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ジュディへ/クローゼットのアロハシャツ 〜『THE BOY FROM OZ』感想③〜

 

 まさか3本目を書くとは自分でも思っていませんでした。前回、前々回はピーターに思いを馳せた感想文寄りでしたが、今回は私自身のことに引き寄せ、主にセクシュアリティの面から考えたことを書いていきます。どこまで行っても私の感想文でしかないですが、すごい自分語りパートが多いですので、そういう感じで読んでください!あとあらかじめ書いておきますが、私はAロマAセクで、そういうフィルターを通して考えたことになっています。

 

 

 

 

『Quiet Please,There's a Lady On Stage 』

 ピーターにライザと結婚するのだと告げられたジュディは、「(自分は)今まで散々オカマ*1の惑星を行ったり来たりしてきた」「(そんな自分にとって)子どもたちが自分が正しいことをしたという証明」と語り、その上でふたりの結婚を批判します。

 何よりまず、「子どもを産むことが正しいことをしたという証明」というセリフに苦しさを覚えました。そしてなぜジュディは「行ったり来たり」と語ったのだろう、と思いました。なぜ「オカマの惑星」に行きっぱなしにはなれなかったのだろう?(この論で言うと、私は物心ついたときからずっとそちらの惑星に在住していると思えるので)彼女はどういう気持ちでそう言ったのだろう、と考えていました。

 観劇直後は、まさかここまでクィアな話だと思っておらず(不勉強で、ジュディがLGBTQコミュニティの象徴として絶大な人気と支持を得る人物で、「ストーンウォールの反乱」のきっかけとも言われている人物であることを知らず、ものすごく動揺してしまい深く考えることができなかったというのもあります)、あっという間にエンディングまで進んでいってしまったのですが、観劇を終え、そして私自身の生活の中に戻ったとき、その言葉の意味がわかったような気がしました。

 

 

 現在、比較的同世代が多い環境で仕事をしています。20代前半が多いと、昼休憩やちょっとした雑談の中で、必ずと言っていいほど恋愛が話題に上がります。隣のグループのあの子が気になっている。あいつはあの子を狙っていて、ラインでどうにか会話を試みているらしい。週末彼女とデートの予定がある。仕事上アクセサリーはつけられないけれど、結婚指輪、婚約指輪はOKだから、彼氏とお揃いの指輪をつけているんだ。親しくなるほど、これらの話題が話され、そして「あなたは?」と、こちらが示したのだからそっちも何か教えてよ、というコミュニケーションが展開されます。

 

 こう言った会話を、私は心を無にして、それでも摩耗していくのを止められないまま、必死で聞き流し、かわしています。本当に毎日苦痛です。単に興味がない話だから、というだけではありません。これらの話題は、ごくごく自然に繰り広げられ*2、そのたびに私がAロマでAセクであるというアイデンティティが受け入れられないことを感じ、その上私は異性愛者だと「誤認」されていることを突きつけられるからです。

 ただ自分のままでいるだけで、その話題に乗ることができる人間、異性愛者でAlloロマンティックの人間だとみなされてしまう。自然にそう思われることができてしまう、普通に見えてしまうからこそ、そうじゃないと言い出すことができません。なぜか。彼らがする会話は全て、異性(恋)愛規範に則ったものだからです。異性愛者で、異性と恋愛をする人間しかこの場では想定されていない、私のようなクィア(を認識し、肯定する場)は存在しないというメッセージが常に発される場で、カミングアウトなんて恐ろしくてできません。*3紛れ“られてしまっ”ていると感じることは、同じ強度で本当の自分を隠すことを強制されていることと同義なのです。同僚と対面するときずっと、「私は異性愛者じゃない!」と心の中で唱えています。そうしないと気持ちを保っていられないからです。空気の薄い異性愛者の惑星に降り立つしかなく、そしてその惑星から立ち去る姿を見せることもできず、留まり続けるしかできないときもあれば、酸素不足に耐えられず惑星を飛び出し、ひとりでふらふらと、文字通り浮きながらしか生きていけないときもあります。*4そういう、ごく自然に(しかし心を殺しながら)紛れられるのに、どうしたって紛れられない(ことで孤独感が付き纏う)気持ちの間で揺れ動く苦しみが、「惑星を行ったり来たり」なのかなと思いました。

 

 

 ジュディ・ガーランド自身もクィアであったとも言われており*5、そんな彼女が、この世で最も権威のある「異性愛者である証明」*6である(男性との)結婚、そして出産をしたことで生まれてきたのがライザです。物語の中で、ライザは母親であり、そして圧倒的なエンターテイナーであるジュディに人生を縛られていたように描かれていましたが、ジュディはライザに「娘」として執着していたように感じました。それは、ジュディにとってライザは「正しいこと」──異性愛規範に則り、社会から否定されない存在であること──をしたから生まれてきた、自身の人生を正常なものだと肯定してくれる(もしくは、肯定するための)証拠だったのかもしれません。その「正しさ」は、異性愛規範の価値観に迎合することで作り上げられたものです。そして、人間(特に女性)の価値を語ろうとするとき、(再)生産性を焦点にすることは、成果物が目に見えてわかりやすいだけでなく、個人や家族だけでなく、社会や国家という大きなものにも有益をもたらすため、価値=生殖(能力を有しており、それを発揮すること)と結びつけて語られやすいのです。(これが最悪のかたちで表れたのが、杉田水脈議員の「LGBTは生産性がない」発言です)

 ジュディがピーターの結婚を否定したのは、自分のクィア性を正しくないと思っている(思わされてしまっている)からこそ、本当の自分の姿を否定してまで「正しい」姿を求め、それを手に入れたのだと信じたかった人生を、自分と同じようなクィアな(つまり「正しくない、しかしありのままの自分」)ピーターが、自分がせっかく掴んだ自信の正しさの証明であるライザを、「正しい」方法で奪おうとしていることが許せず、しかし彼女が信じたいその正しさは、本当の自分に従ったものではない時点で「正しさ」とは呼べないものであるということに気づいており、ピーターが本当の自分を偽って異性愛者に適合しようとしていることも許せない──きっとそれは、自分のクィア性に蓋をし、異性愛規範に紛れることができてしまった自分自身に対して抱えてきた思いでもあるのです──という葛藤によるものなのだろうな、と思いました。

 しかし、ありのままで生きようとすることでぼろぼろに疲弊し、傷つけられることに恐怖を覚え、自分を隠さないと生きていけないと感じるクィアを、闘う気力や勇気が持てないクィアを、どうして責めることができるでしょう。私はジュディの「子どもが自分が正しいことをしたという証明」という言葉に傷つきましたが、彼女に怒りを向ける気にはなりませんでした。彼女がどういう気持ちでそう言うしかなかったか、そう言うしかできなかった苦しみも含めて、想像できてしまうからです。

 

 

 私はAセクAロマの人間としてジュディに伝えたい。

 あなたが正しくあったかどうかの証明なんて、必要ない。あなたの価値は、生産性なんかで決まらない。あなたはただ生きてきただけで、尊く、美しく、価値ある素晴らしい存在だよ。

 

 

 結局ピーターはライザと結婚します。しかし、セクシュアリティの不一致による思いのすれ違い、入ってくる仕事の差、それにより開くキャリアの差など、理由は一つではありませんでしたが、結婚生活は上手くいきませんでした。そんなピーターにとって(そしてライザにとっても)苦しい日々が続く中、ジュディが亡くなったという報が届きます。知らせを聞き、泣き崩れるライザ。

 ピーターは、「義理の母に歌を書く婿なんかいます?(ニュアンス)」と少しだけ冗談めかして観客に語りかけると、歌い出します。それが『Quiet Please,There's a Lady On Stage 』です。

 

 「両手広げ 祈ろう 彼女に歌が遺るように」。歌が遺るとは、形にはならないけれど、それを歌う人がいる限り永遠に人々の中に彼女が在り続けるのだという、存在の証明です。たとえ形に残る証明がなくても、確かにそこにあなたが存在していたことを皆知っているのだと、他でもないピーターが歌う姿は、ジュディのセクシュアリティ含めた人生の葛藤を肯定し、ジュディの存在を肯定する、彼のジュディに対する深い愛情の証拠だと感じました。その愛は、惑星を行ったり来たりするしかない日々を生きる私の人生も力強く満たしていきました。そしてきっと、彼女が遺した歌や記憶は、ピーター自身の人生も守っていったのだと思います。歌の途中、真っ白な衣装を着たジュディがそっとステージ上に現れ、朗々と歌い上げたかと思うと、途中で曲調が変わり、明るくアップテンポなアレンジになり、そして観客にクラップを求めて、ピーターはステージの上を駆け回ります。ピーターとジュディだけの話ではなく、観客にもジュディの記憶が残ったのです。その光景は、かつて「今のあたしを支えてくれるのはファンだけ」と、ファンを愛してやまなかったジュディが、ファンに囲まれた幸せな最期を過ごすことができたのだという証であり、悲しい終わり方を嫌ったピーターの愛の証拠でもあったのです。

 明るく晴れやかだった空気は、突然の破壊音によって遮られました。音の正体は、「ストーンウォールの反乱」です。「ストーンウォールの反乱」があって、世界は良くも悪くも変化していきました(ニュアンス)」というピーターのセリフは、ジュディの死が、ピーターが自分のクィア性を受け入れざるを得なくなったきっかけになり、それによってライザと別れざるを得なくなり、そしてそれがグレッグという新たなパートナーとの出会いにつながるという、彼の人生が本当に在りたかった姿へ動いていく、重要な出来事だったのだと思いました。

 

 

 

「あんたのクローゼット、アロハシャツばっかりだろ。それをステージ衣装にしちまえばいい」

 『Bi-Coastal』(今思うと、この曲タイトルが既に示唆的なんだよね...)を始め、あれだけ最高のクィアバイブス丸出しなステージをやれる人なのに、その面をステージの上で見せるようになったのは、思い返せば二幕からでした。一幕も『Love Crazy』を歌う前の「俺の男性ホルモンは、それだけでは飽き足らなかったわけですが」、プロデューサーと寝たことを喋りまくったこと、そして『Continental American』がありましたが、それらは(ピーターの本音がどうであれ、語り手のピーターによって、そして理由がセクシュアリティ以外に劣等感や寂しさがあったとしても)「若気の至り」「遊び」と描かれました。


 一幕と二幕の大きな違いは、グレッグの登場です。ジュディとの別れ、ライザとの別れを経てグレッグと出会い、ピーターは公私ともに最高で最愛のパートナーを得ることができました。そしてマネージャーとなったグレッグは、それまで散々(気楽な立場で)批評していたピーターのステージ衣装について、「あんたのクローゼット、アロハシャツばっかりだろ。それをステージ衣装にしちまえばいい」と提案します。

 性的マイノリティに関する事象を語る用語において、「クローゼット」とは「カミングアウトしていない状態」を指します。クローゼットに閉まっていたものを表に出し、その姿でステージに立てよというのは、セクシュアリティも含めて、ありのままの君を見せて、愛させてくれ、という意味だったのかなと思います。同じセクシュアリティであっても分かり合えない人は山ほどいるけれど(ジャニオタどうしの関係と同じですね)、同じセクシュアリティどうしだからこそ、感覚として分かり合えることもあると感じています(ジャニオタも同様に)。同じベクトルの愛を向け合うことができる存在がいることがどれだけ安心感をもたらすか*7は想像に難くありません。それがゲイというだけで、異性愛者と比べてそもそも人口が少ないんだから、ピーターがどれだけ嬉しかったことか。*8

 

 幸せな時間はある日「パンッ」と終わりを迎えます。グレッグはエイズに侵されてしまいました。そのことを伝えようとするも、真っ直ぐに、真剣に受け止めようとしないピーターの態度に「俺はありのままの君を愛してきた でも君は自分のことしか考えていない」「現実と向き合え」「もう少しで俺は、ひとりじゃ何もできない体になるんだよ」と、苦しい現実を告げます。そして「いなくなるなら今のうちだよ」とも。

 「俺がお前の前からいなくなるって思うのか?」。このセリフが切なくて。ピーターは心から本当にグレッグを愛していたのに、グレッグにとっては自分は病気になったパートナーを捨てていくような人間だと思われていたのかという驚き。そして自分の愛が伝わっていなかったのだという悲しい気づき。

 最初「君は自分のことしか考えていない」と言われたとき、そんなにピーターって利己的な感じだった!?なんでそんなこと言われなきゃいけないの!?と思いました。(これはライザのときにも思った)

 回を重ね、色々と考えていくうちに、利己的というより、ピーターの抱える孤独、それによってどこか愛されることを諦めていたことで愛することも諦めてしまい(この内容を前回のOZ感想ブログで延々と書いておりますので、よろしければぜひ)*9、本当の思いを話すことができなかったのだろうなと思います。そういえば、(歴戦のOZ観劇済み先輩オタクの皆様から耳にしていた)キスシーンも、グレッグからキスしていましたね。歌の中ではピーターの気持ちはあんなに繊細に、雄弁に語られるのに、言葉で素直に伝ることはできなかったのが、なんともピーターらしいな、と思ったりします。

 

 

 グレッグが亡くなり、悲しみに暮れるピーターにも、容赦なく病魔が襲い掛かります。ステージの真ん中でひとりぽつんと目を押さえるやつれたピーターの元にライザがやって来ると、「やべっ」とピーターは急いで涙を拭い、ライザを迎えます。ライザは再会のハグを求め、そしてその身体がやせ細っていることに気付きます。理由を聞いても「スイカダイエット」なんてバレバレの嘘ではぐらかされてしまいます。それでもまるできょうだいのような親密な、愛のこもった会話をしながら、「ダイエットじゃ、ないんでしょ?」「...うん」まで引き出すことができましたが、互いにその先の核心に触れることはできませんでした。「私たちは本音で話すことができないね」。

 そして、「グレッグだったらなんて言ってたかな?」「...アロハシャツ、着なよ。」

 そう言って、ピーターは今にも泣き出しそうな顔でライザにしがみつくように抱きしめます。

 

 ピーターにとってアロハシャツは、クローゼットにしまっておく、でもそればっかりある、そしてグレッグによって表に出すことができるようになったものです。ライザを愛するほど、彼女の求める愛とのすれ違いは大きくなり、愛していることに嘘はないのに、その溝を埋めることはできませんでした。*10ライザはライザで、愛している人に自分の望むように愛されることが叶わないことを悟ってしまいました。そんな最後まですれ違ってしまうふたりをつなぐのに必要なのは、本当のことを言うことです。それを助けてくれたのが、ふたりのすれ違いの理由になってしまったセクシュアリティの葛藤を解いてくれた、グレッグの遺したアロハシャツだったのかなと思います。もしかしたらライザは、ピーターのクローゼットがアロハシャツだらけだったことをすでに知っていたかもしれません。でも、ピーターはそれを自分の口から言うことはなかったのでしょう。愛しているのに、愛してくれないじゃないと言われることが苦しかったから。ライブがピーターの愛を信じられなかったように、ピーターもライザが自分をどう思っていたのかを掴むことはできなかったのかな、と思いました。それだけギリギリのバランスでふたりの関係は保たれており、ジュディが亡くなったことでふたりは手を離してしまいました。それぞれがそれぞれの出会いと別れの孤独の中にいながら、最後に愛で繋がっていることを伝え合うことができたのがあのセリフだっとのかなと感じました。本当に不器用なふたりだと思います。でも、不器用でもなんでも、愛を伝え合うことができる勇気、自分より愛されていたであろう人の言葉を借りて、グレッグの存在ごとピーターの愛を肯定するライザの懐の深さ、やっと自分の感情に従い、自分のための悲しみを素直に受け入れたピーターの愛おしさを見ることができて、本当によかったです。私はどうしてもピーターに自分を重ねてしまうのですが、愛する人にようやくカミングアウトできて、その姿を愛されることができたピーターがうらやましくもあり、愛されたいと思うことを諦めなくてもいいのだと言ってもらったような気持ちにもなり、そういう未来を見せてくれて、本当にありがとうという思いです。

 

 

 

 

 めっちゃ長くなりましたね...全部合わせて25000字超えることになりました『THE BOY FROM  OZ』感想。改めて、この舞台はエンターテイメントを愛する、クィアな、ジャニオタの私のための物語だったと感じられた、最高のミュージカルでした。この作品に出会わせてもらって幸せでした。大阪公演もどうか無事に!!!最高のステージを!!!

 

 

 

 

 

*1:セリフの引用であり、HP等で「差別的なワードを使用するが、当時の時代を反映させたための使用である」という旨の注釈がついていました

*2:本腰を入れて話すというわけではなく、他の話題をしていても自然に、ごく普通の日常会話の顔をして恋愛の話に移ってしまい、抜け出すことができないままその場に留まらずを得ないという状況は、決して珍しいことではないと思います。この状況に何の苦痛も違和感も感じないか、それとも私のような気持ちになるかは人それぞれですが

*3:ちなみに、一応関係のできている同僚なので、きっとカミングアウトをしても直接的な暴言を浴びることはまずないと思います。彼らは優しいです。しかし、カミングアウトしたところで「そうなんだ、全然いいと思う」というふんわりした容認、もしくは「嫌なことあったら教えてね」と言われ、「苦痛だから恋愛の話をやめてほしい」なんて言えるはずもなくお互い気を使い、結果気疲れして場がつまらなくなり、私の方がフェードアウトせざるを得なくなる、という未来しか見えません。わざわざ異性愛者向けにデザインされている場の空気をぶち壊しに行く労力を払うのは面倒だし苦痛だし、しかし変わるべきは私の方ではなく異性愛規範であるという葛藤のもとで、結局私が耐えることが安全につながるという、マイノリティの被る構造の不利益があるうちは、カミングアウトは危険な行為でしかありません。よって、彼らを嫌いなわけではないけれど、私は彼らにカミングアウトはしません。

*4:恋愛の話になった瞬間口を閉ざす、もしくは薄い反応しか返ってこないことで、会話が盛り下がる、つまらない、本音を見せてくれない人間だと思われているんだろうな、と肌で感じることはできるので、沈黙は気まずさを覚悟の上でやっているのです。私は恋愛に関する話題を話すのも聞くのも苦痛なのでマジで黙り込んでしまうのですが、自然に会話をしながら自分から遠ざけていける技術がある人ももちろんいるでしょうし、その技術と心労を尊敬します

*5:参考文献:https://www.jstage.jst.go.jp/article/eizogaku/103/0/103_010309/_pdf/-char/ja

*6:実際結婚や出産を選択した人々にどのような理由や経緯があるかは個々の問題ですが、あくまでもこの社会は「結婚し、彼らの子どもがいるふたり」を「彼らは異性愛者である」と扱うのです

*7:そして私はその存在を求めている一方で、果たして自分は他者とどう愛し合いたいのか?という思いに答えを出せないままでいて、ピーターたちやライザとはまた違う悩みというか思いを抱えて生きています

*8:本筋とあまり関係ない話:グレッグはセリフでテキサスの出身と言っていましたが、そういえばテキサスってアメリカの中でもかなり保守的な州なんだっけ...と思って聞いていました。保守的な土地を飛び出しニューヨークにやってきたグレッグの思いも、きっとピーターと同様だったのだろうなと思います。

*9:エンターテイナーの孤独と愛の邂逅 〜『THE BOY FROM OZ』感想②〜 - 光を見ている

*10:その後リトルピーターとの邂逅で「いい女とも、いい男とも恋愛した」と言っていたのを聞き、めちゃ勝手にですが、ピーターはホモロマンティック・バイセクシュアルだったのかななんて思いました。sexual orientationとromantic orientationが一致していないゆえの葛藤を思うと、それはそれで大変だっただろうなと立場は違うけれど思いました