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ドラマ「みなと商事コインランドリー」の柊くんをクィアリーディングする~シーズン2・1話~7話編~

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 前回の続きです!シーズン2ではよりあす柊の関係が詳細に描かれており、あす柊Loverである私はもう圧倒的感謝ッ……です。シーズン1では「柊くんのAロマンティックな可能性を読み解く」「あす柊の関係を読み解く」を試み、

「猫」のように、関係性の意味を恋愛の文脈以外の言葉で表現することで、自分たちを非恋愛的な固有の関係性であると定義づけ、恋愛に回収されてきた「好き」の意味を取り戻そうとする言葉と(固有の)関係性の再獲得、そして恋愛感情が(わから)ない人が、恋愛規範に応じない態度を取ることを肯定されることでアイデンティティを受容される

物語である、とひとまずの終着をしました。今回はそれらを前提として、シーズン2の1~7話までをクィアリーディングしていきます。さらにふたりの関係を深堀りしていく中で、特に「『すれ違い』『嫉妬』の取り扱われ方」と「柊くんの周囲で展開される会話」に着目し、この物語があぶり出す恋愛に関する規範(の有害さ)を読み解きながら、シーズン1で読み解かれた柊くんのAロマンティック可能性がどう描かれており、明日香とどんな関係を築いていくのか、柊くんがこの物語で何を獲得していくのかを読んでいこうと思います。今シーズンは各話に少しずつ散りばめられたあす柊ふたりのやりとりを拾い上げながらの読み解きになるので、前回よりさらに文字数多めになります。

 

 シーズン2では前作以上にシンみな/あす柊が対となるキャラクター(カップリング)として描かれており、この2ペアが直面する、表面的には同じ問題とどう向き合っていくかという態度も、それぞれ違う道を辿っていきます。物語の中でシンと明日香は、「相手が好意を示してくれない・好きと言ってくれない」ことに悩んでいます。シンの悩みは、前シーズンでしつこいくらいに愛をぶつけ、一時は遠くから幸せを願うという形を取るいう方法を選ぶほどのど根性と激重執念(シンを何だと思ってる?)で湊さんへ伝え続けてきた思いが実り、「俺はお前が好きだ」と言ってもらったという過程がある(つまり「両想い」という確信を持っている状態)のに、どうして好きと言ってくれないのか?という、あくまで恋愛関係のフォーマットに則った上でのものです。
 一方の明日香は、前シーズンでは、柊くんの「重要な他者*1」という定義の提案を受け、「猫でもいいからそばに置いてよ」と望みます。「明日香の好きにしていいよ。でもそれって、明日香にとって無駄な時間にならない?」と一度は(諦めを伴った)問いかけを返されるものの、「好きな人とだったら無駄な時間なんてない」と明日香が「恋愛的な好意には同じ思いを返さなければならない」という前提を否定することで、非規範的な柊くんとの固有の関係を(再)獲得する兆しが見えたところで終わります。

 

 

 「一緒にいるようになった」ふたりですが、勉強に付き合う…というのは建前で、もっと柊くんと近づきたい明日香は「好きだよ、柊くん」と甘い空気を作ろうとするも、「集中して。」の一言で、柊くんは明日香の発するメッセージを(意図を理解しているかどうかは置いておき)一刀両断します。そのことが不満な明日香が「俺たち付き合ってるんだよね?」と問いかけると、柊くんは「うん、そういうふうに決めたでしょ?」と答えます。
 この時点で柊くんにとって付き合う」とは、社会に共有されているフォーマットをなぞれば、恋愛感情が伴わずとも成立するという認識であることが察せられます。考え方の例としてですが、恋愛の先にあるとされている結婚やパートナシップ制度の条件には恋愛感情の有無は問われておらず、民法や制度の定める年齢や他のパートナー関係を結んでいないかといった要件を満たしていれば利用できますよね。そして、制度自体には内心を変化させる機能はないため、「付き合う」関係性になったからといって、自動的に恋愛感情が生まれるというものでもありません。柊くんの「付き合う」もそんな感じで、あくまで制度や仕組みとしてのものであり、少なくともこの時点ではふたりの間にある感情に着目したものではなく、客観的に見たときに要件を満たしているからそう呼ばれるものである、という捉え方なんじゃないかなと思います。
 しかし明日香は「一般的な『付き合う』」を求めているので、「決めたとかそういうことじゃなくてさ、もっと気持ちの問題っていうか…?」と、求めている答えが返ってこないことに若干苛立ちを感じている様子を見せますが(顔に「柊くんの分からずや!」と書いててかわいすぎ)、「ほんと柊くんは柊くんだよね」と、柊くんの思いを否定したり、そんなの変だ、おかしいよと異常のレッテルを貼ったりすることはせず、受容の態度を取ります。湊さんにはそんな分からずやっぷりを愚痴りますが、それを柊くん本人にはぶつけず、「まだ一回も手をつないでいない」「いちゃついてみたい」と、あくまで明日香自身の欲望が叶わないという不満であって、柊くんの考えを変えさせようとはしていないところが誠実だなあと思いますね…

 シンはバイト先の塾で、柊くんが明日香と電話で話している姿を見かけます。しかし漏れ聞こえる会話はかなり淡々としており、思わず「英と付き合ってるんですよね?」と聞いてしまいます。

「うん、そういうことになってる」

「そういうことって......」

「連絡は頻繁に取り合ってるし、時間があるときはなるべく一緒に過ごすようにしてるよ。付き合うってそういうことじゃないの?」

「まあ、人それぞれだとは思いますけど......」

「そうだよね」

 シンも明日香と同じように「付き合うってそういうこと(フォーマットをなぞれば恋愛感情が伴わずとも成立するもの)」に納得できなさを抱きつつも、「人それぞれだとは思う」以上のことを言わず、考え込む表情を浮かべます。このふたりの態度は、「マジョリティがマイノリティに変化(それは「マジョリティ側への適応」であることが多い)を求めない」という真っ当さを描いていてとても素敵だなと思います。

 

 

 模試の結果が振るわず、デートの条件と約束していたA判定に届かなかったためデートはお預けになったふたりですが、「付き合って」おり、デートの約束を守るためにも変わらず勉強を教える柊くん。しかし明日香は勉強になんて集中できるはずもなく、柊くんを見つめ、そして不意に手を握ります。

「どうしたの?」

「見りゃわかるでしょ、手を握ってんの」

「なんで?」

「柊くんのことが、好きだから」

「ありがとう。じゃあ次、この問題もさっきの公式を使って解いてみて」

「いやそれだけ!?俺たち付き合ってるんだから、手握り返してくれても…」

「なんで?」

「なんでって…それが愛情表現だからだよ!」

「……わかった」

 すると柊くんはペンを置き、明日香の手を両手で取りそっと包み、少し目を伏せた後に明日香を見上げます。たまらず(きっと「萌」と「尊」の感情で)倒れこむ明日香に何やってんの?と冷静に問いかけ、だって柊くんがぁ...!な明日香に「自分がそばにいると明日香は自分のことばかり考えて勉強に集中できない」「それではまた明日香がしたがっているデートができなくなってしまう」「解決策として、しばらくひとりで勉強をした方がいい」と、部屋から出ていってしまいます。柊くんにとっては「付き合う」も「デート」も明日香主体の望みであり、それを叶えるための明日香にとって最善の行動を取った、明日香を思っての選択をした...と読むことができますが、それは恋愛のコードには沿わない選択だったために、明日香と多くの視聴者は「何でそうなるんだよ!!」になってしまいます。これがふたりの「すれ違い」の発端なのですが、一見「すれ違い」に見えるやり取りには、恋愛のコードを理解しているか否かという判断基準が存在しており、そして理解していない側の方が「変」と捉えられやすいという、恋愛感情を備えていることを当然・正常とする規範が社会を支配している様が描かれていると読むことができます。そういった規範が特に否定されないままAロマンティックが描かれると、恋愛や性愛のコードを理解しない(もしくは沿うことを拒否する)人々を、感情が欠落した人間とみなす偏見を助長してしまいがちになるため、注意が必要です。

 一方、手を握るのは愛情表現なのだという明日香の言葉を受け取り、手を握り返すという応答をしているのを見るに、明日香には愛情を示したいと考えていることを読み取ることができます。
 しかしそれらは、単に突拍子もない柊くんらしい行動と捉えられ、また明日香の甘やかなムードを期待しての言葉と行為にありがとうとマジレスし、言われた通り馬鹿正直に手を握り返す様を、「ほんと柊くんは柊くんだよね」のように、柊くんの「個性」としての「場違いな空気の読めなさ」「ウブなかわいさ」と描かれているように感じます。しかし、これをクィアリーディングによって【Aロマンティックパーソンが「恋愛がわからない」ためにとった行動が規範に沿わないために「変」と捉えられる】シーンと読むことで、逆説的にAロマンティシズムに関わる困難が「個性」の範囲内に矮小化されてしまうといった、Aロマンティックなアイデンティティや存在自体の漂白されやすさが炙り出されるのです。
 さらに、“柊くんに恋愛的な好意を寄せている”明日香にとって「自分の思い通りの好意を返してくれない」ように描くことで、ただ恋愛のコードに沿っていないだけで、柊くんが明日香に向けている愛情も無力化されてしまうという、Aロマンティックパーソンが直面しやすい「愛」からの疎外を描いた場面でもあります。恋愛的な気持ちの高揚で明日香が倒れこんだその拍子に、結果的にではありますが握り返した手を振り払われてしまった柊くんの姿はそういったAロマの経験を端的に表していたと思いますし、勝手に自分の傷つきを重ねて苦しくなってしまったシーンでした...

 

 しばらくひとりで頑張ってみて、と明日香と距離を置く柊くんは、ある日明日香と女の子が手をつないで歩いているところを見かけ、思わず足が止まります。ふたりがカフェに入り隣に並んで座る姿を伺っていると、さらにもうひとり男性が現れ、彼に対して明日香が隣の女の子の肩を抱きながら「俺たち、付き合うことになったから」と言うのを聞いてしまいます。柊くんは驚いたように目線を彷徨わせ、どこか憮然とした表情を浮かべると、明日香が出てくるのを待つことはせず、足早にその横を通り過ぎていきます。その場を立ち去ったものの、あの場面がどうしてもちらつく様子の柊くんのもとに、明日香からのラインが届きます。「やっぱり一緒に勉強しちゃダメ?」「好きだよ、柊くん」。

 柊くんからの返信が来ないことにもやもやした様子の明日香の前に、例の女の子が現れます。彼女の正体は(そんな仰々しい言い方しなくても…)明日香の高校生時代の同級生・瑞希。ふたりの会話から、瑞希がバイト先の先輩にしつこく言い寄られていて困っており、明日香に「恋人のフリ」をして助けてほしかった、という経緯があったことが明かされます。そんなことを知らない柊くんは、「明日香のうそつき」と一言送り、それから電話にも出られなくなってしまいます。そこに居合わせたシンにどうして?と問われると、「今は話したくない、と言うより、何を話せばいいのか分からない」、そして敬愛する建築家ガウディの名言【世の中に新しい創造などない。あるのは、ただ発見である】を引用し、「自分の中にこんな感情を発見するなんて思わなかった」そしてそれがどんなものなのかは「まだ俺にもわからない」と戸惑いを吐露します。

 この一連のシーンは、明確にそうとは言われていませんが「明日香と周囲の人間への嫉妬が芽生えたことよって、柊くんの中に眠っていた明日香への(恋愛的な)好意に気づいた」ように描かれています。恋心の気づきのきっかけが「嫉妬」であるという描写は、この作品に限らず恋愛ドラマではよくみられるフォーマットかと思いますが、しかしこのシーンをそれだけで解釈しようとするのは不十分と考えます。柊くんの中に芽生えたであろう感情を想像していくことで、クィアな人々が経験する「嫉妬」の裏に絡まり合っている、セクシュアリティに関する社会規範を考えていきます。

 

 まず最初に感じたであろう「戸惑い」。「あれは一体…?」という言葉からも想像できるように、別の人に「俺たち、付き合うことになったから」と言いながらも自分に好きだと言うことへの戸惑いは、塾の生徒の雑談から「二股」*2という表現で示されており、恋愛の文脈での裏切りに直面し、同時に理解できないものである恋愛自体への戸惑い、そして自分の中から「発見」された感情が、発見した自覚がありながら輪郭がつかめないことへの戸惑いを感じていると読み取ることができます。(そしてこの戸惑いは、「ない」ことがアイデンティティであるAセクシュアリティの、「悪魔の証明」的な自覚しづらさとも地続きのものであるとも言えます)
 次に「怒り・悲しみ」。まさに「明日香のうそつき」が表している感情です(怒りとは必ずしも激しさを伴ったものではないので、苛立ちレベルの感情であると読み取りました)。

 そして、このふたつの感情にかかわるのが異性(恋)愛規範を端に発した「不安」です。明日香と柊くんは「付き合」っており、捉え方こそ違いますが、その関係であることは互いに理解(合意)しています。一方で”柊くんが目撃した”明日香と瑞希の関係も「付き合う」であり、どちらも同じ名前の付いた関係で、言い換えるなら「三角関係」そのものだと呼べるでしょう。そうだとしても、明日香の立場からすれば自分が好きなのは柊くんだけであり、まさか瑞希とのやり取りを見られていたとも思っておらず、さらに瑞希とのやり取りは「フリ」なため、なぜ急に電話に出なくなるほど拒絶されたのか理解できません。

 

 明日香と瑞希が手をつないでいるのを見たとき、そして「俺たち付き合うことになったから」という言葉を聞いたとき、柊くんは「結局、異性(恋)愛規範には勝てない」という諦めの感情がよぎったのではないかと想像します。

※当ブログで頻出する「異性(恋)愛規範」の表現は、「異性愛規範」と「恋愛伴侶規範」とが互いに影響し合いながら社会に温存され、有害なパワーを強めている…という意味合いで使用しています。

 

 Aロマンティックは、「人間は誰もが異性愛者である」という異性愛規範と、シスヘテロのみならずクィアパーソンも内面化している場合の多い「人間は誰もが恋愛をし、その関係は中心的で排他的、かつ長期的な関係であることが正常であり、他の関係より優先して目指されるべきである」という恋愛伴侶規範によって、社会から二重に疎外されやすい存在です。なかでも恋愛伴侶規範は、Aロマンティックパーソンに限らずクィア、そして異性愛者を含めたすべての人々に対して様々な問題を引き起こしますが、私の思う、これらがAロマンティックパーソンに対して与える最も深刻な影響は、「自分の愛は無力である」という自己否定を経験しやすいことだと思っています。

 あらゆる関係性が存在する中で、恋愛関係に絶対的な価値があると設定された社会では、その関係を築かない・求めない人々は「大切な他者との関係」を獲得すること自体から遠ざけられやすくなります。「大切な他者」とは問答無用で恋愛感情の向く存在を指し、相手が異性なら「恋人」に、同性なら「友達」である(べき)と乱暴に振り分けられ、「友達以上恋人未満」という言葉によって、「友達」は「恋人」より格下の存在とされること、そんな前提が当たり前に受け入れられていること。恋人を作らなかったり恋愛や結婚をし(たく)ないと表明することで、他者に対して愛情を抱かない、欠落した人間だと見られること。*3たとえばその相手が「アイドル」であったとき、その感情は恋愛感情由来のものであるとされたり、現実的ではないものだと勝手に価値を下げられてしまうこと。「好き」を示そうとしても、その思いは「愛=恋愛」、つまり「“恋”愛以外は『(本当の/正常な/優先されるべき/特別な)愛』ではないというデフォルト化のされた社会のレンズを通して捻じ曲げられてしまうことを知っているから、大切な相手に愛を伝えることすら躊躇ってしまうこと。そうして「どうせ自分の愛は伝わらない」と幾度となく傷つきを飲み込むことによって、Aロマンティックパーソンは「自分は他者を愛することができない」と自らにスティグマを貼ったり、「大切な他者」を諦めたりしやすい状況に置かれているのです。Aロマンティックに向けられる「孤独(でかわいそう)な人」という偏見は、Aロマンティックを「恋愛感情を持たない」ために大切な他者を得ることができない…と見ることで生じるものですが、そこには異性(恋)愛規範が「大切な他者」や「好き」を諦めさせているという批判的観点が不足していると言えます。
 ただしここで注意しなければならないのは、この物語において明日香と柊くんだけを抜き出して解釈するのは解像度が荒すぎる、ということです。【柊くんに対する明日香】と読むとAro/Alloの軸が生じ明日香がマジョリティ側に立ちますが、明日香もまたクィアであり*4異性愛規範によって社会から排除されやすい存在です。ふたりの関係だけを比較するのではなく、彼らを構成する要素がある場面でどう機能しているのか、社会構造の中で彼らがどこに存在しているのかという視点を持ち、物語と現実社会の構造とを接続させて読んでいくことがこの作品の面白さであり誠実さであると思います。

 

 どうしても話がしたいとやってきた明日香に柊くんは動揺した様子を見せ、怪我を心配し手を取られると「離して」と拒絶を示します。ぎこちない態度に熱でもあるんじゃないか?と額に手を当てると、柊くんは手を外し「明日香のせいだ」「明日香がいると、集中できない」と再び頑なな態度を取ります。そんな柊くんに明日香は傷ついたようにさくま屋から立ち去ってしまいます。ここでも「すれ違い」が描かれますが、先述した通り、そこには恋愛伴侶規範がAロマンティックパーソンにもたらす様々な障壁が存在しています。そういった問題を描き出して「不幸な退出問題*5で曖昧にするのではなく、また柊くんの諦めに結び付けるのでもなく、この作品はそれらを会話によって規範の内容を見直すことで乗り越えようとしていきます。

 

 塾でシンを呼び止めた柊くんは、シンの手を取り自分の胸に持ってくると、「どう思う?」と問いかけます。ハァ!?と思わず手を引っ込めるシンに、「明日香のことを考えると胸が締め付けられる」「自分でもどうしたらいいかわからない、これって変だよね?」と、医大生のシンなら「異常」に気づくのでは?と真剣に相談します。

「いえ。俺はむしろ、湊さんといて胸が苦しくない時がないですけど」

「えっ?」

「そばにいてもいなくても、苦しいし、愛おしいし、腹も立つし、自分でも嫌になるけど、でもやっぱり、愛おしいです」

「愛おしい…」

 

でも俺は、慎太郎みたいにいつもじゃない

それは、人それぞれ違うんだと思います俺の湊さんへの思いは俺だけのものだし、柊さんの気持ちだってだってそうです。だからきっとあいつも、英も、柊さんに対して、あいつだけの思いがあるんじゃないですか?

 

 場面は変わり、柊くんは叔父である佐久間先生とご飯に行きます。佐久間先生は柊くんと明日香を子どもの頃から知っており、ふたりの関係を見守ってきた人物です。柊くんは「俺の猫だから」の話を持ち出し、「ただ、傍にいられればそれでいいって、だから俺もそう思ってた」「でも、だんだん苦しくなってきて、ただ傍にいるってことが難しい」と思いをこぼします。
 黙って聞いていた佐久間先生は微笑み、上手く言えないとしっくりこないような表情を浮かべる柊くんに、佐久間先生の目から見えていたふたりの姿を話し始めます。明日香がまだ小さい頃、柊くんの後ろをついて回っていたのがかわいらしかったこと。好奇心旺盛な明日香はよく父親に怒られて、泣きながら店に来ていたこと。そんなある日、柊くんが泣いていた明日香にキャンディーをあげたこと。その日から明日香が柊くんになつくようになり、毎日一緒にいるようになっていたこと。そして、「明日香くんに笑って欲しくてそうしているんじゃないですか?」と、それ以来常にポケットにキャンディー忍ばせていることを指摘し、そして「柊は、明日香くんのことが大好きなんですね」と語りかけます。

 

 明日香がさくま屋を出て行って以来、久しぶりに明日香の部屋でふたりは会います。そして柊くんは、明日香がカフェで女の子といるところを見かけたこと、そこで「付き合うことになった」と言っていたことは事実なのか、できればちゃんと説明してほしいと問いただします。
 「それって嫉妬してくれたってこと?」「建築のこと以外で、俺のことずっと考えてくれたってことだよね?」と気持ちが昂ったような明日香ですが、話逸らさないでと切実な柊くんの言葉に、あれは友達に恋人のフリを頼まれただけと説明します。え、それだけ?とあっけにとられた様子の柊くんの手を取り「俺が好きなのは、柊くんだけだから」「信じてくれた?」と、伝えます。その言葉に、

「信じるけど、なんか変」

今ちょっと、嬉しいって思ってる

と、淡く微笑みながら答えます。

 

 昼間に明日香から柊くんとの進展を聞いていたシンは、塾で柊くんが明日香と電話しているのを見かけ安心したように微笑みます。

「少しわかった気がする。今まで明日香が伝えてくれてた気持ちが、どういうものなのか」

「だから、これからは俺も返していければって思うよ。明日香がくれる気持ちと同じ量を返せるかはわからないけど

 

同じ量の気持ちじゃなくても、一緒にいられること自体が幸せだと俺は思います。そりゃ俺も、もっと一緒にいたいとか、今以上のものを求めてしまうこともあるけど、それでも、そうやってもがいている時間も含めて、幸せなことだと思うから」

「…そんなもの?」

「はい。そんなものです」

 

 

 異性(恋)愛規範によって自分の感情を「好き」と呼ぶことを諦めさせられてきた柊くんは、明日香に対する思いを「集中できない」や「胸が締め付けられる」と、好意の文脈で語ることはせず(できず)、精神状態の異常と認識しています。それに対しシンは、相手の存在がもたらす感情のポジティブ・ネガティブな側面どちらもあるとした上で、全てをひっくるめて「愛おしい」のだと、「異常(/正常)」なものでもなく、それらに恋愛のラベルを貼ることもなく説明します。さらに、その感情は必ずしもいつも続くものではないと「恋愛関係は長期的でなければならない」という規範をやんわり否定しながら、感情は人それぞれのもので、柊くんには柊くんの、そして明日香には明日香の、関係の当事者どうしであってもそれぞれの思いがあるのだと、「愛おしい」を個別化していきます。

 佐久間先生との会話によって、柊くんがポケットにずっと忍ばせてきたキャンディーの意図が言語化され、もしかしたら柊くんも無自覚だった明日香への思いが存在していたことが明らかになり、その思いは「大好き」と呼ばれるものだということ知ります。それによって、これまで明日香に向けてきた思いを、輪郭が曖昧であることも含めて「好き」だと肯定することができたのだと思います。
 自分に「好き」が存在することを肯定できるようになったことで、「”今まで”明日香が伝えてくれた気持ち」も「好き」であると信じられるようになり、その思いに、”これから”応えていきたいと、未来─それは非・恋愛規範的な「好き」がそのまま存在することができる未来─の可能性を見出します。そして、同じ量でなくとも「一緒にいられることが幸せ」だというシンの言葉で、同量のものを返せなくともいい、同じでなくてもいいのだと、変わらず変化を求めない誠実な態度で肯定されることで、柊くんは自分の感情としての「好き」を獲得できたのだと思います。

 柊くんは何が「嬉し」かったのか。それはきっと、過去~現在~未来にまたがり存在する明日香への思いを肯定することで、「好き」を自分の感情として獲得し、それにより「自分の愛は無力である」という諦めを克服できたことなんだと思います。思いの肯定を現在のみならず過去にまで遡及して実現させ、そして「好き」を獲得したことで見えた未来に応答したいと希望を口にできるようになったこと、そして「猫でもいいからそばに置いてよ」から…いや、それよりずっと前、ポケットにキャンディーを忍ばせるようになった頃からの思いをようやく「好き」だと思えるようになったことで、大切な相手から「好き」を向けられる喜びを、初めて感じられるようになったことは、これからの柊くんにとって本当に大切な出来事になったのだろうと思います。

 

 

 

 シーズン1では、柊くんのAロマンティシズムが明日香の受容という形で肯定される姿が描かれていました。今回取り上げたシーズン2では、一般的には恋愛に付随すると捉えられる「すれ違い」「嫉妬」が前提としている規範を読み解き、それらがAロマンティックパーソンにどう有害な影響を与え、その中でも特に深刻な「自分の愛の諦めやすさ」とはどのような過程を踏んできたことで起こっているのかを明らかにし、「諦め」とは異性(恋)愛規範による愛の自己否定の蓄積の結果であることが浮き彫りにされてきました。
 クィアリーディングによって異性(恋)愛規範が覆い隠してきたそれらの問題点を明らかにすること、そして周囲の人々がそういった規範を見直す役割を担うことで、Aロマンティックパーソンに向けられる「愛のない、欠落した人間」というスティグマからの脱却、愛の無力化を克服し、柊くんが自分のための感情としての「好き」を獲得し、自らのアイデンティティと愛を肯定する姿への変化を読み取ることができます。ようやく明日香の『好き』が柊くんに届いたことで、そして柊くんにとっては、無力だと思っていた愛を明日香の存在を通して獲得できたことで、柊くんの明日香への思いが(再)確立され、ふたりの関係の可能性が少しずつ開けていきます。

 

 

 ここで一区切り!次回は8話の温泉旅行から最終話までのあす柊を追っていきます。そちらも引き続きお願いします!!!

 

~おまけ:コインランドリーの写真たち~

 

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ALT:みなと商事コインランドリー(コインラインドリー白い家)の外観

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ALT:コインランドリー隣の管理人スペース。シンみなのポップが奥に置いてある。

 

 

 

 

 

 

*1:

現代思想Vol.49-10【恋愛】の現在(2021年、青土社」の中の『クワロマンティック宣言─「恋愛的魅力」は意味をなさない!(中村香住)*5』によると、「クワロマンティック」という性的指向の一般的定義は「自分の感じる(他者の恋愛的魅力とそうではない)魅力のちがいを区別することができない人、自分が魅力を感じているのかわからない人、恋愛的魅力や性的魅力は自分に関係ないと思う人」と紹介されているが、クワロマンティックとは「恋愛的魅力が『わからない』」という『意味間の違いではなく「『恋愛的魅力』と『恋愛の指向』が『意味をなさない』」ということに関するものだった、つまり「恋愛的魅力」という社会にあるモデル自体に積極的に抵抗するアイデンティティであると説明しています。そして、イギリスの社会学アンソニー・ギデンズの提唱した「純粋な関係性」を引用し、その関係性を築いていく相手を「重要な他者」としていく当事者実践について述べられています。

〈「重要な他者」との間で何よりも一番大事な実践は、まずその人との関係性を一から積み上げ、相手と自分の間にしかない固有の文脈を構築していくことである。それは、相手と何度もあったり話したりしているうちに、自然と積み上げられていく。とくに発話行為の積み重ねによって、相手と自分の間でのみ通じる共通言語のようなものが生まれていくそれは、世界の分析枠組みを新しく獲得することでもあると私は感じている。 ─「現代思想Vol.49-10【恋愛】の現在(2021年、青土社」より『クワロマンティック宣言─「恋愛的魅力」は意味をなさない!(中村香住)』から引用、p66〉

〈その上で、一番難しいのは、『重要な他者』たちのことを、外から見ても、私にとって大切な人たちだと認識してもらうことだ。(中略)─だが、たとえば世間一般において、「恋人」であれば、その二人の関係性においてなど詳しく知らずとも、すなわちその人にとって相当に重要な存在であることが誰の目にも明らかだしかし、重要な他者」たちの場合、それは難しい。「恋人」といったわかりやすいラベルが貼られていない相手に関しては、ほとんどの人は、「(ただの)友達」のカテゴリーに入れようとする ─同上より引用、p67〉

…つまり、いくら相手を「重要な他者」としようとしても、この社会では「恋人」とされるか「(ただの)友達」とされてしまうのです。この不幸な二者択一を迫られることが、先述した恋愛伴侶規範の大きな弊害と言えるでしょう。 その上で、氏は自身の実践についてこう説明しています。

〈そこで最近は、関係性に暫定的に名前をつけるという実践を行ってみている。(中略)─あくまでも関係性は今後も変わりうるという前提のもと、ある程度の関係性が構築されてきたらいったん名付けをしてみる。そうすることで、友情か恋愛かなどといったどうでもよい区別とは別の地平で、その人との固有の関係性を重要なものだとみなしやすく/みなしてもらいやすくなる ─同上より引用、p67〉

 

ドラマ「みなと商事コインランドリー」の柊くんをクィアリーディングする~シーズン1編~ - 光を見ている

*2:ここで示されている戸惑いや「二股」といった批判は、モノガミックな規範を前提としている場合に生じるという視点も必要です

*3:※このような言葉を浴びせられたとき、「Aロマンティックだからといって誰も愛さないわけではない、我々は愛情の欠落した人間ではない」と抵抗すると同時に、「そもそもこの社会での『愛』が異性(愛規範によって規定されているのだから、そんなものに支配された『愛』なんて我々には無価値である」という抵抗の両方を取ることが必要だと思っています。私の立場表明としての追記です

*4:今回はドラマ版を取り上げているため、ノベルやコミックの解釈をどこまで取り入れるべきはは悩んだのですが、ノベル「ひいらぐ旅路」から明日香はバイセクシュアル、もしくはパンセクシュアルの可能性を読むことができますし、またドラマだけ見ていても非異性愛者の可能性は十分読み取れますよね

*5:既存の規範を脅かすことのない範囲内で、物語に起伏をつけるためだけにマイノリティ集団が登場させられ、その集団がマイノリティとされる根拠の(有害な)社会規範は温存されたまま、あるいはその問題点は指摘されることのないまま進行し、経験する傷つきや苦しみは単に『悲哀』に矮小化され、そして中心に存在する登場人物(そのほとんどが社会的マジョリティである)の豊かな経験として吸収され、いつの間にか物語から去って行く表象」の有害さを、勝手にこう呼んでいます

20240313

 想像力がない、気づくのに時間がかかる、自分だったらどう思うが苦手・わからない人間だなというのを働くたびに感じてしおしおになる。ふつうの人が、もうすぐ3年になるシゴトで自己嫌悪が止まらず30分も泣き通しながら帰りの車運転する状況にあるのかとか教えてほしい。どうですか?

 

 いわゆるケアワーク従事者で、時と場合によってマジの1対1にもなるんだけど、その場の判断とか対応が求められて、やってきたことを報告してそうじゃないよね、だったとき「自分だったらどうか想像してみて」的なことを言われる、それは確かにそう。になるけど、想像力を働かせることが苦手な人間はどうすりゃいいんだろう。いつもの状態でそのことだけ考えればいい場面だったらまだ根拠を持ってできるけど、判断が必要なときって些細であってもイレギュラーなことが起きてるときで、そうなるともうダメになる。とにかくその場・その瞬間で・やらなきゃいけないことをやることだけに焦点が行って、そうなると常識とか落ち着いて考えればとか、自分が帰ったあとを想像したらとかが頭から抜ける、そしてヒヤリハット〜事故の境界線を行ったり、なんでそれがわからない?に突っ込んでったりする。

 想像するとか自分に置き換えるとかのキャパがない人間ができることって、結局のところ経験するしかないと思ってて、それを対人職でやるって相手を傷つけたりbetterの対義語としてのworseな状況に追いやったりすることになって、そういう自分に自己嫌悪が止まらん。マジで一つのイレギュラーでその後の過程がすっぽ抜けるのはどうして?だし、ワーキングメモリーの小ささに対応するために自分が覚えるんじゃなくてメモ取ったりして、如何に自分が覚えないでいてもいい環境を作ってきたのに、ここで急に自分の判断が必要ってなったらすんごい求められるハードル上がるし。そして、自分の判断なんてレベルのものじゃなくて、それこそふつうに考えたらとか自分だったらどうか、が求められているので、それが苦手だったらもうどうすりゃいいんだよ...そういうことができない自分に傷ついてる、多分相手を傷つけたりworseなことをしてしまったことよりも。これを利己的と呼ぶけど、想像力ってどうやったら持てる?優しさ?優しさも想像力も、それを行えるという技術で、私は優しさとか気遣いを表に出すのが下手な自覚があるのでその点で優しい人だとは思ってない。私のコミュニケーションは相手のことを思う行為というより、どうにかまともに近づこうとしている努力の結果みたいなやつなので常にぎこちないし機械的な感覚がある、自然さとかない。それも経験でしかカバーできないんだろうなというのが辛い。

 

 どうすればいいかという想像が苦手なのは、それこそAS(念のため、autism spectrumの頭文字ね)傾向の特性と呼ばれる分野でもあるんだろうけど、プラスそういうことで困ってきたときにそれを「困った」と自覚できてなかったり、自覚したとして助けを求める方法がわからなかったり、SOSを出しても助けてもらえなかったこととかとも跨ってることなんだろうななんて思ったりしてる。SOSを出しても、なんていうとめちゃ他責っぽいけど、要は説明が下手すぎたり自覚できてなかったりで私の出したそれがSOSと把握されてなかったのもある。でも自覚できなかった、それを表現する言葉がわからなかったのは私だけが引き受けることでもないしな?自分の持ってた困りごとを一番最初に助けてあげられたのは、メンクリにアクセスすることを決めた自分だと思ってるけど、それ自体はいいことだけどでもハードモードだったと思うし。

 

 想像力がないけどずっと趣味で文章を書いてきたのは、何なら私は一次・二次創作もするタイプなんだけどそれはなぜ?と思ったけど、それらは想像じゃなくて解釈だからなんだよなたぶん。考えることは好き、そしてテキストに向けるということはその場でプレビューが返ってくるのでその場で色々気付けるという、好きになるべくして好きなんだな、書くことが...シゴトの場で発揮される自分のできなさで、そうではない場での自分の良さを隠したくないなと思った。シゴトでも、優しい人になるのは目指さなくていいしふつうになろうともしなくていい、それは果てしなすぎるから、経験の中でなるべく多く考えて、最小限の傷つきを発生させるに留めようとする気持ちでやらなきゃなのかなと思う。諦めと自己受容のいい塩梅がそれかも。文章にしてたらやっと落ち着いてきた、やっぱシゴトでのできなさでこういう文章を書けるとか、それこそクィアリーディングみたいなことをしているのを良さとして理解できる自分でいたいし、想像力がないからこそ社会を見ようとすることをやめずにいたい、そう思える自分でいたい思いは持ち続けたいな...スーパーの駐車場で書き上げたらやっと落ち着いた、酒でストレス解消しようとするきらいがある人間なので、どんなにしんどくてもほどほどに、酒以外で、それこそこういう文章みたいな他の方法で消化させられるようにしないと、なんせまだまだ続くケアワーク従事人生、来週の観劇のために...

それでも、僕には君が必要と思えること 〜アコースティック超特急「せぶいれのうた」(初)乗車記〜

 

 「アコースティック超特急 せぶいれのうた追加公演」、初乗車してきました!!!好きになってからの初めての現場がせぶいれという7推しとしてあまりにも幸運なタイミングでのライブ、本当に楽しくて最高でした。初乗車ブログは初乗車のときしか書けないので、覚えているうちに感想を書いておこうと思います。このライブは私にとって本当に大切な出会いで、ライブの話、私の人生の話、それらが交差するきっかけになったある曲についての長い文章になっています。では!

 

 

 当選がわかってからの期間、完全に初めての界隈に行くこともライブに行くことも久しぶり過ぎて高揚の日々を過ごしていました。その間も怒涛の勢いで流れてくる情報に溺れ、T.I.M.Eの配信に大感謝し、「辻褄」の写真でメチャクチャになり、1stEPの報に大歓喜し、マサヒロさんのビジュアルにメロメロになり、リョウガノス。の文章があまりにも良すぎて好き......になっていました。あとコロナになりました。マジで行く前に回復してよかった。

 タカシくんファンであると同時に超特急ファンの自覚も持っての参加だったので、8号車カラーであるピンクを取り入れたくて、白っぽいピンク...でもあんまりキツくない色...と探しに探したネイルをいざ塗ったら、最終的にシューヤさんの髪色っぽい発色になり、なんか一周回って全部カバーしたわがままネイルが完成しました。CAN◯AKEの企業努力に感謝。クリアでやわらかいベビーピンクに、タカシくんファンの気持ちとせぶいれファンの気持ちと超特急ファンの気持ち、全てを爪に託して会場に向かいました。

 

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ALT:大宮ソニックシティー大ホールの電光掲示板。「超特急(タカシ・シューヤ)アコースティッ」「開場18:00」「開演19:00」「終演21:00」

 

 

 いざ自分の席に着き、会場BGMを聴きながら吐き気と闘っていると(※私はライブ前や観劇前など、楽しみと緊張が混ざりテンションが上がるとえずきそうになる最悪体質を持っている)、ぐっとBGMが大きくなり、客電が落とされ、そして上手から白い衣装を着たタカシくんが、下手から黒い衣装を着たシューヤさんが登場しました。知ってはいたけど、タカシくん、デカい。そしてマジで顔が小さい。なぜあのサイズ感で顔が握り拳くらいしかない?シューヤさんもシューヤさんで、あんなに全身黒のまあまあいかつい衣装のパワーを無に帰する勢いで髪がピンクで、顔の全てのパーツが丸くて、トータル圧倒的にCutestだった。うわ〜画面越しでしか会ったことのなかった人たちが目の前にいる......と思っていると、どこか聞き覚えのあるイントロが流れ、あっと思う前にタカシくんの歌声が会場中に降り注ぎました。ホールという箱、席が本当に0番センター(完全などセンターすぎて、もしかしてふたりは私を境にシンメってるのか?私もキンキに挟まれたみたいにこれから売れるのか?と雑念がちらついてしまいました)で、ステージとも程よい距離感で本当に音の聞こえ方がいい場所だったのですが、タカシくんの歌声は、その名前の通り空間ごときらきらと輝きながら照らし、それを浴びる私まで明るく透明に色づかせてくれるような素敵な歌声でした。

 

 1曲目、『Asayake』。ライブって、会場でその瞬間に好きな人と対面し、同じ空間を共有する幸福ももちろんあるんですけど、ライブを経ることで、その時出会った人や音楽が自分の人生のものになっていくという「その後」にも意味があると思っています。参加時点での私の超特急楽曲知識は、信じられないペースでakolとGuiltyを往復するほかは、超チューブでダンプラを見たりゆねくでT.I.M.Eを見たりすることで自然と覚えていくか、運転中にアマゾンミュージックで新世界のライブ音源を聴くか、端的に言うと知らない曲の方が圧倒的に多い状態でした。まあ10年以上のキャリアがあるグループなんだから2ヶ月で追いつかなくてもいいでしょ、むしろ「ライブで初めて出会った曲」経験ができるのは推し歴が短い今のうちだけと特段そのスタンスは変えずに当日を迎えました。そして歌われたこの曲、ライブの瞬間は1曲目だし初めての超特急だし初めてのタカシくんと、あまりの情報量と輝きにやられて呆然としながら目の前の光景を眺めるしかできないでいたので細かいことまでは覚えていないのですが、曲名通り、そしてライブの幕開けにふさわしい晴れやかな曲と歌声だなと感じました。そして今この文章を書いているとき、つまりライブから日常に戻った場面での話なのですが、1日にミスを3つほど、そのうち1つはそれなりの大きさのものをやらかし大変な自己嫌悪に陥っていたところ、帰宅してシャワーを浴びながら超特急プレイリストからふと聴こえてきた

自分で掴んだ自分が どうしようもなくていい

の詞があまりにも染み入って、その瞬間からこの曲が大好きになりました。ライブの瞬間よりずっと長く続く人生を支えてくれる歌と出会えたこと、それを素敵な人たちが歌ってくれたことが本当に嬉しいです。人生の中で何度でも出会い直すチャンスがあるのが幸せですね。

 続いて『Call My Name』。これを生音でやるの最高!この曲はハッピーなエナジーを表現するためにもダンスパフォーマンスありきの曲だと勝手に思っていたのですが、ボーカルだけで歌われるのもまた違ったノリの良さを浴びられて最高でした。あとライブだとどうしてもカメラに抜かれる回数や瞬間って限られてくるので、1曲を通してどんなパフォーマンスをしているのかを中々知ることができなかったのですが、今回ずっとタカシくんを見ることができ(基本自担ロックオン型のオタク)、タカシくんがあんなに自由に音に身を委ねて踊る人ということを初めて知りました。すごく素敵で楽しそうで、ああ今ライブに来てるんだな…と喜びに浸りました。

 『Re-TRAINからしばらく目を一瞬もそらせないような圧倒的な世界観と歌唱力の洪水が続き、そして不意にベースがどこか聴いたことのあるようなメロディを刻みだし、もしかしてうちゅ…?でもアコースティックライブで…?と戸惑っていたらそのまさかでした、『宇宙ドライブ』。この曲歌詞が本当に意味がわからないんですけど(ほめてます)(私のいた界隈で言う「トンチキ」でしかない)、これを本気(マジ)の真剣(ガチ)でやるから最高なんですよね。それでもアコースティックでやるなんてマジ?????と思ったけどすんごい楽しかった!!!8号車のペンラ芸を初めて見たけど各々が爆盛り上がりしててそこにいるだけで楽しいし、何より一緒に踊るのがめっちゃ楽しい。『Burn!』なんて、マジでダンプラ動画を見るしかしてこなかったのに気づいたら完全に踊ってましたからね。頭が考える前に体が動いてた。私はダンスを覚えるのがものすごく苦手なんですけど、超特急のライブは振りを揃えられた方が何倍も楽しいというのを身をもって感じたので、このライブを機にぼんやりとしかわかっていなかった「超特急です!」の動きを気合で覚えました。これでいつでも超特急になれると思うと、これからの人生心強くてしゃーないです。

 このライブで見え方が大きく変わったのは『My Buddy』でした。超特急で披露されたときは、可愛い振り付けと共に「超特急が8号車に向けて歌う、一人じゃ見れなかった世界を互いに照らし合いながらずっと進んでいこうと歌う、ファンも仲間だよと包み込む大きな歌*1」に聴こえていたのですが、「視線の高さは違っても」で”マジの身長差”を示しながらふたりで楽しそうに歌う姿のあまりのかわいさに悶えると同時に、「同じ景色を今日も明日も見ていたいね」が本当に切なる願いなんだろうな…になり、これをせぶいれだけで歌われると一言ひとことが重みを持って響いて聴こえてくるような気がして、彼らの実在が歌詞の意味を塗り替えた瞬間ッ…!と「文脈」を感じてぐっときました。そして本編最後に『Synchronism』を持ってくるのがさ…タカシくんとシューヤさん、せぶいれとファン、そして超特急とのつながりを感じさせる言葉が「見えない糸で繋がる星座なのさ」って、そんな美しい話ある??我々は宇宙に点在している個だけど、超特急という星と出会い、そしてせぶいれのうたという光線によって繋がる8号車という星座なんですね……

 

 ここからは皆さんご自身のスマホを出してください、と言われたのが「ペンラを出してください」に聞こえ、アコースティックライブのアンコールでペンラ曲やるのすげえ!どんだけぶち上げるんだ!と思ったら周囲が一斉にスマホを取り出し始め、マジかすげー今どき!になりました。そして披露されたのが『refrain』。この曲を初めて聴いたのはT.I.M.Eのシューヤさんソロ歌唱バージョンで、その時は画面越しでも痛いほど張り詰めた緊張感が伝わってくる歌声があまりにも切実に重く響き、これをもう一回聴くには心の準備が必要かもしれないと、正直T.I.M.Eの時はこの曲を引き受け切れないでいました。しかしYouTubeにて公開された『refrain』は、全く違う表情になっていました。シューヤさんはこの曲に漂う喪失の痛みやほろ苦さを、T.I.M.Eでは一人で歌うことで自分の中に取り込み、自分自身の物語として透過させることで、ふたりで歌うときにはそれらを乗り越えた今現在の立場から「振り返ったときにそこに確かにあった過去」にしたのだなと感じました。そうすることで、喪失の渦中にあったときには見えなかった自分、そして君の姿を見つけ出すことができた…という新たな物語を見たような気がしました。T.I.M.Eでの触れることすら許されないような孤独の中で歌うシューヤさんの『refrain』も大切なものですが、この曲をふたりで歌う姿を見られてよかったな、これが「せぶいれ」なんだなと感じました。私はこのアコースティックバージョンが大好きなんですよね。めちゃくちゃ気持ちいい音、グルーヴィーに溶けあうふたりの歌声、切なくて温かい空気感、どれもサイコー。私も撮影はしていましたが、構えたところからあんまり動かさないようにすれば大丈夫だろ、目の前でやってくれるのは今だけだろ!と思い画面はあまり確認せず、肉眼で見て浴びることを優先していた結果、改めて動画を見たらかなり揺れてて酔いそうになってるわ徐々に右に寄っていってシューヤさんが見切れそうになっている瞬間があるわ(ごめん)で、人に見せられるものではないな…になっていました。あと自分の「フォー!!!」という超楽しそうな声も入ってました。

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 シューヤさん、あんなに「魂」な佇まいでバキバキに歌うのに、いざMCになると終盤までずっとマイク両手持ちで超ラブリーでした。

 

 

 

 人生最初のファン体験をした頃から今に至るまで、基本DD気質かつ各グループに推しは一人しかできないタイプで、好きになった歌い踊る人たちから派生的に興味を広げていくことで、国内のアイドル、バンド、K-popグループなどにたくさんの好きな人たちが存在しますが、その中でも彼らのファンを名乗り、アイデンティティとなるまでには「そのグループの音楽を好きになる」経験が必要でした。今も私の中で「特別」の枠にいるV6を変わらず好きでいるのは、V6が作ってきた音楽が好きというのも大きく関係しています。解散を見届け、そして彼らを取り巻く環境と私の感情とを考え距離を置いている現在でも、ふと『明日の傘』が聴きたくなったり25thライブを観たりすることがあります。距離感や思いの濃度は変化しても、V6のことはこれからも過去にはならず好きなんだろうなと感じていて、やっぱり私の「ファンとしての好き」の感情は、音楽と強く結びついているのだと思います。

 超特急を好きになったのは、みなしょー2を見て草川拓弥さんが気になる→超チューブを見てグループ全体が気になる→TLで『Guilty』の文字をよく見かけるようになる→パフォーマンス動画も見るようになったタイミングでT.I.M.Eが開催され、配信で完全に好きを自覚、という流れです。真っ先に『Guilty』が出てくる私のTLは本当にサイコーなんですけど、よくよく思い出すとこのタイミングで超特急の中から「タカシくん」を個として認識していたんですよね。ダンプラ動画の方、2番のBメロのところで長い髪をバサッ!!と振り上げ、いかつい見た目と裏腹にマジに踊っている派手なシャツのこの人は何?とやけに目を惹かれたことを思い出しました。どんな出会い?

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(1:30~のところ。とにかく一度見て。9人でのバレピカムバ、お待ちしております)

 

 そして、この曲と同じくらい見かけていたのが『a kind of love』でした。検索すると一番上に出てきた動画のサムネイルには6人が写っていて、5人から9人になる前も人数編成が変わる出来事があって、今はいないメンバーがいるのだなと察し、ああ今自分はこれを見るのはきついな、と感じました。それくらい9人の超特急を、そして5人の超特急を好きになっており、だからこそ「不在」を感じるのが辛かったのだと思います。だからまずは曲だけ聴こうと、画面を見ることはせずにMVを1回だけ再生しました。そのときはちゃんと歌詞を追うこともしなかったためどんな歌なのかも知らず、メンバーの顔も知らず、そしてグループの構成やコンセプトも知らなかったため、なんで6人なのにひとりの声しか聴こえてこないんだろうと疑問に思った記憶があります。好きな雰囲気の曲という印象は変わらなかったためアマゾンミュージックを検索してみると『a kind of love(Re-ver.)』の文字があり、これはたぶん再録版なんだろうなと再生ボタンを押しました。改めて聴く華やかなイントロから続く心地よいメロディ、ふたりの温かい歌声、ユニゾンの美しさに感じ入っていると、サビのこのフレーズが流れてきました。

 

僕らなしでも世界は 必ず回り続ける

それでもね 僕には君が必要なんだよ

This is a kind of love

 

 そのとき、派手なシャツの人と「タカシくん」がつながり、そしてこの曲が好きで、この人が好きだと一気に引き寄せられることになりました。そこから徐々にパフォーマンス動画も見るようになり、その傍らで超特急についても調べるようになり、現在のメンバーになった経緯やそれまでのことについても知っていきました。そしてT.I.M.Eを目撃することで完全に超特急を好きになり、好きな曲もたくさん増えていきましたが、それでも一番好きな曲は『a kind of love(Re-ver.)』でした。

 

 私がこの曲を好きなのは、この曲が愛を歌っているからです。ここで私の人生の話をしますが、AロマンティックでAセクシュアルというアイデンティティを持っている私は、アイドルファンであることで愛=恋愛感情由来の愛とされ、自分が彼らに向けている感情をそういう社会規範に捻じ曲げられ、自分が持っている「好き」や「愛」といった思いや言葉を奪われることが本当に嫌でした。特に「女性として・男性アイドルのファンである」の構図に当てはめられるとき、そこには強烈な異性愛規範と恋愛至上主義が襲いかかってきます。それが嫌でファンをしている自分に嫌悪感を抱いたこともあるのですが、しかし私にとって彼らを好きでいることは何の偽りもない大切な感情で、その気持ちに救われてきたことが何度もあるからこそ好きを捨て去る勇気はなく、諦めたくもありませんでした。そのための方法の一つとして、ファンをしながら彼らの発する作品から自分のための物語を見つけ出し、自分のための愛の物語を取り戻すためにクィアリーディングをすることで、Aセクシュアリティに開かれた可能性を探すということをしています。*2 

 そんなときに出会ったこの曲は、まさに私が欲しかったものを歌っていました。君がいれば日々は煌めき、忘れられないものになる。そんな光景を知っていても、世界は自分の不在を何でもないかのように変わらず動いていくのだと言い切り、「それでもね」と、ただ僕には君が必要なのだと語りかけてくれるまっすぐな愛の歌に、自分の希望を重ねていました。

 そしてこの曲は、超特急史としても特別な意味を持っている曲ということを知りました。6人体制になって初めて──しかもそれは相方であるボーカルがいなくなり、タカシくんがひとりで歌うようになることを意味する──の曲で、そんな中歌う「僕らなしでも世界は必ず回り続ける」は、きっと曲の意図しない切なさややるせなさも響いていただろうと思います。このライブに乗車する少し前、6人時代のライブで歌われるこの曲の映像を見たのですが、そのときにはむしろタカシくんがこの曲を支えているような印象を受け、「僕と君」は「超特急と8号車」という遠くまで届いていったのだと感じました。Re-ver.を聴いたときも近いことを感じて、それはファンに届ける意図があったからこその聴こえ方なんだろうなと思っていました。

 この曲がセトリ入りしていることは知っている状態で乗車したのですが、どこで披露されるかはわからないままだったので、まだテンションが高くふわふわしていた3曲目で耳馴染みのあるイントロが流れてきたとき、最初に感じたのは驚きでした。中盤以降のいわゆる「聴かせどころブロック」で歌われるとばかり思っていたから、まさかこんなにすぐ対面するなんてと、心の準備をする間もなくふたりの歌を聴いていました。
 初めて目の前で聴いた『a kind of love』は、今まで何回も何回も聴いてきた中で一番明るく響いていて、不思議な感じでした。でもふたりが隣り合って歌うことで「僕と君」がその通り「タカシくんとシューヤさん」のものになったのだと思うとそれも納得というか。願いを語ってもすぐに「僕らなしでも」と自分とは関係なく回っていく世界の無情を背負い、それでも倒れないように歌っていたタカシくんが、「この先の未来 君と描いて行きたい」とどこまでも届くように希望を叫び、そしてバトンを受け取ったシューヤさんとふたりで歌うことで、「それでもね 僕には君が必要なんだよ」が力強く聴こえたのだと、曲の持つ意味が新たに生まれ変わる瞬間に立ち会った気がしました。

 

 ラスサビ前のパート、シューヤさんが

思い通り作り上げた どんな完璧なフィクションよりも たったひとり 君に触れていたいと思った

と歌ったとき、それまでまさにフィクションのように/だからこそ自分のためのものなのだと、ある意味心の中に閉じ込めていたこの曲が、私から飛び出して目の前のふたりと結びついたような不思議な感覚になり、そしてクィア(なファン)として自分の中にあった、どうしても完全には拭いきることのできなかった苦しさが唐突に晴れていったのを感じました。
 それは、自分は彼らを愛することはできても、「実際の生活の中で他者と継続的に関わることで生まれる親密性と、それによって築かれる人間関係」を理解できないこと、そして自分はそれをやるのはたぶん無理なことを、頭ではだから何だ、そのことで私は何も変わらないのだと(Aロマとしての)アイデンティティを受容しており、それにプライドを持っていると思っていても、自分でもよくわかっていないような心の奥ではそういう自分に傷ついていたことを、この曲とふたりに引っぱり出してもらったこと。そしてふたりが互いのために「僕には君が必要なんだよ」と歌う姿が現実の自分とリンクし、私の感情にもその名前がつくのだと思えたことでようやく叶った、「自分は本当の意味で他者を愛することは難しいのかもしれない」という呪いからの解放でした。私が彼らに向けている(向けてきた)のは「必要」という意味の「a kind of love」なんだよと教えてもらったような、これまでの人生を自分以外の存在から受容されたような感覚は、これからもずっと、大切に持ち続けていくのだと思います。

 

 

 私にとって「せぶいれのうた」は、最初の方に書いた、「ライブとはその時出会った人や音楽が自分の人生のものになっていくという「その後」に(も)意味がある」そのものだったなと思います。それまで聴いてきた曲がふたりの歌を通して見え方が変わったり、新たな魅力を知ったり、そして目の前で好きな人たちから届けられた歌に、これからの人生も支えてもらえると思えたことが本当に嬉しいです。タカシくんとシューヤさんの歌を聴けて本当によかった、せぶいれと出会えてよかった。次は超特急との出会いが待っていて、そこで見える景色がどんなものなのか今から楽しみで仕方ありません。それまでの日々は、そしてその先もずっと、ふたりが歌う『a kind of love』に照らされながら、彼らと人生を重ね合わせられたらと思ったライブでした。

 

 

*1:そしてそういう歌でも「時には必要デリカシー」と馴れ合いの態度には釘を刺す、境界線がしっかりしているところが大好き。個として存在してこそ他者とBuddyになれると思うので

*2:ちなみにみなしょーもそれができる作品だと思っており、そのことについてのブログをまとめています。もし興味があったら読んでみてください

signko.hatenablog.com

20240233

 久しぶりの日記スタイルで書いてく。ツイッターの移行先はブルースカイが楽そうだなと思ってるのでなんかあったらそこを本拠地にするつもりだけど、1ポストが300字(だよね?)できても、まとまった文章を書きたいときは連ツイするんじゃなくてここで書きたいよね。やっぱ長文に慣れ親しんできた人間だから...

 

 職場の歴の近い人たちと話す機会があって、それぞれの仕事の話からプライベートの話まで色々話したのだけど、首都圏に住んでいる人たちと自分の違いを感じてうーん...になった。違いという言葉で収めるにはあまりにも複雑なものを含んでいる、社会構造とか文化へのアクセシビリティとか。彼らが旅行のために貯金してると話す一方で、車のローンがきつくて遊びにかけられる額を減らさざるを得ない私(しかも私の住むところで車とは「生活をよりよくするためのもの、贅沢品」ではなく「ないと生活が著しく不便になる、準必需品」扱いのものである、というのがいまいち理解されてないっぽい)、家族の介護のために異動した非関東在住の同期、ただの雑談で個々の生活のこと全てなんて明かさないのだからそこで話されたことだけがその人であるとは思わないけど、でも中心地から離れるほど選択肢って明らかに減っていくんだな〜というのを強く感じた。いいな遊んでばっかりで、じゃなくて私らもそっちを選びやすい環境があったら楽なのにな、という。選択肢があるだけじゃなくて、選びやすさやそもそもそれを思いつくか?というのって環境でマジで変わってくることを地方にいると痛感する。それこそ東京で生活している人の中で生まれも育ちも東京という人の方が少ないだろうから、地元を出て選択肢が多いところへ、と選んだ人が多いんだろうけど、物理的に距離が開くほどその方法を思いつけるか、思いついたとして実行に移せるかというのはより難しくなっていくじゃん?育ったところも今いるところも高卒で働く割合がまだまだ高いところなんだけど、それも結局親世代に大学進学という選択肢がなかったり、その前提に合わせた環境が出来上がっているから進学しなくても大丈夫なようになっていたりとかある。学歴主義みたいな話じゃなくて、進学する選択肢があるか、個人の意思だけではなくてそれを可能とする環境があるかっつー構造の話。うちは大学進学して家を出て一人暮らししろ、その後はあんたの人生だから自立して頑張れという大変風通しのいい親の方針で今の生活にたどり着いたけど、それでもやっぱ地元から完全に離れるのは思いつかなかったなというのにようやく最近気づいたからな...これにはジェンダーの問題とかも関わってくるのでシングルイシューで片付けるのは不可能な話で、だからモヤり続けるんですけど...

 

 去年正式に(?)ASD傾向がありますね、と診断が下りて、まあそりゃそうでしょうねというのが率直な感想なんですけど。特定の上司だけ知ってて(伝える義務はないし本当は言いたくなかったし言わなくてもよかったんだけど、誤魔化す方法がわからなくて言っちゃった。結果言ってよかったとは思うけどモヤ)、小さいところで気にかけてくれてたりフォローしてくれてるのを感じるのでそこは感謝してるんだけど、要望を出すのってむずい。些細なものであったり当たり前の要望であるほど躊躇してしまう。このままだとやりづらいけど、絶対に無理というレベルではないし、自分が気を張れば(※気をつけるではない)どうにか形にはなる気がする、ということが多すぎるから、これ言っても表面上はただ手間を増やすだけだよな...になってしまう。それは全然要求していいことだよと言われるほど、いやそれなら私が思う前にそうなってたはずですやん、そうじゃないってことはこれは過要求ってことやろ?になる。口を噤まされる感じがalwaysって感じ、疲弊です。私は適応のための努力はしたくないんですけど(なぜなら私が合わせる必要はなく、環境が変わるべきなので)、構造を変えるには時間もかかるし新たなコストもかかるし、何より人間同士でやることなので摩擦が起きるんですよね。特定の個人にではなく構造的に、周囲に磨耗させられてきた経験が多くて繰り返すのはふつうにしんどいのであんまりその役は買って出たくない...マイクロアグレッションの典型例やないか!!!AS傾向であることもAロマAセクであることも、別にこうのままで20数年も自分をやってきてるので慣れでどうにでもなってるけど、まじで社会に出ると想定されてなさに毎回新鮮に疲れる。

 

 

 超特急を好きになってからの初現場がもうすぐなんだけど、このために新しい服を買い、いい加減ボロくなってたけどまだ使えるし…だったメガネを買い替え、似合わないし嫌いな色ですらあったピンク系のネイルを買おうとしてる。この感じ久しぶりだし、界隈が違ってもオタクとしてのスタンスはそうそう変わらないんだな……になっている。あと1週間のうちにどれだけ体力が回復してくれるのか、どうなってますかね。

 

 

 

 

ドラマ「みなと商事コインランドリー」の柊くんをクィアリーディングする~シーズン1編~

 

 

 ドドド怒涛の勢いで超特急にハマったオタクです。こんにちは。現在初現場であるせぶいれのうたに向けてワクワクの日々を過ごしています。せぶいれのうたというところで察せられるかもしれませんが、私はTL受動喫煙により『a kind of love』という最高救済ソングとBULLET PINKちゃんという最高QUEENを目撃したこと、そしてもうひとつのトピックにより超特急と出会い、ゆねくでT.I.M.Eを見てああこれは好きなやつ......となり、現在推しメン登録を7号車・タカシくんにしています。自分でもどうしてタカシくんにこんなに惹かれたのかよくわからないのですが(往々にして沼落ちの決定的な瞬間を覚えていないオタク)、7号車推しになった今となってはいやタカシくんを推さない理由とは…?になっています。タカシ大切。タカシ素敵。基本的に各グループに推し・自担は1名制度が適用されるのですが、同時にDD気質でもあるのでエビダンに所属されている皆さんを好きになっているのですが、今すごい勢いでM!LKの吉田仁人さんにメロっています。かっこよくて……そしてあまりにもベストなタイミングでダンダンエビダンが放送されているおかげで、各グループの皆さんの顔と名前が一致し始めていてすごいです。

 

 タカシくん推しの私ですが、「超特急のみどりの窓口とはマジでよく言ったもので、まさに超特急に強く惹かれるようになったきっかけが、草川拓弥さんが主演を務める「みなと商事コインランドリー」というドラマでした。

https://www.tv-tokyo.co.jp/minasho2/

 

 私はめったにドラマを見ない&なかでも恋愛ドラマは苦手とか嫌いとかの分類にあたるタイプの人間なのですが、このドラマは1期、2期ともに完走し、人生の中でもハマったドラマトップ3に入る大切な作品になっています。人生初のドラマポップアップにも行きましたし、まんまとテレ東本舗で写真も買いました。まずドラマを途中リタイアすることなく見届けること自体が私にとってかなりレアだし、ドラマのポップアップとかアイドルの展示にもほっとんど参加したことのない人間なので、作品を見る以外の方法で関わりたい欲求が出たのはほんとに珍しいです。その理由が、登場人物のひとりである柊くんというキャラクターの存在です。

 

 当ブログでは何度かこの話題で文章を書いているのですが、私はAロマンティック・Aセクシュアルの人間で、世にリリースされたコンテンツを取り上げ(特にスマイルアップ*旧J事務所のタレントが関わってきたもの)クィアリーディングし、Aロマンティックに読みとく…ということをいくつかしてきました。

 

signko.hatenablog.com

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signko.hatenablog.com

signko.hatenablog.com

 

 「クィアリーディング」とは、異性愛の枠内に性愛のあり方に注目し、異性愛だけを前提にした読解では抑圧されてしまう可能性に光をあて」ていく作品の読み方のことです。*1
 私がクィアリーディングをする動機は「世の中に自分のための物語があまりにも少なすぎる」からです。ヘテロに向けた作品が大多数を占める社会でクィアを扱った作品はまだまだ少なく、その中でも特にAロマンティック、Aセクシュアルは社会的な認知度も低く、そのために「そう」と読めるキャラクターが登場する作品はさらに限られており、正直全然足りないです。ここ数年の間に、web漫画、テレビドラマ、映画などでAスペクトラムパーソンと明言されていたり、そこまでではなくとも匂わせられるキャラクターが登場する作品は徐々に増えている体感はありますが、ステレオタイプ的な表象に留まっていたり、マジョリティ(非Aスペクトラム/Alloパーソン)に向けた描き方の域を出ないものが多く、私のための作品と思えるものはそこまで多くありませんでした。とか言ってる間にアマゾンプライムにて「ハズビン・ホテルへようこそ」という最高作品がリリースされました。みんな見て。主要キャラクターであるアラスターはアセクシュアルであると明言されています。まあ私はハスクおいたんが一番好きなんですけど......

 

 そんな中で出会ったドラマ「みなと商事コインランドリー」における柊くんは、セクシュアリティを明言されてはいませんがとてもAロマ的な人物であり、そしてAロマパーソンとして非常に魅力的に描かれていました。そこで今回は、ドラマみなしょーシーズン1における柊くんにおいて、どの場面からAロマンティックパーソンと読み解くことができるかの解説、Aロマパーソンからこの作品での柊くんのAロマンティック可能性について、そしてあす柊とはどのような関係だったのかを書いていこうと思います。

 

 

 

注:このブログでは「Aロマンティック(Aロマ)」を「他者に恋愛感情を抱かないセクシュアリティ、及びそうである人」という意味で使用します。

 Aセクシュアリティについてもっと知りたいという方は、こちらのサイトをご覧ください。

acearobu.com

note.com

 

 

 シーズン1では、何と言っても湊さんとシンの出会いから付き合うまでの経緯に重点が置かれているので、明日香と柊くんの関係はあまり深くは描かれていません。しかし、柊くんのAロマ可能性を読み解くためのセリフやふたりの関係性の意味付けなど、クィアリーディングのポイントはたくさんあります。

 

 

 ふたりの展開が動き出すのは9話からとなります。ここまで明日香は柊くんを「何考えてるかわからない」けど気になる存在として意識しているように描かれていますが、柊くんが勤める塾の生徒であり、シンの妹である桜子が柊くんを気になっており、告白しようとしていることを知ると、柊くんが桜子をどう思っているのか探りを入れます。

「あんなかわいい子に言い寄られたら、柊くんも即OKしちゃうよな?」

「ん?なんで?」

「…好きになっちゃうだろ?」

今まで好きとか嫌いと考えたことないし、付き合うとかよくわからない

 

 思ってもみなかった柊くんの答えに戸惑いを隠せない明日香は、柊くんの海外留学についていき、旅先で「お誘い」を受けたときに「(明日香は)俺の彼氏だから」と柊くんに言われたことを持ち出し、「俺たちが付き合ってたあのときも…」と言いかけると、「付き合ってないだろ?あれはただの”ふり”」とすげなく答えます。「俺が柊くんについてってから、俺らずっと恋人同士として旅してきたわけじゃん。だから、俺は結構マジで柊くんのことを…」と言いかけるも、柊くんはピンと来ていない様子を見せます。その表情を見て「俺はてっきり柊くんもその気あんだって…」と言いよどむと、少し考え明日香は、俺の猫だからと言い放ち、ひとりで歩いていきます。明日香はその後ろ姿を呆然と眺め、「猫?」と声こそ出さずともものすごく困惑しています。

 

 この場面では、柊くんのAロマンティックな可能性と、明日香との関係性の解釈について読み解いていこうと思います。

 Aロマンティックを説明しようとするとき、「好きという感情が(わから)ない」「付き合いたいとか、ドキドキするとかが(わから)ないといった表現がよく使われます。(先に挙げたドラマ「消えた初恋」でも、井田は「好きとか嫌いとか俺にはよくわからねえんだ」と語っており、そこからクィアリーディングの可能性を掬い上げることができました)よって、こういったワードを発した登場人物はAロマパーソンであると読めるかもしれない、と察するきっかけとして機能する側面があると考えていいと思います。

 そして、ここで注目したいのが「明日香は俺の猫だから」です。何の脈絡もなく出てきたセリフに見えますが、ここからはいくつかの意味を読み取ることができます。

 柊くんは「付き合っていたと思っていた」ことは「そうではない、あれは”ふり”だ」と否定しますが、明日香の匂わせた「付き合いたい」「恋人同士になりたい」期待には、イエスともノーとも応えていません。一方で、この場面の少し後で、桜子が柊くんに告白するシーンが描かれるのですが、「柊先生、好きです。私と付き合ってください」という言葉に、一呼吸もないくらいの間で「気持ちはありがとうございます、でもごめんなさい」と明確に断っています。柊くんは、ガウディの人生を通してこの世界に「恋愛感情が存在する」ことは知っているようですが、自分自身は「好きとか嫌いとか、付き合うとかよくわからない」と感じています。でも「告白」がどういう意味を持つのか、自分が「付き合う」をすることができないことはきっとわかっていて、それを言葉にすることができる人なのです。(それもわからなかったら、きっと桜子の告白にもイエス/ノーでは答えなかったでしょう。当然、何がわかるか/わからないかはまさにスペクトラムで、何を理解していればAパーソン/ではないという基準はありません)
 「好きとか嫌いとか、付き合うとかよくわからない」ことを「わかっている」人に説明するのは面倒ですし、説明したところで理解されず、相手を戸惑わせたり、冗談と捉えられたり、「いつか運命の人が現れるよ」なんて的外れな励ましをされたり......と、伝えたところでこちらが傷ついて終わる経験を何度もしてきているのだと思います。なぜなら、この社会には人は必ず、誰もが他者を(恋愛的に)好きになる」という規範が存在しているからです。これを恋愛伴侶規範:amatonormativity*2と呼びますが、この規範は「中心的で排他的な恋愛関係こそが人間にとって優先されるべきである」という前提によって成り立っているため、友情や、それら以外で表現されるのがふさわしいケア関係などの価値を、恋愛によって構築される関係*3と比べ相対的に下げられてしまう有害さを持っています。この規範が社会に入り込むことで、例えば「友達以上恋人未満」のように、恋愛の方が友情より価値がある…という考えが共有されたり(当然それらは優劣をつけられるべきものではありません)、人生を共にしたい相手と望む関係は結婚であり、それをすべての人が望むべきと社会から要請されたり*4と、まずいいことは起こしません。そしてこの規範は、他者に恋愛感情を抱かないAロマンティックパーソンを差別や偏見に晒し、人間関係を諦めさせたり、悔しい思いをさせたりすることがあります。そしてそういう社会で「好き」は恋愛に回収されてしまうため、彼ら(≒私たち)は「好き」という自分のための言葉や感情を、恋愛に奪われてしまっているのです(それがどれほど辛いか!)

 「好き」には応え(られ)ず、また明日香と「恋愛関係」を築きたいわけではない柊くんは、明日香の期待への反応を全くしない方法はとらず、「猫」という言葉を使って明日香との関係を定義付けます。そしてこの行為とは、明日香を非・恋愛規範的な存在である「重要な他者」とし、「純粋な関係性」としていく営みであると読めるのではないだろうか?と思いました。

 「現代思想Vol.49-10【恋愛】の現在(2021年、青土社」の中の『クワロマンティック宣言─「恋愛的魅力」は意味をなさない!(中村香住)*5によると、「クワロマンティック」という性的指向の一般的定義は「自分の感じる(他者の恋愛的魅力とそうではない)魅力のちがいを区別することができない人、自分が魅力を感じているのかわからない人、恋愛的魅力や性的魅力は自分に関係ないと思う人」と紹介されているが、クワロマンティックとは「恋愛的魅力が『わからない』」という『意味間の違いではなく恋愛的魅力』と『恋愛の指向』が『意味をなさない」ということに関するものだった、つまり「恋愛的魅力」という社会にあるモデル自体に積極的に抵抗するアイデンティティであると説明しています。そして、イギリスの社会学アンソニー・ギデンズの提唱した「純粋な関係性」を引用し、その関係性を築いていく相手を「重要な他者」としていく当事者実践について述べられています。

 

 「重要な他者」との間で何よりも一番大事な実践は、まずその人との関係性を一から積み上げ、相手と自分の間にしかない固有の文脈を構築していくことである。それは、相手と何度もあったり話したりしているうちに、自然と積み上げられていく。とくに発話行為の積み重ねによって、相手と自分の間でのみ通じる共通言語のようなものが生まれていく。それは、世界の分析枠組みを新しく獲得することでもあると私は感じている。

─「現代思想Vol.49-10【恋愛】の現在(2021年、青土社」よりクワロマンティック宣言─「恋愛的魅力」は意味をなさない!(中村香住)』から引用、p66

 その上で、一番難しいのは、『重要な他者』たちのことを、外から見ても、私にとって大切な人たちだと認識してもらうことだ。(中略)─だが、たとえば世間一般において、「恋人」であれば、その二人の関係性においてなど詳しく知らずとも、すなわちその人にとって相当に重要な存在であることが誰の目にも明らかだ。しかし、重要な他者」たちの場合、それは難しい。「恋人」といったわかりやすいラベルが貼られていない相手に関しては、ほとんどの人は、「(ただの)友達」のカテゴリーに入れようとする

─同上より引用、p67

 …つまり、いくら相手を「重要な他者」としようとしても、この社会では「恋人」とされるか「(ただの)友達」とされてしまうのです。この不幸な二者択一を迫られることが、先述した恋愛伴侶規範の大きな弊害と言えるでしょう。
 その上で、氏は自身の実践についてこう説明しています。

 そこで最近は、関係性に暫定的に名前をつけるという実践を行ってみている。(中略)─あくまでも関係性は今後も変わりうるという前提のもと、ある程度の関係性が構築されてきたらいったん名付けをしてみる。そうすることで、友情か恋愛かなどといったどうでもよい区別とは別の地平で、その人との固有の関係性を重要なものだとみなしやすく/みなしてもらいやすくなる

─同上より引用、p67

 

 この一連の流れが、まさに「明日香は俺の猫だから」という柊くんの言葉に表れていたと思います。
 柊くんは恋愛感情がわからないため、その感情を前提とした「付き合う」に応えることはできませんが、そのことを伝えても、明日香が理解した様子は見られません。(これは明日香個人の問題というだけでなく、そもそも社会は全ての人がその感情を備えているという前提で動いているため、「そうではない」人の存在を想定しないことがデフォルトとなっているという表れと読むのが自然だと思います)そこで柊くんは、恋愛に自分の感情を寄せるのではなく、固有のカテゴリーとしての「猫」という表現で自分と明日香の関係を説明します。つまり柊くんにとって明日香は「重要な他者」なんですよね。これを愛と呼ばずして何を愛と呼びますか?しかもこのすぐあとのシーンで、他でもない明日香の口から「(柊くんは)めっちゃ猫好き」と答え合わせされるんですよね……これを愛と呼ばずして何を愛と呼びますか!?!?

 

 

 東京観光から帰ってきた明日香は、その足で柊くんの元に向かい、そして柊くんに告白します。

柊くんのことが好きだ。すっげー好き

だから、猫でもいいよ、猫でも犬でも、サルでもキジでもいいよ。俺をそばに置いてよ

「何で、桃太郎…?」

「そうじゃなくて!俺は柊くんのことが、大大大好きだって言ってんだよ!」

 

ほんっとうにバカだね、明日香は

「わかった。明日香の好きにしていいよ

 

 柊くんは「ほんっとうにバカだね」とワンクッションを入れて告白を受けとめ、「明日香の好きにしていいよ」という答えを出しています。ですがこの言葉は、明日香を拒絶しているわけではないですが、どこか突き放しているような、諦めているようなニュアンスを感じ取れます。なぜでしょうか。

 

「でもそれでいいの?」

「え?」

そばにいるだけって、それって明日香にとって無駄な時間にならない?

 

 「明日香の好きにしていいよ」は、「俺をそばに置いてよ」への応答だったことが分かります。明日香が「猫でもいい」と柊くんにとって大切な意味のある言葉を使い、「そばにいたい」と具体的に何をしたいのかを示したことで、初めて応えられる可能性が現れました。しかし柊くんが応じられるのは「明日香を自分のそばに置くこと」だけで、「好き」にも「付き合う」にも応えられません。柊くんにとってそれらは意味の分からないものであり、また恋愛伴侶規範によって意味を奪われたものでもあるからです。その上で明日香の望むものを返せないこと、そのことで明日香を苦しませてしまう可能性をわかっていて、そうしかできないことを「無駄」なのでは?と考えてしまう。でも明日香のことを否定したくはない。そんな思いが柊くんの中にあったのだと思います。

 一般的に、(恋愛的な)好意を向けられた際に「No」を伝えるとき、想定されるのは「あなたのことを(恋愛的に)好きではないから、その思いには応えられません」です。このやりとりはごく自然なものですが、それは(恋愛的な)好意を向ける側も「No」を言う側も、恋愛感情を理解し、概念を共有し、互いにその感情が備わっていることを前提として初めて成立するものです。多くの人にとって、その構造の中に組み込まれていることは当たり前のことであり、特に不自由を感じることではありません。
 一方、Aロマンティックパーソンの言う「No」とは、「そもそも【(恋愛的な)好意】という前提に応えられない」という規範の否定です。同じに見える「No」であっても、そこには構造に取り込まれることへの抵抗が存在しています。しかしそれらは同じに見えるからこそ、「好意を問う質問に対しYes/Noで答え(ようとす)ることは、そこにどんな意図があったとしても「恋愛感情がある」という前提を受け入れたと誤解されるリスクが発生してしまうのです。それはAロマパーソンが遭遇するマイクロアグレッションのひとつであり、アイデンティティの否定ですらあります。

 ではどうやって抵抗すればいいのか。その一つが、Yes/Noで応じることが求められたとき、その問いかけに応えないことで恋愛を前提にした構造を拒否するという方法です。しかしこの方法は、Alloパーソン側にとっては単なる「コミュニケーションに難がある人」としか映らない場合が多いという問題があり、よって望まない人間関係からの孤立本当は手放さなくてよかったはずの人間関係の喪失のリスクを含んでいるのです。Aスペクトラムパーソンへのステレオタイプ的見方に「感情がない」というのがありますが、これは「恋愛感情がない→感情の欠落」という安直な構図だけでなく、上記のようなマジョリティ側に有利に設定されたコミュニケーション場面において、マイノリティが答えようとするには背負わなければならないリスクが大きすぎるコミュニケーションにはそう簡単に乗れない/しかし拒否するとそれは人格全体の否定に繋がりやすいため答えないわけにもいかない...という構造の問題があることが無視されがちです。こういった問題を解決するには、マイノリティ個人の問題として背負わされてきたものを社会構造の問題として正しく扱うことが必要で、そのためにもマジョリティを巻き込み、彼らが変化していくことが必要です。

 

 

好きな人とだったら、無駄な時間なんてないよ、柊くん

 そして明日香は、湊さんという「外の人」に「柊くんと一緒にいるようになったんだけど」と、「付き合う」という言葉を(一旦は)使わずにふたりの関係を説明ます。

 

 明日香は「猫でもいいからそばに置いてよ」と、ふたりの間において「恋愛の意味ではなく、好きなもの」を意味する固有のワードを使い、柊くんが応えられないと示した恋愛の前提を放り出します。そして、「恋愛規範的な答えはできない・しないけれど、それは明日香の思いに応えられないことと同じなのではないか、思いに応えることはできない自分のそばにいるのは無駄なのでは?」という「構造の中」の立場からの葛藤(≒規範の内面化)に、「あなただから意味がある」と柊くんの存在を受容し、「その前提に応答する必要なんかない、なぜなら自分は柊くんを好きなのだから」と返します。これは、恋愛感情を持つマジョリティ側である明日香が、恋愛の前提に乗っかる必要はないと脱・恋愛規範的な態度を示し、同時にその理由に柊くんが手放さざるを得なかった「好き」を使うことで、その言葉に自分たちのための意味を持たせようとしている...と読むことができます。

 

 シーズン1におけるあす柊は、「猫」のように、関係性の意味を恋愛の文脈以外の言葉で表現することで、自分たちを非恋愛的な固有の関係性であると定義づけ、恋愛に回収されてきた「好き」の意味を取り戻そうとする言葉と(固有の)関係性の再獲得、そして恋愛感情が(わから)ない人が、恋愛規範に応じない態度を取ることを肯定されることでアイデンティティを受容される姿を描いていた...と読み解くことができると感じました。

 

 

 ひと段落!!あす柊のキモはシーズン2にあるので絶対そちらの方も見てほしいですし、そちらのクィアリーディングも絶対やりますので、引き続きよろしくお願いします!!!

 

 

〜おまけ:みなしょーポップアップの写真〜

 

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ALT:みなしょー2のポップアップ。向かって左
右側が湊さんの衣装、左側がシンの衣装

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ALT:みなしょーのポップアップ。ふたりの腕時計、リング

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ALT:みなしょーポップアップ。壁に展示されている写真の1枚。二人が海で抱きしめあっているシーン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:

gendai.media

文言の説明と具体例が記載されておりわかりやすいため何度もこの記事を引用しているのですが、この記事以外にもクィアリーディングについての文章がもっと増えればいいなと思うし、なかなか増えないということは5年前からクィアリーディングへの社会の興味関心があまり変化していないのだろうということに若干もやっとしている

*2:

elizabethbrake.com

「恋愛伴侶規範」を提唱したエリザベス・ブレイク氏のサイトです。自動翻訳で日本語でも読めるようになっているのでぜひ読んでみてください。また、これを分かりやすく解説したのがこちらのブログです

note.co

*3:特に、社会的に結婚と結び付けられやすいもの≒つまり、現在の日本における同性カップルはこの規範の外に置かれる関係となります

*4:これは、いわゆる「未婚者」に向けられる結婚へのプレッシャーという肌感覚的な不快感から、ロマンティックラブイデオロギーが求める家父長制の維持とその有害さまで、広く問題を含むものです

*5:青土社 ||現代思想:現代思想2021年9月号 特集=〈恋愛〉の現在

井田、Aロマじゃね?? 〜ドラマ『消えた初恋』をさらにクィアリーディングする②【第5話〜第8話】〜

signko.hatenablog.com

 

 前回の続きです!

 

【第5話─「付き合う」という定義の書き換え】

 オリエンテーション2日目、またもや食材をほとんどゲットできなかったCランクの青木と橋下さんに対し、危なげなくAランクだった井田。Cランクふたりの会話を聞きながら少し考える表情を浮かべた井田は、カレーをクラス全員で作ることを提案します。「体力とか地図を読む力とか、みんな違うに決まってる。それだけで人を判断してランク付けするなんて変だろ」。これが井田から出たことにちょっと考え込んでしまいました…
 このセリフは、とてもマッチョなオリエンテーションのルール(しかし最終的に種明かしされた答え「協力すること」、つまり井田の答えが正解だったわけですが)への抵抗という役割を果たしているのですが、それを作中人物らのパワーバランス(どの程度マジョリティ側に近いか、もしくはマイノリティ側に近いかという権力勾配)においてマイノリティ側に位置する井田が、マジョリティの設定するルールによる違和感や負荷を受けやすく、それらに敏感にならざるを得ないこと。対してマジョリティ側である(もちろん彼らの中にもマイノリティはいたはずだと思っていますが、今回「そうである」と提示されているのが青木と井田だけなため、雑にマジョリティ側としています)クラスメートは、井田の言葉を聞くまでルールの不均衡さに気づかずに鈍感でいられるということを描いているようにも読めます。井田は阿久津と対峙し「そのルールはおかしい」と言うわけですが、これまんま”マジョリティが引き受けるべき「問題」”の矢面に立たされるマイノリティの構図じゃん…になりました。実際の社会では一人の人間をマジョリティ/マイノリティに区分することは不可能で、例えばジェンダー、社会的階級、人種、障害の有無といった様々な要素で構築されていることを理解しなければならない、と書きながら自戒しています。*1

 場面は変わって、阿久津に「お前たちだけがうまくいかなかったのは臆病だからだ、行動する前にあきらめるな、勇気をもって一歩踏み出せ」と鼓舞された青木(これも「青木が井田に告白すること」に対しては単に青木が臆病だから、だけでは説明できないんだけどね~~と思ったけど)は、振り返り井田を見つめます。そこにはあっくんたちと焼きそば作るの楽しかったね~と話しているような無邪気な井田の姿があります。きっと青木はそういう井田の姿を好きなんだろうなと思って「「愛」」が脳裏に浮かんできました。いいシーンだね......

 そして青木は決意し、ふたりきりで炊事場から少し外れたところで話を始めます。「(自分を好きということが)勘違いでよかった」に俺は傷ついたんだ、という青木の言葉に、井田は眉間にしわを寄せ考え込み、そして驚いたように「今、傷ついたって言った?」と問いかけます。ここでふたりは互いに本当のことに近づき、ついに青木が「お前のこと、本当に好きになっちゃったんだ!」と告白します。勇気を振り絞った青木はその勢いで「一思いに振ってくれ」と井田への思いを完結させようとしますが、井田は「本気なのは十分伝わってるから。…付き合ってみるか」と、まさかのOKが出ます。が、その理由が「なんかほっとけないし」だったことに青木は「真剣に考えてくれたんじゃなかったのかよ」と怒った様子です。すると井田は「考えた。考えた結果、結局考えてもわからないことが分かった」「とにかく、青木に真剣に好きだって言われて応えたいなって思ったんだ」「そういう理由でお前と付き合うのは、ダメなのか?」と答えます。

 このセリフによって、井田にとっての「付き合う」の意味とは、自分の「好きがわからない」ことは変えることのないまま、青木の好意を受け取り、応答しようとすることである、と理解することが可能です。これにより、井田は付き合う=当事者は相互に恋愛感情を持っており、恋愛の文脈で好意を抱いている、という当たり前とされてきた規範を壊し、友達ではない(思えば第3話の時点ですでに井田は青木のことを「友達ではない」と示しています)そして恋愛感情は必ずしも伴わないけれど放っておけない、思いに応えたい相手として青木という存在と向き合い、関係を作ろうとします。恋愛至上主義社会の中で、自分の本当の思いを偽り「恋人」になることをせず、しかしそれより格下の「友達」になる*2こともせず、井田は自分のための「付き合う」ことのを意味を示し、その相手に青木を選びます。こんなサイコーのAロマ宣言、地上波ドラマで見れるなんて思ってなかった。しかし、青木はこの宣言の意味を理解しておらず(それこそがAフォビアが我々に降りかかってくる理由…)、それがこれ以降に起こるいくつかのすれ違いの原因にもなっているのですが......ともかく、青木と井田は付き合い始めます。

 

 

【第6話─「(恋愛的に)好き」の規範を揺るがす/アイデンティティの獲得】

 井田は、青木の「俺らって付き合ってんの?」に対し「これからよろしくな」と返し、「それだけ!?何も変わってなくね!?」と戸惑う青木の姿に、「確かに...」と考えこみます。さらに「井田って俺のこと、好きなのか?」の問いかけに「わからん。そもそも人を好きになったことがないし」「比較対象がないことにはなんとも...」と、見方によっては(≒Alloロマンティック側に寄った観点から解釈すると)とても冷たく映る返答をします。

 青木は、付き合う=友達から恋人へとラベルが変化し、それに伴って関係性の中身も「友達」より特別なものに変化していくと考えています。だから、付き合ってもそれ以前の頃と態度が変わらない(ように見える)井田に不安を覚えているのです。この恋人関係は他のあらゆる関係より優先されるべきであり、特別扱いされなければならないという社会規範を恋愛伴侶規範*3と呼びますが、これは恋愛関係以外の人間関係で結ばれる絆やケア関係、愛情を「恋愛以下である」と価値を下げる有害な機能を持っており、これはAロマンティックスペクトラムへの差別につながると言えます。だから井田はこの規範を理解しない(受け入れず拒否する)んですよね。

 井田にとって付き合うとは、「好きがわからない」ことは変えることのないまま、青木の好意を受け取り、応答しようとすることです。変化を求められても、井田は「好き」がわかりません。そしてきっと、青木の求めている「好き」が自分の中にないものであることも自覚しています。自分の中にないから、外にある関係と照らし合わせることで青木への思いを理解しようとした井田なりの誠実さ──しかもそれは、青木(≒Alloロマンティックというマジョリティ側)の思いに応えようとした歩み寄り、しかもそれは、マイノリティがマジョリティに向けて設計されている規範に適合しようとする、あえてこの言葉を選びますが、本当は不要だったはずの努力、優しさによって発揮されたもの──は、しかし全ての人には必ず恋愛感情が備わっており、皆がそれを求めている、という規範を違和感なく享受できる青木にとっては理解できないものであり、井田の発言を「そんなのおかしい」と一刀両断します。その後の井田の傷ついたような表情が辛くて......恋愛伴侶規範に傷つけられるAロマの図、もう見たくねえな......

 

 ぼろ負けの試合が終わりうなだれる一同。そんな中井田は誰かを探すように辺りを見渡し、松内さんからもらった紙袋を持って体育準備室から出ていこうとします。すると松内さんが現れ、「あのさぁ…」と話しかけられます。しかし思い出すのは青木のこと。「あのさ、俺のこと、好きなのか?」「比較対象がないことには何とも」「それで付き合うっておかしいだろ!」先程のやり取りがリフレインします。唐突に松内さんから「付き合いませんか?」と提案され、驚く井田。「何で?他に好きな人いるだろ?」

 松内さんと先生の会話を聞こえてなかったと言っていたけれど、実は松内さんが先生にシューズ入れを渡そうとしていた会話が聞こえていたことが明かされます。青木の前でそのやりとりが聞こえていなかったと嘘をついたのは松内さんの思いを守るためだったと説明されていますが、これはAロマパーソンに向けられる「Aロマは恋愛が理解できないから、他者の心の機微がわからず冷たい」というステレオタイプを打破するシーンとも読むことができます。この社会で生きていて、ニュースや家族や職場の人との会話、さまざまなエンタメなど、パブリック/プライベート関係なく恋愛についてのメッセージは発信されており、常にそれらに晒されている私たちは、望む望まざるに関わらず恋愛に巻き込まれ、その結果恋愛について学習せざるを得ません。他者に恋愛感情を抱かないからと言って、必ずしも恋愛に関するあらゆることを理解できないというわけではないのです。だから、Aロマ的表象として恋愛を全く理解できないキャラクターが描かれると強く違和感を感じます*4し、井田が自然に松内さんの置かれている立場を慮る行動をしたシーンが挿入されていたことを好意的に感じました。

 谷口先生と似ているから井田も好ましく思っていると明かし、「こんなに(谷口先生を)好きだなんて、バカみたいだよね」と自嘲する松内さんに、井田は「すげえよ、そんなに思えるのは」と答えます。井田にとって「(わからないなりに)応答しようとすること」だった「好き」が、止められないくらいあふれ出て、伝えようとするものも同じ名前で呼ばれることを知り、「私と話してるのに上の空だったし」「ついつい目で追ったりとか」「今何してるのかなとか考えたりしちゃう」と、井田が青木に対して感じていたこともそう呼ばれることを教えてもらうことで、自分が青木に向けていた感情に「好き」という輪郭が出来始めます。

 …その「好き」とは、本当に恋愛感情でのみ語ることが許されているものでしょうか?
 たとえば好きなアイドルがいて、ふと今あの彼は何をしてるのかなと考えたり、グループで踊っていても自担を一瞬で見つけられるとか、そういう経験ってないでしょうか?そういう日常の中に入り込んでくる大切な存在に向ける感情を、「好き」と説明することは十分可能なことで、その感情とは必ずしも恋愛感情に基づいたものではないはずです。*5そして、その感情を他の「好き」と比べて劣っているとか、本物ではないとか、誰が言えるでしょう?それらもまた、松内さんの言う「好き」の定義に当てはまると言えないでしょうか?...つまり、ここで井田が輪郭を掴んだ「好き」とは、必ずしも恋愛的な意味とは限らない「好き」の可能性があるはずなのです。

 自分の青木に対する思いが少しずつ信じられるようになっていった井田は、自分にとっての「好き」の内容を言語化しようとします。言語化するとはつまり、井田が自身にとっての「好き」の定義を自分に示し、その定義によってアイデンティティを獲得していく重要なプロセスと言えます。その過程によって井田が獲得した「好き」は、他の関係との比較によって理解されるものではない、というものでした。これは、井田にとって青木は他の人、例えば「友達」「クラスメート」のようにこれまで自身の中にあったカテゴリーに分類される相手ではない固有の特別な存在であるということであり、井田自身が「そもそも人を好きになったことがない(から好きかどうかわからない)」、言い換えれば「他者に恋愛的な好意を寄せるという感情・感覚を持っていない」ことを受容したことを示していると読むことができます。他人ではないし友達でもない、でも【恋愛的に】誰かを好きになったことがなく、青木に対してもそうなのだから、青木のことも「好き」ではない…ではなく、【恋愛的に】好きではないけれど、でも自分の青木に対する思いは疑わなくてもいいものなのだと確信し、そっと安堵と喜びの表情を浮かべる井田。そしてそれは「人は必ず他者に対して恋愛感情を抱く」という規範から脱却することを意味するとも言えるのです。
 井田は青木を恋愛の文脈・関係性の枠から外し、その上で「俺、青木のこと好きなのかな?」と問いかけますが、これは青木に(恋愛的な意味合いでの)答えを求めたのではなくて、自分が「好き」という感情を(何となくではあるものの)理解したことを青木に伝え、青木が求めている「付き合う」の状態に近づけたらいいと思っているよ、という応答であり、「自分と青木」という非Alloな関係性の構築への第一歩なんですよね。ここで「井田の気持ち、ちゃんと聞けて良かった」と青木から井田にボールがパスされ、そして井田からもパスを返すやり取りを数回するのがめっちゃ希望でした。なぜなら、6話で井田がしてきた「好きの意味を(再)定義し、相手に伝える」ことは、Aロマとしてのアイデンティティのカミングアウトと同義であり、その上でこのやりとりが決して一方通行のものではなく、互いの思いを伝え合い、受容し合う未来への可能性を意味しているからです。井田は(両)片思い的なものではなく、ある意味互いの妥協点を探りながらふたりの関係性を作っていくことを望んでいて、大切な人と共にあるための方法を、諦めていないんですよ......
 6話は、井田のアイデンティティ獲得と大切な相手へのカミングアウト、そして相手に自分を拒絶されることなく受け止められる経験、という超重要な回だと思います。まじでこんなふうにAロマ的クィアネスを描く作品がありました??という感情でした......

 しかしそんな6話は平穏に終わるわけではないというのが面白いところです。青木は、井田のカミングアウト(と断言しますよ)を受けて「俺も、いつかお前から、本気で付き合おうって言われるようになれたらいいなって思ってるから」と答えます。井田は一貫して「好き(がわからない)」ことに焦点を当てて考え、そしてアイデンティティを獲得していきますが、青木は「付き合う」という言葉や関係を求めているようです。
 この「付き合うという枠組みを優先する青木」と「好きという感情に焦点を当てる井田」の対比から感じられるのが、まさに社会を覆う恋愛伴侶規範の支配の強固さです。青木は「好き」という感覚をわざわざ言語化する必要がなく、規範に沿った言葉の活用をしても違和感を覚えないマジョリティ側です。「好きだから付き合う(付き合いたい)」という構図を自然に信じている青木にとって「好き」と「付き合う」はほぼ同じことを意味しているため、青木は井田の思いを確かめるときにどちらの言葉を使っても(青木にとっては)あまり問題にはなりません。だから「付き合う」の前提条件とされている「好き」を青木とは異なる理解をしている井田との擦り合わせが必要ということに気づいておらず、結果井田のAロマとしてのカミングアウトの意味を完全には理解していないとも読むことができ、青木の振る舞いはマジョリティの特権に無自覚な態度を示しているとも読むことができます。初心LOVEが歌ってますけど、すれ違いの予感がすごいですね......

 

 

【第7話─「付き合う」を見直す】

 橋下さんがあっくんに振られてしまったことを知り、井田との会話もそこそこに急いで階段を駆け上がる青木。たどり着いた屋上でまず目に飛び込んできたのは、クラス公認カップルのるみと弘夢の姿でした。

 このシーンからは、2つの意味を読み取ることができます。まずは「付き合うって何すればいいんだ?」というごくシンプルな問いを投げかける井田、「付き合ったらすること」の理想に振り回されやすい青木への、「自分が好きな相手としたいことをすればいい、決まりなんてない」というアンサー。そして青木の理想という形で示される「恋愛のテンプレ」に1mmもかすっていない「学校の屋上でアフタヌーンティーを一緒に食べるという【モーニングルーティン】」と、るみと弘夢が置かれている状況を客観的にギャグっぽく描くことで、「付き合う」ことそのものをギャグっぽく見せる効果です。(るみと弘夢の関係そのものをジョークであると言っているわけではなく、彼らの様を「ギャグっぽい」として描くことでの効果の話です)
 ドラマの中で青木は井田との恋愛関係を求めており、同時に視聴者の多くもそれを期待しているはずです。その中で、物語の前提とされている「恋愛」をある意味面白おかしいものとして描くことで、恋愛は尊いものであり、全ての人がその関係を目指さなくてはならないという規範を軽やかに退け、ドラマをメタ的な視点から眺めている視聴者に対して恋愛の(不当に特権化された)価値を見直させる役割を果たしていると感じました。制作者にそういう意図があったのかはわかりませんが、クィアリーディングによってそのように読むことができるシーンが挟まれているのはとても画期的だと思います。

 一緒に昼飯を屋上で食べたいとテンパりながら打ち明ける青木。「飯食うだけだろ?」と戸惑いながらも了承する井田ですが、あまりにも嬉しそうな青木を見て少しほおを緩めます。まあこんだけかわいい顔をされたらそうなるよね。わかるよ井田。敢えてギャグっぽく描かれたるみと弘夢の楽しそうな姿がうらやましかったのだろうことがわかる青木の提案が、井田の「青木の素直なところ、すごいと思う」という惹かれポイントなんですよね…かわいいやつ。

 念願叶って屋上でふたりで昼飯を食べますが、青木にとって「ふたりきりの・ふたりだけの特別な時間」であるこの時間は、ただ一緒に昼食をとる以上の意味を期待が込められています。しかし井田は言葉通り「一緒に昼飯を食べる」だけで、甘い空気なんて微塵も発しません。そんな井田に青木は「そもそも井田は俺といて楽しいのか?何考えてるかわかんねえし」「付き合うってこういうことじゃない気がする」と、がっかりした様子で切り上げようとします。これは一般的な少女漫画的な読み方では「思いがすれ違うふたり」のシーンなのだろうなと解釈しましたが、なんせこちらは井田をAロマとしてクィアの話として読んでいるので、「何考えているのかわからない」とか、「付き合う」の規範に沿わない感情や関係の排除のされ方とか、とことんAlloロマンティックな世界に振り回される井田の姿に辛くなっちゃいました......

 青木が不安とさみしさを吐露すると、「俺はお前が喋るのを待ってただけだ。何か悩み事があるんじゃないのか?」と、自分が話さなかったのは青木が悩んでいるのを察していて、そのことを話し出すのを待っていたからだったと明かされます。しかも、「お前朝からずっと、何か別のこと考えてるみたいだし」と、「応答しようとすること」だけでなく、6話で松内さんが言っていた「ついつい目で追ったりとか」「今何してるのかなとか考えたりしちゃう」というような行動も背景にあったのだろうなと想像できるセリフが語られます。井田は青木をちゃんと大切に思っているし、直接的な言葉ではないけれど、ちゃんと好きであることが示されているんですよね。

 橋下さんのことと井田のことで悩みを重ね、「俺はとんだ移り気おせっかい野郎だ」なんてがんじがらめになっている青木に、「そんだけ一緒に悩んでくれるから、橋下さんも青木に相談したんじゃないのか?」と語りかけます。…きっと井田も、自分との関係について一緒に悩み、ふたりのこととして向き合っていくことができる相手として青木を見ているんですよね......マイノリティ側に悩みや問題、そして孤独を背負わせることをしないという描き方としても、井田にとってそういう相手がいて、それがとても大切な存在であるという物語としても、心強く救いになったシーンでした。何より、言葉にして伝えることを諦めていない井田が眩しい......

 委員長&副委員長の登場で、「橋下さんが失踪した(早退しただけ)」というニュースが飛び込んでくると、ことの経緯を知っている青木は眉間にしわを寄せ考え込みます。すると井田は「行ってこいよ。気になってんだろ?」と、橋下さんを追いかけることを勧めます。せっかくふたりの時間を過ごしているのに、と躊躇った様子を見せる青木ですが、「誰かのために頑張っている青木、すげえいいと思ってるから」と背中を押します。自分で言った言葉に少し驚いて照れているような井田の表情がまたいいのですが、このセリフを「付き合っている」関係にある井田が言うのは、「恋愛関係*6は何事においても優先されなければならない」という規範を打破し、恋愛至上主義からの解放を試みているようにも読めます。

 橋下さんとあっくんもなんやかんやで関係が壊れることなく続いていくことがわかり、微笑ましげにふたりを見ている青木の隣にやって来た井田は、「これからは困ったことがあったら、何でも相談しろよ」「付き合うってよくわかんねえけど、ふたりでいろんなこと話しあったり、助けあったりするんじゃないのか?」「少なくとも俺は、お前が困ってたら助けたいと伝えます。「二人でいろんなことを話しあったり、助けあったりする」という「付き合う」の定義、絶対青木の他者と真剣に向き合う態度から導かれたやつじゃん......ほら、井田はちゃんと青木を見ているんですよ......ただこの一連の井田のセリフ、続く8話への布石としての役割も担っているためか、少女漫画のフォーマットを以てしても甘やかさより「連帯・共闘」の意味合いの方が強く響いているように感じ、クィアが生きていくうえで仲間と支え合うことがどれだけ切実なことかを思い知らされた気がしてちょっと苦しくなってしまいました.....

 

 

【第8話─ホモフォビアへの抵抗】

 すでにこのドラマを完走された方はご存知だと思いますが、第8話はクィアにとってかなりしんどい描写が多い話ですので、ほんとに気を付けてご覧になってくださいね…

 

 大学進学が危ぶまれるほど数学の成績がやばい青木は、教育実習生としてやって来た岡野先生に個人指導してもらうことになります。気合十分で緊張した様子の青木に「初日は気楽に行こうか」「苦手分野とか得意分野とか、まずは焦らずお互い知っていこう」と、落ち着いた対応を見せる岡野先生。「なんか余裕があってかっけえ…」と青木は早くも心を開いたようです。

 青木のバツだらけの小テストを採点しながら話題は岡野先生の学生時代の彼女とのことの話になります。語られる直球のヘテロエピソードに「俺もまさに『それ』で」とうまく濁しながら話を広げていく手法、馴染みがありすぎてもうしんどいですね。初対面の人にセクシュアリティを開示するなんてあまりにもハイリスクなことできるわけないし、しかしこういうのが後々「(ヘテロだと思っていたのに)騙された」とかになっていくんですよね......嫌な既視感......
 青木も自分と「同じ」ことを知った岡野先生は、「で、どこまで進んでんの?」と内緒話のように問いかけます。「何もないっすよ!」と慌てたように答える青木に「怪しいな~」「よかったら、相談のるよ?」と、楽しそうに、それでいて親身な態度を見せます。この一連の流れはシンプルに「最悪」の一言で説明できるのですが、詳しく見ていくと何重にも有害さを含んでいるんですよね。

 まず、このやりとりは恋愛・性愛の欲求や感情が備わっていることを前提としており、他者にそれらが向かない存在のことを不可視化しています。この点は青木も違和感なく受け入れ答えていますが、その問いかけには「応えない」という選択肢はありません。*7それだけ社会がすべての人間がAlloであることを前提に設計されていることを示しています。さらに岡野先生は、昼食を一緒に食べているのだと嬉しそうな青木の言葉に固まり、「ピュアでいいなあって」「やっぱり高校生で付き合ったら、手つなぎたいとか、キスとかしたいなって思わないのかな」と語ります。これらからは、手をつなぐ、キス、そして性行為のようなロマンティック・セクシュアルな欲望の存在を当然とする考えだけでなく、それらの行為が親密度や愛情の尺度として機能していることも示し、それによりその欲求を持っていない人間は親密さや愛情を持っていないとされることでAセクシュアリティに対する阻害を行っています。何よりそれは異性愛規範とも強く結びついており、それ以外の関係での行為と親密度は結びつかず遊びとされたり、一過性のものとされたりなど、非ヘテロへの差別構造を示していると言えます。

 さらに、手をつなぐとかキスといったことを「まだそこまで考えていない」と言う青木に対し、「案外向こうは待ってるかもしれないよ」と、関係を展開させるように言ったのは、性的な話題への期待を、青木だけでなく岡野先生自身も持ち、楽しもうとしている態度とも見えます。
 そもそも、岡野先生がこういう話題や質問を初対面の相手にすることができたのは、きっと青木のことを自分と同じヘテロセクシュアル男性だと認識しているからです。それにより、性的な話題を共有できる仲間であるホモソーシャルな関係を形成することで青木と距離を縮めようとしている、と読むこともできます。言うまでもなく、ホモソーシャルミソジニー女性嫌悪ホモフォビア(同性愛嫌悪)を特徴とする関係のため、青木にとってそこは安全ではありません。そのことにまだ気づいていない青木を見ててはらはらするし傷つけられるとわかっているのにブログを書くために何回も見るのがほんとに辛い......

 そんな岡野先生の言葉が脳裏にありつつ、いつものようにふたりで屋上に行くと、こちらもいつものようにいちゃつくるみと弘夢の姿があります。あまりにも熱烈なJust the two of usっぷりを見て場所を変え、風紀委員なんだし取り締まれよという青木に「別に悪いことじゃないだろ。合意の上みたいだし」と井田が言うと、青木は驚いたように「お前ってそういうこと知ってんの!?」と話します。

 ここでのポイントは「合意」という言葉を使用したことです。「同意のない性行為は性暴力」があまりにも理解されなさ過ぎること、性暴力が隠され続けてきたことを発端に「#MeToo」がムーヴメントとして広まり、日本ではフラワーデモが開かれています。そして先月「強制性行等罪」と「準強制性行等罪」が統合した「不同意性行等罪」に改称された法律が成立しました(この法律が成立したことで性暴力に関する法制度が万全に整ったというわけではありません。まだまだ不十分ですが、しかし少しでも前進していると見ることはできると思っています)。辞書的な意味として「合意」は双方の意思を一致させること、「同意」は一方が提示した条件にもう一方が意思を合わせることという違いはあるのですが、なんにせよこのプロセスを踏まないとハラスメントや暴力が生じやすくなってしまいます。そして悲しいかな、それを理解していない人がまだ多く、全然「当たり前」のことになっていないのが現状です。だからこのワードをこういった文脈で使える井田は、セクシュアルハラスメントや性暴力の起こる構造について学んできているのだろうなと想像しました。少なくとも彼は、「合意」というワードを付き合っている関係にある者のコミュニケーション全般(恋愛的・性的なものを含む)に関わる原則として理解し、使っているように感じました。

 しかしその言葉を聞いた青木の「お前って”そういうこと”知ってんの!?」は、恐らくそれまで性的なことを感じさせなかった井田が初めて「そういう」話題を口にしたことで、元々井田に対してあった興味や欲望(理想の中で井田とキスする回想シーンがこれまで数回挿入されている)に加え、岡野先生の言葉もあって、手に触れようとします。井田はハラスメントを防ぐための知識として恋愛的・性的な関係の話題に触れましたが、青木にとってこの言葉と文脈は、単純に「性(的欲望)」の話として捉えられていることが示され、この認識の違いにとてもグロテスクさを感じました。また意味合いは変わってきますが、好きなアイドルやタレントがいると話し、そのアイドルが異性だったときに自動的に(異)性愛者としてみなされる不快感とも近いものを感じました。こういった言葉はマイクロアグレッションとして、確実に日々メンタルを削っていくものです。要はこの「お前ってそういうこと知ってんの!?」というセリフは、井田を始めとしたすべての人間をAlloセクシュアルな欲望を持つ者の枠に当てはめ、セクシュアリティを起点としたハラスメントの構造の問題を「性的な話題」として覆い隠す機能があるのです。

 井田がびっくりしたように手を引っ込めたことで青木はそのことをごまかし、そして歩道橋で並んで話しているときに「あのときからお前が手隠すようになったから...」と気にしているそぶりを見せます。「もうしねえから。だからそんなに警戒しなくていいし…」と少し傷ついたような苦しげな表情で伝えます。井田の反応は、青木にとっては自分の思いを拒絶されたことと同義なので、こうなるのもわかる。でも井田の「青木、手貸して」というスマートなワンクッションを入れてのスノースマイル*8を見ると、やっぱこういうのが大事じゃん?になりました。いわゆるムードも壊さず、拒否を伝える間も設定しているスマートなやり方、同意のプロセスってこういうことなんだと思います。そしてテンパる青木を見てにやっと笑う井田。ずっとカイロを忍ばせていて、そういうシチュエーションがやってこなかったら井田は何も言わなかったはずで、もしものためにひっそり隠し持っていたって、これを愛と呼ばずして何と呼びますか?なんですよね......

 早とちりだとたしなめられますが、青木が安堵したのは「よかった…キモいとかじゃなくて」という理由でした。これは明確にホモフォビアの存在を示しており、この言葉が青木の口から出ることで、彼自身もホモフォビアを内面化していることを察することができます。自分(のセクシュアリティ)に対して嫌悪が向くのは本当につらいだろうし、そうさせる社会は本当にクソです。だからこそ、井田が手を握ったのは青木という存在の受容のシーンだと感じてなんてできた高校生なんだ......となりました。続く青木の「井田って、どこまでわかってんの?」「付き合ったら普通、あんなことやこんなことするんだぞ」というAlloセクシュアル規範ゴリゴリの言葉は、しかし同性同士のセクシュアルな行為や欲望を否定されることへの恐怖の表れでもあるため、単純な話ではないからこそ考え込んでしまいました。対する井田の「今すぐどうとは考えてないけど、青木のこと気持ち悪いなんて思うわけないだろ」は、セクシュアルな話題に答えることから自然に遠ざかりつつ、青木に巣食うホモフォビアを否定し、アイデンティティを受容するというかなり巧みなセリフとなっています。この井田の態度と言葉に私の方が「井田ってどこまでわかってんの?Aセクシュアリティについての自覚があるの?やっぱそうってことだよね?」になっていたと思います。

 

 歩道橋でふたりでいるところを岡野先生に目撃されてからの流れはね、他者からホモフォビアをぶつけられる経験と、それに立ち向かっていく姿を描いているわけですが、全部を解説するのはすごいしんどい作業なので、クィアの描き方としてよかったと感じた場面に着目して書いていきます。

 まずは、教室で落ち込んでいる青木に対し井田がかけた「青木、何かあっただろ」「言えよ、約束したろ?困ったことや悩み事があったら何でも相談するって」という言葉。これは第7話で井田が語った「付き合う」の定義で、しかも「付き合う」という態度を示すことは、青木の「いつか本気で付き合おうって言われるようになれたらいいなって思ってるから」への応答なんですよね…愛......

 青木から岡野先生とのやりとりを聞いた3人の反応もとてもよかったです。井田の「大したことだよそれは」「青木がへこんでいるなら丸く収まっていない」は、傷ついたことを無視しなくていい、無理やり「自分のせいで」と納得しなくていいと青木の苦しみを肯定しています。あっくんは「どうせ適当なこと言ってる系だろ。なぜなら俺がそうだったから」と、過去のホモフォビックだった自分を繕うことをせず、それは間違いだったと青木に伝えています。
 橋下さんがストレートに怒りを爆発させる姿は、青木の苦しみは岡野先生の態度にあることを示し、問題を個人の出来事に矮小化させない役割を果たしています。*9また、「あんな奴の補習なんて青木が辞めちゃえばいいんだ」「なんで?青木くん何も悪いことしてないのに!もとても重要なセリフです。あっくんは「傷つけてくる相手から逃げてもいい」というメッセージを発信しますが、橋下さんはそれを真っ向から否定します。これは、マイノリティが登場する物語でよく見られる「マイノリティの不幸な退出問題」(と私が勝手に呼んでいる)、規範に沿わない存在が物語に起伏をつけるためだけに登場させられ、規範は否定されないまま傷つけ苦しめられ、最終的に物語の脇役にさせられたり存在を抹消させられたりする表象へのノーを示しています。不利益を被るマイノリティが変化するのではなく、その不利益を生む土壌を設計しているマジョリティが変化すべきである、という真っ当な言葉がティーンから出てくる世界、希望すぎる...

 そして井田は、本当だったら日直の青木がひとりで職員室に行くところだったのを「一緒に行こうぜ」と誘うことで、青木が岡野先生とひとりきりで対峙しないようにします。その上で「俺が話しに行くか、岡野先生に」と青木の抱える思いを共有することを提案し、「いいって、誰にも言わないって言ってくれてるし」と飲み込もうとする青木に「青木はどうしたい?」と、本当の思いを聞こうとします。井田の一連の行動は、青木のためという原則がありつつ決して独りよがりにはなっていないバランス感覚が素晴らしいです。こうやって同世代の仲間が自分を尊重してくれるという実感を得られるところまで描いているからこそ、第8話はただ辛いだけで終わらなかった回になったのだと思います。

 「大事にしたいな。大事にしてくれる人を」と答えを出した青木は、井田にラーメンを食べに行こうと誘います。元々は岡野先生に誘われておりとても楽しみにしていた約束でしたが、自分のことを大事にしてくれる井田を大事にしたいと伝える、とてもやさしいシーンでした。

 待ち合わせに早く着いた青木は、ホテルの場所を探していた男性に道案内をしますが、お礼にとお金を渡されそうになるのを断るのに苦戦しています。するとたまたま通りかかった岡野先生が、血相を変えて青木の手をつかみその場から去ります。「お前もっと自分の身体大事にしろよ」。このセリフは、同性愛者(非異性愛者)は性に奔放、という偏見を露呈しているだけでなく、8話冒頭で青木が井田に対して言った「お前ってそういうこと知ってんの!?」と同じことが起こっているんですよね。性的マイノリティがカミングアウトするセクシュアリティとはあくまで【状態】の話なのに、関心を持たれるのは性行為はどうするのかとか、身体はどうなっているのかとか、非常にプライベートな部分だけです。その人がどんなアイデンティティを持っているのか、それによりどんな差別が起こり、何によって傷つけられるのかといったことこそが重要なはずなのに、それらは「性的な話題」に覆い隠され、肝心のところは見られません。ある場面では差別をする側に立ち、また違う場面では被差別側に立つという差別構造をうまく描いていると感じました。

 そして青木の俺、最初から変わってないよ。このドラマ全編通して一番好きなセリフです。自身にも根を張っていたホモフォビアの克服、アイデンティティの受容、そして「岡野先生なんてこっちからお断りだ」と吹っ切ったように見せていても、初めてできた先輩の要で兄貴のような存在だった岡野先生への信頼がホモフォビアによって歪められてしまったことへの悲しみが、この短いワードで丁寧に説明されています。それじゃあ、と別れようとしたまさにそのタイミングで井田がやってくると、なんと井田は岡野先生も誘ってラーメンを一緒に食べることを提案します。青木は「空気読めよ…!」と言っていましたが、きっと井田は空気を読んだ上で「岡野先生とラーメン行くの楽しみにしてた」ことをわかっていたからそうしたんですよね。本当に井田は青木のことをよく見ている......

 「正直、青木くんのこと簡単には理解できないけど」、LGBT差別禁止法が「理解」増進法に改悪された今の状況と照らし合わせるとなぜ最悪かよくがわかりますね。マイノリティが存在していることにマジョリティの承認は関係ありません。「まあいっか。何を好きだろうと人の自由だしな」も意味がわからないです。物語において岡野先生は「偏見ヤバ男」という役割で登場しているのでそういう言動をとることは織り込み済みなのですが、「自分の中の偏見に気づいた後」を想定して描かれているであろうこのラーメン屋でのシーンのセリフも充分偏見に溢れており、こういう言葉で「理解」した気になっている社会にぐったりしてしまった感はあります。

 酔いつぶれた岡野先生をおぶって帰路につく井田と青木。「岡野先生に話しに行くって言ってくれて、嬉しかった」と青木は伝えます。実際にはその方法は選ばなかったけれど、井田が自分を守ろうとしてくれていたことはきちんと伝わっていました。そして起きる気配のない岡野先生を道端に置いていくか、なんて冗談を言います。そう言ったのは「ちょっと俺も腹立ってた」からでした。このセリフもすごく好きでした~…「井田って、じっと見つめてくるんだよなあ…」と青木は思いを巡らせますが、いや青木それが愛だから!!!「好き」だから!!!とまたも画面の前で大シャウトしてしまいました。

 

 

 今回はここまで!次回は第9話〜最終話、そしてまとめとして【ドラマ『消えた初恋』におけるクィアリーディング、井田をAロマのキャラクターとして解釈する意義】について書いていこうと思います。ぜひそちらもお待ちくださいませ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:こういったインターセクショナリティを理解する入門としてわかりやすいと思ったのが以下の記事です

www.nhk.or.jp

*2:「友達」が「恋人」より格下の存在とされてしまうのは「友達以上恋人未満」というようなフレーズからも何となく理解していただけるかと思いますが、これは「恋愛関係は他の関係より優先されるべき」という規範が社会に強く影響していることを表します。それを説明しているのが恋愛伴侶規範です。

*3:elizabethbrake.com

*4:しかし、「自分事」としての恋愛に対して関心が薄いためにいざ当事者にさせられると戸惑ってしまう、ということは少なからずあるのだとも思います。この違いが理解されればもう少し自分を投影できるAロマのキャラクターと出会えるのに…と苦く思うことは少なくないです

*5:私の考えですが、例えば「リアコ」という言葉によって「推しに恋愛感情を抱くファン」が有微化されることによって、逆説的に「そうではない(とされている)」ファンがメインである、とアイドルのファンダムを理解しています。つまり、アイドルのファンダムにおいて「リアコ」は有微化される存在=マイノリティ側、そうではないファンは無微化されている=マジョリティなのだと思っています。当然ですが、リアコだから/そうではないからもう一方と比べ優れている/劣っているということはありません。ただ、世間からアイドルファンに寄せられる見方として、ファンはアイドルに対し恋愛感情的な好意を寄せているのがほとんどである、とみなされることに対しての違和感について説明しています

*6:※社会規範として、【付き合っている関係にある者らは相互に恋愛感情を抱いている】という前提があるため、「付き合う」と「恋愛関係」は≒のものとして読むことができる/読むことが当然とされています

*7:その前提に対し「応えない」とはどういうことかを分かりやすく説明しているのがこちらの記事です。ぜひ読んでみてください

note.com

*8:

BUMP OF CHICKEN スノースマイル 歌詞 - 歌ネット

*9:個人的な考えですが、私はクィア表象において「怒り」の感情が描かれることが非常に重要だと考えています。クィアはよく「悲しみ」を背負わされますが、悲しみは自身の内側にある感情であり、それによってその原因となっている出来事もマイノリティ側の心情の問題として処理される、ある意味マジョリティが問題を引き受けることから逃げていると解釈しています。一方怒りは、発露されることで問題が存在していることを描く効果、そしてその怒りがどこに向かっているかを描くことで責任の所在を明らかにすることもできると考えています。マジョリティ側に向けて設計された構造の中で起こる問題がマイノリティに背負わせられるとき、怒りはその歪みを訂正する機能を果たすのです

井田、Aロマじゃね?? 〜ドラマ『消えた初恋』をさらにクィアリーディングする①【第1話〜第4話】〜

 今?と言う声が聞こえてきそうですが、ドラマ『消えた初恋』を見ました。放送からすでに1年以上経っている作品ですが、放送当時一切情報を得ることなく通り過ぎていたので、あんなに盛り上がっていたのに原作がBL漫画であること、主題歌をなにわ男子とSnow Manがやっていること、主演が道枝駿佑さんと目黒蓮さんということ以外マジで知りませんでした。恋愛をメインに置いたコンテンツを見るのが苦痛なので積極的に摂取することは基本的にないんですけど、クレジットをよく見たら道枝駿佑さんが「なにわ男子/関西ジャニーズJr.」表記だったのを発見してえええその時期だったの!?!?と驚き、さらに放送途中でなにわ男子がデビューしたことを知って察しました。ちょうどこの時期はV6の諸々に全リソースを割いていたのでシンプルにそれどころじゃなかったんですよね。わかるでしょ??

 

 

 「クィアコンテンツを摂取しないとどうにも心がおしまいになりそう」な時ってあるじゃないですか。このところあまりにも使い古された非ヘテロパーソンへの差別発言が吹き荒れており、それによって受けるダメージに加えて、反論しているかたちを取っていても結果ロマンティックラブイデオロギーを肯定する言葉を浴びてさらにしんどくなる...ということにほとほと疲れて、非ヘテロの中でも”Aロマとして”しんどいことが多い日々でした。*1

 そういうときに私を助けてくれたのはいつもジャニーズで、ロマンティック/セクシュアル以外の愛の存在を見せてくれて、一方的に愛を傾けることを許してくれる存在として、ずっと私を救ってくれました(もちろん傷つけられることも少なからずあったけれど)。ともかく私はAロマかつAセクのジャニオタとして、ジャニーズを好きで救われてきた人間なんですね。そんなオタクとして

 

【Aro/Aceなジャニオタの話が聞きたいアンケート】集計結果 - 光を見ているsignko.hatenablog.com

このようなブログを書いたことがあります。タイトル通りの内容ですが、この中に個人的な募集として【ジャニーズ関連作品で、クィアリーディングができる作品があればぜひ教えてください】という項目を作り、その中で一番多くの方から挙げていただいたのが『消えた初恋』でした。まとめていたときは「へえ〜やっぱ流行ってるんだね〜デビューのタイミングでBL漫画原作の作品に起用されるのすごいな〜」と思っていただけだったのですが(あのときは「THE BOY FROM OZ」の余韻バリバリでブログ書くのに忙しかったので...)、ともかくこれだけ推されてるし見てみるか、に至りました。

 1話の段階でおぉ…?と思うセリフがあり、それによって恐る恐るながらも見ることをやめられず一気に最終話まで完走し、確信しました。

 

 

 

 

 井田、Aロマだ......................................

 

 

 もうね、泣いた。まさかのAロマと読めるキャラクターとの遭遇。しかも主役の人物としてしれーっと登場してた。それをジャニーズがやっていた。めっちゃびっくりしたし、嬉しかったし、出会えてよかった。厳密に言えば、Aロマ~デミロマのグラデーション上にいる、Aロマ傾向の強いデミロマなのかなという感じですが、このドラマで描かれる井田という人物は、A(ロマ)スペクトラムの中にいる人物である可能性を十分に見せてくれたと思っています。というか私にはそうとしか見えねえ。
 作品については、LGBTQ監修がスタッフとして関わっていることは評価できる点だと思いつつ、非ヘテロを都合のいいワードで漂白し、そうすることでマジョリティの方を向いたものになっているなと感じた部分もありました。あくまでも青木と井田の世界だけの話にまとめられていることで、マジョリティ向けに設計された、青木と井田を悩ませたり苦しめたりする社会がどう変わるべきか、という問題を抱えている、*2マジョリティが多くを占める社会への批判はされていなかったと感じました。あと少女漫画が原作ということを考えれば何とも言えないですが、登場人物の大部分が当然のように恋愛至上主義を無邪気に信じている姿はふつうにキツかった......

 最初に注意書きとして書いておくのですが、私は現時点で原作である漫画の方を読んでおらず、そのため原作とドラマがどう違っているかということを知りません。ドラマで描かれていない、漫画の中でのストーリーでもしかしたら井田は明確にAロマではない他の(もしかしたらAlloロマンティックスペクトラムの側に寄っている)アイデンティティを獲得しているのかもしれません。また、漫画はすでに完結しており、ある意味で「正解」が提示されているのにそうではない方向に持っていくのは原作ファンとして作品を蔑ろにされた気がする、と感じる方がいるかもしれません。
 まず、今回私は「ドラマ版『消えた初恋』の井田」について書いていきます。ドラマで描かれた範囲の井田から読み取れることを拾い上げていくため、「原作ではそうではなかった」ではなく、あくまで「ドラマ版の井田」としての読み解きになります。
 そして、クィアリーディングとは「原作の前提を捻じ曲げた解釈」ではなく「異性愛だけを前提にした読み方では抑圧されてしまう可能性に光を当てていく読み方*3」であり、クィア─この異性愛主義の社会で周縁化された存在─が「自分のための物語」として作品を再解釈し、希望を(再)獲得することだと考えています。ただ鑑賞する立場からもう一歩踏み込み、私のための作品だと思えることは、ヘテロパーソンに比べそういった機会が少ない非ヘテロパーソンにとっては現状(機会が少ないという意味で)貴重な経験であり、その行為を「捻じ曲げ」と呼ぶのは不誠実ではないだろうかと考えます。ファン心理としては、「私のための物語」として受け取った原作が他者に違う解釈をされていることが嫌、という思いはわからないわけではないですが、読み手の手に渡り、その人にとっての「私のための物語」として読まれることは間違いではないはずです。そうやってクィアリーディングが蓄積していくことが、エンターテイメントがクィアを救うことにつながるのだと信じています。

 ということで今回は、井田を【Aロマ~デミロマの人物である】としてドラマ『消えた初恋』を読み解いていこうと思います。井田のセリフや行動を挙げながら、なぜAロマと読めるかを解説し、このドラマ『消えた初恋』の中で井田はどのような経験をしていったのか、井田がAロマであることでこの作品はどのような機能を果たし、どんな物語を紡いでいったのか。そんな感じのことを、ひとりのAロマAセクのジャニオタとして考えていきます。

 

 

【はじめに─用語解説】

 今回挙げた定義が絶対というわけではなく、以降のブログを読む際に内容を理解するための手助けとして、最低限の原則を解説しています。

Aロマンティック(Aロマ):他者に恋愛感情を抱かないセクシュアリティのこと。「A」は打消しを意味するため、Romantic Orientation(恋愛的指向)がAである(存在しない)と説明することもできます。

Alloロマンティック(Alloロマ):他者に恋愛感情を抱くセクシュアリティのこと。Aロマの対義語である、と理解していただけるとわかりやすいかと思います。

ミロマンティック(デミロマ):強い感情的な絆ができた相手にのみ恋愛的魅力を感じるセクシュアリティのこと。

 

 さらに詳しく知りたいと思った方は、以下のリンク先から調べてみてください。Aセクシュアリティについて、広い内容がわかりやすくまとめられたサイトです。

acearobu.com

 また、書籍では

www.akashi.co.jp

www.diamond.co.jp

こちらの2冊を紹介しておきます。どちらもAセクシュアリティを理解するのにとても役に立った書籍です(経験談)。

 

 

 

【第1話─好きってどういう気持ちなんだ?】

 たったひとつの消しゴムから事態が展開していくわけですが(内容は大胆に端折っていくスタイル)、自分が青木に思いを寄せられており、告白されたと勘違いした井田は「ごめん」と断ります。「何もわかってなかったから、今まで気を持たせるような思わせぶりな態度に見えていたら謝る」はおっヘテロがよく見せる非ヘテロへの偏見~!(褒めてない)と思いましたが、「お前の気持ちはなかったことにしなくていいんじゃないのか?いい返事はできなくて申し訳ないけど」と、青木が自分を思っている(と現時点では勘違いしている)ことは否定しません。そして青木の親友であるあっくんに「青木ってどんな奴なんだ?」「俺が青木のことわかってなかったっていうか、傷つけたっていうか」と、青木のことを知ろうとする態度を見せます。

 再び(勘違いが発端で)屋上で話すふたり。井田は青木の元に来た理由を「お前が待た泣いてんじゃないかって気になって心配で来てみた」と語ります。これまでの過程で、井田にとって青木は「放っておけない存在」になったわけですが、その要素は「心配」だけでなく、「自分に告白してきた青木」、そして「正直、好きとか嫌いとか俺にはよくわかんねえんだ」「なあ、好きってどういう気持ちなんだ?」と、自分に投げかけられた「好き」という思いそのものも、気にかかるものとして明らかになります。

 

 このセリフから、井田が青木の告白を断ったのは「ただ青木を好きではない」とか「同性で付き合うことを受け入れられない」といった理由(だけ)ではなく「『好き』という感情がどのようなものかわからないから、それを根拠とした好意に応えることができない」と読むこともできないでしょうか。「イダくん♡」の消しゴムを発見し、青木にこれは自分のだと言われた後の回想で、井田は「ハートって、マジか」「いつからだよ、なんで俺?」と衝撃と疑問を抱きながら、これまで青木が自分にしてきたことを思い出します。制服のボタンが取れていることを教えてくれたり、荷物を半分持ってくれたり、雨の中傘に入れてくれたり。それらを振り返り「いい感じじゃないか!」と驚愕した表情を浮かべる様子から、そういった行為は好きな人にするものであると理解しているようですが、でもその原動力になる「好き」とはどんな気持ちなのかわからない。この「『好き』という感情がわからない」は、Aロマの人々が経験する感覚を表す際や、アイデンティティを語る際によく使われる表現の一つです。そのため、このセリフを発することでその人はAロマの人物である(かもしれない)と周囲に示すキーフレーズ的な役割を果たす機能があり、よって井田はAロマの人物である(かもしれない)と受け取ることが十分に可能と言えるでしょう。第1話の時点で、すでにエースリーディングの可能性は開かれていたと言えます。

 青木は「どういうって言われてもな…」と井田の問いかけに答えることはせず、「ていうかお前、今まで好きなやつとかいたことないの?」と質問を返します。それを受けて、それまでまっすぐ青木と対峙し、目を見て話していた井田は目線をそらし、背を向けるように回ってベンチに座ると、ぶっきらぼうな響きで「…ない」と答えます。そんな井田に「マジ!?ってことは…チャンスあるじゃん」と、橋下さんのことを思い浮かべテンションが上がったまま井田の好みのタイプを聞きますが、井田は「何なんだ…」と言いたげな目を向けています。
 「好き」という感情は誰もが備えているから、わざわざ定義を説明する必要なんてない。「好き」という感情は誰もが持っているから、今好きな人がいないということは「フリーである」≒恋人になれる可能性があるということ。だから青木は「好き」の説明をしませんし、好みのタイプを聞き、橋下さんと井田がくっつく可能性を見出しワクワクしています。この流れで井田は人は必ず、誰でも他者を(恋愛的に)好きになる」という規範*4を無邪気に青木からぶつけられます。「恋愛感情は誰にでも備わっている」と思っている青木の「好きな人いないの?」は、「他者に恋愛感情が向かないから」好きな人がいたことがない井田にとって、前提が違うため、そもそも答えられない問いかけです。自分のような人間が想定されていないことを感じ、でもそのことを説明しても「そんなわけないって」「まだ運命の人が現れていないだけだって」と返されることが分かっているから、仕方なく「ない」と答える。これは私たちAロマの人間にとってよくある、悲しくて悔しい経験と重ね合わせてみることができます。そらされた目線、緩慢な動き、ぶっきらぼうな口調から、井田の悲しさがにじみ出ているように感じました。

 青木は「好きなタイプ」を井田に聞きますが、これって便利な言葉で、別に恋愛的に好きな相手のことを話さなくてもちゃんとそれに答えているように聞こえるんですよね。実際私も高校生のときこの質問をされたことがあり、そのときただ脳裏に浮かんだという理由だけで千葉雄大さんの特徴を挙げ、「わかる!」と言われ場を切り抜けたことがあります。(そこで自担の特徴を挙げるのはなんか違うような気がしていた面倒なジャニオタ心)(千葉雄大さんその節は本当にありがとうございました)この手の質問って、内容うんぬんより答えられることの方が重要視されるというか、答えられることで自分たち(この場合マジョリティ側という意味です)と同じである、という共有の感覚が求められると思うので、どうにかしてでも答えておいた方が無難で安全なんですよね。そうやって埋没していく方が、余計な衝突やこちらが意図していない「裏切り」をせずに済むことが多いです。学校という閉鎖的な空間ならばなおさら、そうしていた方が無難です。

 しかし井田は、まっすぐに青木に「お前はどうなんだ」と、青木のことを知ろうとする態度を見せ続けます。(それでも最終的に「お前も好きなやつできたらわかるよ」と、これもまたAロマの人がよく言われる偏見ワードを喰らっており私の方がダメージを受けたのですが…)青木が語る「好き」についてをまっすぐに見つめながら聞き、「なんか言えよ、はずいだろ」に対し「いや、お前のそういうまっすぐなとこ、すげえいいと思った」と青木のパーソナリティを肯定し、「お前のことをちゃんと知ってから返事したい」から告白の返事を待ってほしいと告げます。これがさ~!!「相手のことをもっと知ろうとする」かたちでの歩み寄りを描くことで、「『好き』という感情がわからない」まま告白を断る(ことで元々持っていた関係が疎遠になったり、ぎこちなくなったり、最悪の場合失ったりする)ことなく、Aロマであるまま人間関係を諦めず(再)構築していく姿を描いていると受け取ることが可能で、これまで中々見なかった展開だな~と感じ胸アツでした。

 

 

【第2話─他者にドキドキしない/同性愛嫌悪がキツい】

 主役二人が風邪をひき欠席したことで青木と井田がシンデレラを演じることになりました。そういや映画『そばかす』でもシンデレラを取り上げていたけど、異性愛規範をよく表しているもの、として使いやすいモチーフなんですかね?

 シンデレラを演じることで、井田はロマンティック・ラブ的関係を疑似体験することになるわけですが、開演前からドキドキし、本番中のハプニングでさらに動揺するはめになった青木に対し、青木の言葉を馬鹿正直に受け取って真面目に答えたり、転びそうになった青木を「大丈夫か?」と心配したりと、井田は最後まで変わった様子はありませんでした。このように青木と対比された井田の態度は「他者に対して恋愛的な文脈でドキドキすることがない」という、これまたAロマを表現する際に使われることの多い表現をなぞっていると受け取ることも可能だと感じました。一口に「ドキドキ」といってもそこにはまさに人それぞれの感情があるわけですけど、やっぱり青木と比べると現時点では感情の起伏が少ない人物として描かれており、それ自体は「恋愛感情がない=感情がなく平坦なパーソナリティである」というAロマパーソンへのステレオタイプ的偏見が見えなくもない…のですが、そもそもこの作品は井田を明確にAロマの人物であると描いているわけではない(ためにAlloロマの可能性も全然ある)というある意味悲しい前提と、クソ真面目で融通が利かないけど基本的に優しい性格と読めるようにもなっている目黒さんの演技で、後者であると希望を持つこともできるようになっているんですよね。これが結構嬉しかったです。

 正直2話は青木と井田どうのこうのよりクラス(≒マジョリティ)の空気感の描写がしんど過ぎました。まず「シン・シンデレラ」とタイトルを変えたのがわかるあのシーン、オブラートに包んだ同性愛嫌悪(ホモフォビア)を感じて気分悪くなりました…まあ大体の寓話はヘテロが前提となっているわけだから同性同士のキャストで演じるのはセオリーから外れていると読めますけど、それを揶揄するテンション感がキツかった…そして終わった後の打ち上げでの最悪な空気!!!!!!リアタイしてたクィアたち大丈夫だった?特にファンダムの若いクィアが見ていたらものすごく傷ついたんじゃないかと心配になるシーンでした。結局井田がその空気を批判する役割を担っていたわけですが、谷口静観してねえでお前が止めろ!!!!!!!!!と大シャウトしてしまいました。子どもにその役目を背負わせるのは大人の責任を放棄してるでしょ。しかも当事者の子どもにだよ!?きっと誰より傷ついた青木が場の空気を丸めていた(そうしないとこのホモフォビックな空間で自分がクィアであるとバレる危険があるから)のを見て、私もしんどくなってしまいました…青木のツッコミを受けてみんなが笑う空間の中でひとりだけ笑わなかった橋下さんだけがこのシーンの救い…マジで、こういうふうに描くならホモフォビアを否定するシーンまで描く責任が制作者にはある。「うけねえよ」は確かに否定だけど、それだけだと「なぜ笑いが起こるのがだめなのか」、そしてその根本にあるホモフォビアの指摘をするまでには不十分です。内容の改変以前の問題として、現実に生きるクィアを踏みつけっぱなしはダメでしょ。

 

 

【第3話ー恋愛のルールと社会からのまなざし】

 「青木のカミングアウトのその後」から第3話が始まるわけですが、俺って変だよなと言う青木に対し、橋下さんが力強く「変じゃないよ。すっごくわかるよ」「人を好きになるのに、やばいなんてことないよ」と青木の思いを肯定します。非異性愛以外の感情をはっきり肯定する場面を描くこと、これが製作者の責任だよォ!!!!!!と2話と同様にシャウトしました。こっちはいい意味のシャウトです。このシーンに励まされたような思いを抱いたのはありますし、このドラマのターゲット層であろうティーンのクィアにこの言葉が届く意味は決して小さくないだろうと思います。
 ただ注意しなければならないのは、「だって一緒の気持ちだもん。ちっとも変じゃない」という橋下さんのセリフです。これはかなりヘテロノーマテヴィティ的な立場からの言い回しで、このような「同性愛者(非異性愛者)であることは異性愛者と何も変わらない」というメッセージは異性愛以外の関係に対する偏見へのカウンター的表現としてよく使われる表現のひとつですが、それを異性愛者側が発することで、自分たちと何も変わらないのになぜ問題とされるのだと非異性愛者に向けられてきた「問題」を異性愛(者)が引き受けるという態度とも読めるけれど、同時に異性愛に準ずるようなフォーマットに収まる関係である限りにおいて、非異性愛的関係もされる」という無邪気な異性(恋)愛中心主義もほのめかしています。そういうかなり傲慢なせりふなんですよね。原作との兼ね合いとかドラマの筋とか、あと日本社会の化石っぷりを考えると難しいのだろうというのは重々承知ですが、異性愛以外の関係が阻害されている要因にはロマンティック・ラブ・イデオロギーがあるってとこまで描くドラマがあったらめっちゃくちゃ面白いのにな、なんて思いました…

 第3話では、「恋愛」を取り巻く暗黙のルールが解説されます。相手と同じ人を好きであると気付いたとき、そのことを黙っているのは「だます」ということになる。恋愛感情を備えている者たちは、「すっごくわかるよ」とその思いを共有し仲間になることができる。恋愛的に好きな相手とは「2人」の枠で関係が築かれるため、1人の相手を2人以上が思いを寄せているとき、その2人はライバル関係になり、どちらかしか結ばれることができない。恋愛の話をすることによって、相手のよりパーソナルな部分に踏み込むことを許容される。(テストが返却されたシーンで、橋下さんのグループの人が指差しで合図するのがちらっと映ることから)恋愛の話題は友人関係のなかでも共有され、友人コミュニティはメンバーの恋愛関係が実るようにサポートする。恋愛とは、楽しい話題である。

 青木が井田の卒アルを見たいと二の腕をつつきながらねだり、井田が「普通に恥ずいから」と目を泳がせる様子を見せると、青木は「もしかして、照れてる…?」と、井田のかわいいところを見つけ嬉しそうににやつききます。するとそんな何気ないふたりのやり取りを見ていたあっくんが「はいそこ、いちゃいちゃしない」と茶化すと、青木は「はあ!?してねえし!!」と動揺した様子を見せ、その奥で井田は不思議そうな表情を浮かべています。

 この一連のシーンからは、まず、青木と井田の何気ないじゃれあいのような、親密そうなふたりの間での行為は「いちゃいちゃする」という、主に恋愛関係にある人に使われる言葉で表現される、という社会のまなざしを理解することができます。「主に」としたのは、この「いちゃいちゃする」という言葉は必ずしも恋愛の文脈で使用されているわけではなく、例えばアイドル誌やテレビ誌などに掲載されることの多い「メンバーが親密そうな距離感で絡んでいる」様子を「いちゃいちゃ」や「わちゃわちゃ」と表現することもあるためです。そのことを踏まえると、あっくんも「いちゃいちゃ」を「単に親密そうな様子」くらいの意味で使用しているとも考えられます。
 しかし青木は、「いちゃいちゃ」=恋愛関係にある人に向けられる言葉→自分と井田は恋愛の文脈で親しいと見られている、と想像し、動揺した様子を見せます。これが単なる照れ隠しにならなかったのは、あっくんにまだ井田が好きかもしれないことを言っていないための焦りもあると思いますが、自分が男性を(もしくは「も」)好きになるセクシュアリティであることを知られたくないことも関係しているでしょう。冒頭で井田を好きだということを橋下さんにカミングアウトした際、「俺って変だよな」とどこか苦しげに言う青木は、非ヘテロでありながらホモフォビアを内面化しているキャラクターとして描かれています。10代の若者にそう思わせる社会、最悪すぎる......

 そして、焦る青木に対し不思議そうな表情を浮かべるだけの井田が「恋愛のルール」──心の機微から周囲の反応、そして恋愛と異性愛中心主義の関係に至るまでのあらゆる「決まりごと」──をよくわかっていないと読むことができます。その態度に青木は「俺はお前に告白したのに(≒恋愛関係のフォーマットに巻き込んだのに)、なぜそんなに平然としているんだ(≒関係が変わるかもしれないのに態度を変えないんだ)」と問いかけますが、そんな井田が青木と向き合おうとするための方法は、「青木のことばっかり考える」でした。そしてその理由は「恋愛とかわかんねえ」からだと語られます。「でもお前いい奴だから、どう接すればいいのか考えていた」「不安にさせてごめん」と応答します。やはり井田の態度の理由には「恋愛がわからない」があり、それはとてもAロマ的ではないだろうか…と思えます。

 帰り間際、井田の母親に「(青木は)友達っていうか…クラスメート?」と紹介され、途端に青木は腹を立てた表情を浮かべ、そつなく挨拶し早々に帰ろうとします。井田が引き留めようとすると「友達以下かよ、クラスメートって」と吐き捨てるように言います。「じゃあ俺たちは友達なのか?」と問いかけると、「それはお前次第だろ」と突き付け、立ち去ります。
 場面は変わって美術の授業中。互いの絵を描きながら井田は青木に思いを巡らせます。「正直想像できない。デートとかするのか俺と青木が」「でも、青木ってたまにかわいく見えるような…」。授業が終わり、ふたりで片づけをしていると、相多が「あの子今反抗期なのよね。昔はかわいかったんだけど」と冗談めかしたように言うと、井田は驚いたように「相多も青木のことかわいいって思うのか?」と問いかけます。相多は「冗談だよ」と答え、そしてふと、井田が以前青木の好きな人のことを気にしていたことを思い出します。しばし思いを巡らせ、何か合点がいった様子を見せ、焦った表情を浮かべます。そして慌てた様子で青木を呼び出し「お前は井田に狙われている」と告げます。

 ことの経緯をあっくんに話すと、「井田に本当のこと言いに行こうぜ」と、「青木が井田のことを好きなのは誤解である」と井田に伝えに行こうと提案されます。「嫌だよ!」と断るも「何で!?」の問いかけにはっきり答えることができず、「そうやってごまかすから悩むんだろ、お前もあいつも」「俺に任せなって」と、言葉こそ柔らかいですがかなり強い力で青木を引っ張り出し、屋上であっくんが(あっくんの想像する)青木の思いを井田に代弁し、あとはふたりで、と去って行きます。

 このあっくんの態度はまさに「差別は悪意がなくとも、それどころか善意の下ですら行われる」ことを示しています。あっくんは、青木にも井田にも直接「(非異性愛的な欲望を持つ)お前はおかしい」とは言わず、嫌がる青木を強い態度で井田の元に連れていき、そして重要な「青木が井田のことを好きなのは誤解である」という部分は自分が伝えます。これらは、青木が井田のことを好きと周囲に誤解される前に問題を解決し、ふたりが好奇の目に晒されることから守ろうとし、でも直接青木の口から言わせてしまうとふたりも傷つくだろうから部外者である自分ができる範囲で肩代わりしようとした結果とも読むことができます。

 しかし、それらの行動の根本には「非異性愛的な欲望は間違いである」「その欲望は周囲から差別を受けるものである」という考えがあります。その考えを内面化しているから、青木の思いを聞こうとせず、井田との関係から遠ざけようとしますが、それこそが同性愛差別をふたりにぶつけることになっているのです。社会からふたりを守ろうとして行ったことが、差別の再生産になっている…というとてもえぐいさまを描いています。これを仲のいい友人からぶつけられた青木はすごく辛かっただろうなと思います。青木はその思いが全て井田と自分自身に向いているようですが、これだけだと社会が抱える同性愛(=非異性愛)差別への否定がなさすぎてまじでしんどいです…

 

 

【第4話─本当のこと/変わるべきはマジョリティ】

 第4話は、主にあっくんにフォーカスが当てられた回になっています。そしてかなり画期的な描き方だと思うのですが、この回は「変わるべきはマイノリティではなくマジョリティである」と明確に示したものになっていると読むことができます。

 おそらく青木が井田に「本当のこと」を言いに行った日の帰り道、青木、井田、あっくんの3人で帰路を歩いています。青木はぎこちなく軽い調子で告白のことを水に流したようなことを言い、井田への恋に終止符を打った様子を見せますが、橋下さんは「だって青木くんの気持ちは本当なんでしょ?嘘にしちゃだめだよ」と励まします。「でも井田も、(青木が自分のことを好きなのは誤解であると知ったことで)よかったってホっとしてたんだ。自分の本当の気持ちなんて、もう言えないよ」と、青木はその場から逃げ出します。青木、すごく傷ついてきたよね......とじわじわと胸が痛くなりました。
 青木を追いかける橋下さんはあっくんと遭遇し、青木と井田の件だとわかると、「さっさと本当のこと言えばいい話なのに」とあきれた口調で言い放ちます。それに対し橋下さんは「言えないこともあるよ。空気とか相手の反応とか、やっぱり色々考えちゃうと思うし」と口ごもる様子ですが、あっくんは「言い出しにくいこともあるかもしれないけど、相手の反応気にして言えないとか言い訳だからね」「そもそも、ごまかしたのが悪いんだからね」と取り付く島もないように言い放ちます。
 このやりとりは、青木と井田の告白に関するやり取りの話でもあり、カミングアウトをする側(マイノリティ)/される側(マジョリティ)の違いについても描いているんですよね。思いを伝えることそのものがカミングアウトになり、もしかしたら相手に拒絶されたり周囲の人に傷つけられるきっかけになるかもしれない、告白した後の(主に悪い方の)影響まで考えなければならない、「単なる恋愛」に収束できない立場の青木と、ここまでその権力勾配に徹底的に無自覚な(キャラクターとして描かれている)あっくん。
 ここで書いておかなければならないのは、この物語においてそういった社会規範や構造については正直ほとんど触れられておらず、当事者である青木や井田ですらそれらの点に気づいていないように描かれている、という前提があるということです。物語は極めてミクロな視点で進められており、規範や構造に苦しめられている姿ではなく、あくまで青木と井田の問題でありふたりの間だけの話であると描くことで、問題の当事者でもある社会、そしてそういう社会を作り上げているマジョリティに矛先を向けないような作り方になっていると言えます。これらのシーンであっくんがやたら露悪的に見えるのは、社会が引き受けるべき問題をあっくんという個人に背負わせることで、「あっくんが差別的なふるまいをしたから青木が傷ついた」と視聴者に見せ、問題の矮小化につながっている、という視点は持たなければならないと思います。

 みんながそんなに強いわけじゃないと怒りとビンタをぶつけられたあっくんは青木の元に向かい、橋下さんは青木が好きだから自分の態度に怒ったのだ、と推理しますが、あまりにも的外れなそれに青木は「好きとか嫌いとかもうどうでもいいわ」「そうすれば、もう傷つくこともないから」と、井田への思いを消そうと決心します。しかしそんな思いをコントロールできるものでもなく、井田を目で追ってしまう青木。そんな様子を見て、あっくんは橋下さんに問いただし「青木は本当に井田が好きである」ことを知ります。するとあっくんは、「マジかよ、ありえねえ…」「だって、そしたら俺、青木にすげえ酷いこといっぱい言った」「そりゃ青木も何も言わねえわ」、そして青木と対峙し、「お前に本当のことを言えなくした犯人は、俺だ。青木、ごめんな」と謝罪します。

 このあっくんの態度が描かれたことで納得できたというか、溜飲が下がったというか。自分たちに有利なように設計されている社会の恩恵を受けているマジョリティが問題をマイノリティに押し付けず引き受けたという構図をきちんと描いているのはとても誠実だと思いました。きっとあっくんも勇気を振り絞っていったのだろうなという表情がよかったです。
  その言葉を受けて青木は「いいよ。あっくんの反応が普通だと思うし」「だって普通にやべえって思うでしょ。井田のことそう思ってたら」と言います。このときの青木の表情が切なくて......すっきり諦めているようなのに心の中は悲しみでおおわれているような、自分は普通ではないのだと明確に線を引いて孤独を感じているのがわかる顔。ほんと10代にこんな顔さすな!!!!!!!こんな思いをさせるな!!!!!!!!!になりますね…あっくんの「じゃあ、その普通が間違っているだろ」が青木の支えになってくれたらと願うばかりです。でも怒ってねえのは嘘だろ…と思うけどね。怒りを覚えられないくらいヘテロセクシズムが強固すぎる社会が悪いです。ただ、あっくんの態度は全く変わらなかったことは救いだなと思います。結局あっくんは善人なんですよね......善人だけど差別的な面を持っている人と出会ったときどうやって関わっていけばいいのかなとか、親しい人がそうだったとき自分はその人とどんな関係を築いていこうとするのかなとか、自分もまた他者にとってそういう人間になっていないかなとか、色々考えました......(このあたりを考えるにあたって、北村英哉・唐沢穣「偏見や差別はなぜ起こる?心理メカニズムの解明と現象の分析」を読み返そうと思いました)

 場面が変わって、井田は部活の休憩中です。チームメイトに「最近告白されたが、俺の勘違いだった気がする、相手も別に好きとは言っていなかった気がする」とこぼします。ここで井田は「相手が自分のことを好きだという雰囲気なんてわからない」「好きってなんだ?未だに俺にはわからない」と真剣に言うのですが、チームメイトは「恋に悩むなんて成長したな~」と嬉しそうです。この恋愛をする=人間的に成長、成熟した証みたいな社会通念なんてク〇くらえなのですが(これについても恋愛伴侶規範が詳しく説明しています)、そんな井田の表情は悩んでいるというより深く考え込んでいる様子です。井田の態度は一貫して「恋愛がわからない」が示されており、その上で「好き」「付き合う」とは何なのかを模索する様子を5話以降から見ていくことになります。

 

 

 

 ひとまず今回はここまで!次は5~8話までを書いていこうと思いますので、ぜひお待ちください!

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:年明けに見た『そばかす』という映画はAro/Aceを描いた作品とあったけれど、私はあの作品は全然当事者に対して不誠実な作品だったと感じましたし、見たことでさらにメンタルが削られたものになったのでもう踏んだり蹴ったり

*2:性的マイノリティを取り巻く不正義を語るとき、しばしば非シス・ヘテロに「問題」を背負わせたり解決を求めたりする構造がありますが、異性愛規範こそが「問題」の根本にあります。よって異性愛規範が変わるべきであり、非シス・ヘテロがマジョリティに合わせて変化したり遠慮したり、規範に適合しようとする必要は全くありません。「問題」は私たちではなく、社会の側にあります

*3:有名な記事ですが、クィアリーディングとはどのような方法を取るのか、というのを分かりやすく説明しているのがこちらかと思います

gendai.media

*4:これを恋愛伴侶規範と呼びます。詳しく知りたい方は、

note.com

こちらのブログ、およびこの中で紹介されている書籍

hakutakusha.co.jp

を読んでみてください