた、きっと彼のピーター・アレンとしての原点である自分のパフォーマンスを最初に認めてくれた最愛の母と、彼の孤独の原点である、パフォーマンスを認めてくれず、どうすることもできないまま自分の前から去ってしまった、複雑な思いではあるけれど確かに愛していた父、このふたりに愛されたかったという思いを、大人になっても、全てを得たときも絶望の中にいたときも、ずっとずっと心の中に抱え込んでいた自分自身を救い、ピーターの人生にかけられた愛の呪いから解放された瞬間だったのかもしれないと感じました。自分が望めば、物語をいつからでも、何度でも始めることができる。そして、自分の抱える孤独から逃げず、真っ直ぐに向き合うことができれば、人生に大きな影響を与えた苦しみから自由になることもできる。そんな、自分の望む人生を歩いていく方法を教えてくれる物語でもありました。

 

 

 

 前回からかなり期間を空けての再演ですが、たくさんのファンに語り継がれ、待ち望まれてきた作品である理由がよくわかりました。華やかなショーがあって、魅力的な物語があって、何より愛おしくてたまらないピーター・アレンと、そんな愛されるピーターを作り上げた坂本昌行がいて。何回でも観たい舞台ですし、私はこの今の自分のタイミングでこの作品と出会うことができて本当に良かったです。クィアな人生を生きる(しかない)自覚があって、孤独と付き合いながら生きていく未来を願っていて、そして誰かを愛しながら生きていたい私にとって、この作品は人生に肯定感を与えてくれて、何か辛いことがあったときに救いを求めることもできる作品でした。幸せな時間をありがとうございました!!!!!!

 

 

 

 

 3つ目の見出しタイトル、少年隊の名曲『ダンス ダンス ダンス』の引用なのですが、この曲めちゃくちゃOZのテーマソングじゃないですか!?エンドレスリピートしながらこのブログを書いているのですが、ピーター......!!!となっています。

 

 

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*1:彼らの互いに対して持つ渇望は、ふたりがロマンティックラブイデオロギーから脱却するしか方法がないのでは?と思いました。私はそういう物語も渇望しています。