光を見ている

まるっと愛でる

一方的な(愛の)まなざしと、それを越える人へ

 今回は私のパーソナルな部分を垂れ流しにするブログです。もっとV6のこととか書きたいことが色々あるのですが、ちょっとこれは自分のために書き残しておきたいな~ということがあったので、日記っぽい感じで書きます。沼落ちブログでもある。セクシュアリティの話が出てきますが、全部の主語は「私」であり、全てのそうである人がこうであるというやつではないので、そこはそういう風によろしくお願いします(?)あといつものことですが、めっちゃ長い。

 

 

 私はアイドルが好きです。特にジャニーズが好きで、V6の長野博さんを自担としている、20代前半の女性です。知らない間にCDやらDVDやらがハチャメチャに増えたり(いや全部私が買ったんだけども)、遠征できるようになってからは単身で札幌ドームまで飛んでライブを見に行ったり、月一で現場に行ったり、現場に行けなくなってからは配信ライブを見まくって(トラジャ配信楽しみだね~~)(てかA.B.C-Zコンまで一週間切ったのヤバい、1年半ぶりの現場ってもはやどうすればいいかわからない)、YouTubeではアイドルの動画ばっかり見ている、時期や体調によって左右されるものの、常にアイドルが生活の中にいる人生を送っているタイプのオタクです。そんな感じで人生のほぼ1/3をアイドルというエンターテイメントを好きでいて、たぶんこれからも、歌って踊る人たち、アイドルをずっと好きでいると思います。

 

 ところで、私はAロマンティック・Aセクシュアルでもあります。私の人格、アイドルオタクであること、そしてセクシュアリティは互いに深く結びつき、不可分です。

 このセクシュアリティである私がアイドルを好きでいることは、もちろん楽しいことは山ほどあるのですが、楽しいことだけではありません。私は「男性アイドルを推している女性ファン」に該当します*1が、この構図に当てはまるファンは、アイドルを恋愛的に好きである、と社会から見られていることが多いように感じます。多分反対のパターンでもある光景なんだとは思います。しかし、女性アイドルファンへの「アイドルのオタクをするのは結婚するまで、結婚したらオタ卒するもの」「アイドルとは疑似恋愛の対象であり、本当の恋愛対象(=「彼氏」)ができたら当然彼氏を優先させるもの」「彼氏がいるドルオタは、アイドルと彼氏、どちらかを優先させるか選ばなければならない」という場面やまなざしは絶対にあると、日常の何気ない会話などから感じます。これらが非常に一辺倒な考え方であることは大前提ですが、もう少し踏み込むと、こういう考えは「人類皆ヘテロセクシュアルヘテロロマンティックである」、そして「アイドルとは疑似恋愛の対象である」という社会イメージが、アイドル―ファン関係に限らず社会全体を覆っていることが問題を引き起こしているのだと思います。

 また、自分がAロマンティックということに気づく前は、いわゆる恋愛ソングの歌詞に共感することはないな~くらいの感覚だったのですが、自分のことを説明するための語彙が少しずつ増えていくにつれて、恋愛ソングに対して居心地の悪さを覚えるようになってきました。私は恋愛コンテンツをフィクションと割り切った上でも楽しむことはできないタイプです。私にとって意味のわからない感情に基づいたストーリーを繰り広げられても困惑してしまうだけだからです。そういう曲はnot for meであり、向こうにとっても自分は想定されるファン像からは離れているんだろうなと思い、そういうもんと割り切りつつ、何とも言えないもやもやを抱えることもあります。ラブソングがリリースされると知って残念に思うオタクの心理なんて、理解されるどころか想像されることもないんじゃなかろうか、なんて思います。「君と僕」の関係が「男と女」の組み合わせ以外で描かれていようと、そこにロマンティックラブが描かれていれば、途端にその曲は私にとってよくない意味での引っ掛かりとなり、完全にフィクションとして、靄がかかった距離感が生まれます。*2

 同時に、アイドル自身も疑似恋愛の対象とされているのに公に恋人を持つことを善とされないアイドルに恋愛の歌をたくさん歌わせ(られ)ることの矛盾をどう受け止めているのか、苦痛にならないのかなとも思います。そういう楽曲を歌うことや社会イメージ、そしてファンの存在そのものによってアイドルもまた「ファンの疑似恋愛の対象になるべき・ならなくてはならない」という押し付けに巻き込まれています。その中ではファンもアイドルもヘテロセクシュアルヘテロロマンティック(であるべき・はず)なので、ドル誌には恋愛に関する質問が溢れており、彼らはそれに自分も読み手もヘテロであるという前提で答えることが求められますし、某誌で行われる「ジュニア大賞」企画で最も重要視されるのは「恋人にしたいJr.」です。アイドルに寄せられる好意は恋愛的なのものである、というのはアイドルの側にも作用し、そうなるように社会はできています。

 

 ドルオタではない人との会話で、ジャニーズが好きです、と言うと大体「誰が好きなの?」と聞かれます。そして「V6の長野博さんが好きです」と答えると、大体「若いのに?」「年上が好きなんだね」と返ってきます。現在絶賛就活中なのですが、練習含めて面接で趣味の話題になった時に、上の会話とそれに付随する空気感を、繰り返し繰り返し味わいます。

 

 その度に、静かに、でもめちゃくちゃしんどくなり、腹が立ちます。こいつ(=私)はこのアイドルを好き=恋愛的に好きだから、こういうタイプが恋愛対象なんだ、と見られていること。つまりヘテロロマンティックを押し付けられること。アイドルを好きでいるということは、その延長線上に恋愛があるとみなされること。それによって、私がアイドルを、博を、村上さんを、塚田くんを、松崎さんを、如恵留さんを、どうして、どんな風に、どんなところが好きなのか、ということが平坦に塗りつぶされること。単純化されたくない感情が「恋愛」にあっさり回収され、奪われてしまうのなら、アイドルを好きだと言いたくなくなることもあります。好きという言葉を躊躇ってしまう原因は社会の側にあるのにもかかわらず、です。

 でも、きっとアイドルも私という、もしくは私も含めてファンとは自分のことを恋愛的に好意を寄せているという想定している(であろう)現実もあります。アイドルに寄せられるニーズには「恋愛的な好意の対象とされること」も含まれており、アイドルーファン関係には、紛れもなくヘテロセクシュアル・ロマンティック至上主義の構造が横たわっています。この社会でアイドルのファンをするということは、その構造に取り込まれることであり、社会からそういう不本意なまなざしを受けることであり、規範を強化する側に回ってしまうことであり、そこから完全には逃れられなくなることです。この矛盾した思い、苦しさ、申し訳なさ、やるせなさ、悔しさは、彼らを推しているとどうしても完全には避けられません。 

 

 しかし、アイドルとは懐が広く、ステージの上にいる彼らのことを、どう好きであろうと許容してくれます。恋愛的に好きになろうと、そうでなかろうと、アイドルからは「このように好きになれ・好きであれ」という強制も規定も働きません。*3私は自分とアイドルの間には絶対に越えられないステージという境界線があることに、助かっている部分があります。その境界線によってアイドルはアイドルである(と思っている)ことが最も大きいのですが、ある意味でその線を越えてこちらには関わってこないから、アイドルはアイドルでファンはファンだから、私たちは別の世界の住民どうしだから、アイドルの前では「ファン」という集合体でしかなく、私個人に向けてヘテロのフィルターを通して見られることはないから、勝手に好きでいられるから、安心して自分の思うままの「アイドルが好き」という感情を持つことができる、とも思っています。

 もしも叶うのなら、あなたを好きでいる人間がいる、ということをどうにか伝えてみたいけれど、それができたとき、異性愛規範、ヘテロロマンティック至上主義が組み込まれている、女性である私と男性アイドルの間から、「アイドル=疑似恋愛の対象」という、少なくとも私にとっては完全に邪魔でしかない要素を完全になくすことができるのだろうか。その構造によって、私の「好き」がどれだけ歪んでしまうのか。それを跳ね除けることはできるのだろうか。......無理だろうな、と想像してやるせなを抱えながらオタクをすることが、私がアイドルを好きでいるということだと思っていました。

 もちろん、(もしくはきっと、)全てのアイドルがそう考えているわけではないと思います。しかし、この社会でアイドルをすること、そのファンをすることは、そもそもそういう土壌(異性愛規範、ヘテロロマンティック規範)の上で成り立っているということは無視できない、というよりは逃れられないのです。これは否定するまでもなくごく当たり前のこととして、ファンにもアイドルにも社会にも受け入れられてきました。

 私にとって、アイドルが作り上げる音楽やライブなどのエンターテイメントを楽しむこと、グループという閉じられた関係性を外から見ることという、ファンという外側から観客として見ることが、アイドルオタクとしての在り方でした。恋愛の曲は、完全に自分と切り離し遠ざけたフィクションとして受け取るか、詞のことは考えずにメロディーとダンスを楽しむ。恋愛系のインタビューは読まない。番組でのそういう企画はスルーするか、十分に距離を取って見るか、その企画の核ではない部分に注目する。*4結局そうしたとしても、アイドルを通して恋愛に関与してしまうことには変わりありません。そこにおいて私は求められていないファンになるので、手間や疎外感を感じることになります。でもこれらを上回るほどたくさんの魅力がジャニーズにはあり、だからジャニーズが好きなのです。

 

 

 

 最近、BTSに興味を持つようになりました。『Dynamite』がリリースされたのを機に曲を聴くようになり、『Butter』リリースのタイミングから完全に好きを自覚した、鬼のド新規です。YouTubeを漁ったり、インスタやツイッターで公式アカウントをフォローしたり、VLIVEを見たりして、いつのまにか顔と名前が一致する・芸名と本名とあだ名が一致する・誰がどの歌声かを聞き分けられる、といったレベルまで来ました。私は必ず好きなグループの中に一人、推しができるタイプなので誰に落ちるんだろうか…と高揚感を抱きながら追いかけていました。口がでっかくて超かわいい…という理由でホビさんに惹かれていたので、推しになるのは彼か?と思っていました。そして曲が好きで『Daydream』を購入しました。

 月日は流れ、何となく立ち寄った書店で「Rolling Stone Japan vol.15」を見つけました。そういえば彼らのインタビュー記事を読んだことがないな、と軽い気持ちで立ち読みし、あるコメントに衝撃を受けました。

 

(グループ結成後はメンバーの誰もが恋人の存在を認めていないことは、ファンがそういった話題に敏感に反応することを懸念してのことか?という問いに対して)

 

SUGA「そういう質問の意図が、僕にはよく理解できないんです。」「ARMY(=BTSファンの総称)はとても多様な集団です。『もし~だったら』という仮説的な状況を受け入れる人もいれば、そうでない人もいるでしょう。恋人の存在であれ、それ以外のトピックであれ、彼らは皆いち個人であり、考え方は異なって当然です。」ー『Rolling Stone Japan vol.15』,p18

 

 

 アイドルに向けられた恋愛の文脈での質問で、アイドルファンとはヘテロセクシュアルヘテロロマンティックの集団であるという仮定、ファンはアイドルに恋愛的な好意を寄せるものという仮定を否定する言葉を、ヘテロ至上主義の渦中に置かれている存在であるアイドルから聞くなんて、想像もしていませんでした。SUGAさんのこの言葉は、私がアイドルオタクとしてぶち当たる、ヘテロ社会からのまなざし、アイドル―ファン関係に対する固定概念への苛立ち、それらに組み込まれることを拒否できない居心地の悪さやしんどさ(これらはまさに社会からのまなざしや規範によって「そうであることが当然」、もしくは「そのような違和感を感じる人はいない」とされてきました)を、アイドルの側から掬い上げられたような気持ちです。アイドルという私が愛してやまない存在、いや、もうただシンプルに好きな人からこの言葉を投げかけられるということは、私にとって初めての経験であり、衝撃であり、この言葉だけでSUGAさんと出会えてよかったと思えるだけのパワーを持っていました。

 このコメントを、何が言いたいのかわからない、もしくは核心をぼやかしているように感じる人もいると思います。アイドルオタクは多様であるから、それらを明確に語りきることなんてできないのです。また、私自身もこの言葉の意図を完全に理解することはできません。ただ、Aロマンティックのアイドルオタクとしてとして生きてきたから(こそ)こう読み取った、立ち読みしたたった数分でどんなメッセージを瞬間的に感じたのか、ということを書いておこうと思います。100%私の解釈しか書いていないので、事実として受け取るのではなく、ただこう読む見方もあるのだなとだけ思っていてください。

 

 恋人を作らない、もしくは公表しないのは、ファンの反応を危惧してか?という問いかけに対しーーなぜ自分に恋人がいるはず・べきという前提の質問をするのか。ファンにとって自分に恋人がいるという状況は(アイドル活動に)何らかの影響を与えるリスクがあるから認めていないのか、いう質問は、ファンを全員ヘテロセクシュアル・ロマンティックと見なすから生まれる問いだが、ファンとは多様な個人の集合であり、【アイドルファンとはヘテロセクシュアルヘテロロマンティックであるはずだから】【ファンはアイドルに恋愛的な感情で好意を寄せるはずだから】という前提は、すべてのファンに当てはまるものではない。全てのファンが、アイドルとファン自身を恋愛感情によってつながりを感じているわけではないのだから、そういう前提の問いには答えがないので何を答えればいいかわからないし、そうであるファンも、そうでないファンもいて当然である。

*5

 

 自身のセクシュアリティについてこうであるだろうというジャッジを退け、そしてファンについても同様の存在であると語る言葉を持っているということは、そういう仕組みを理解しており、そういう考えを持っており、自身に対しても他者に対してもそのような見方をする人なのだろうな、そういう人がアイドルをしているのは嬉しいな、と思いました。何より、人類皆ヘテロセクシュアル・ロマンティックであるという社会の一部であり、そしてその規範が濃く表れるであろうアイドル―ファン関係のなかで、その規範を肯定せず、揺るがすことを促す言葉をアイドルが語るということは、少なくとも私にとっては新鮮で嬉しい、思いもよらない方向からのエンパワメント体験でした。

 アイドルオタクをしていて、私は想定されたファン像には当てはまらないオタクである、というのはわかっていました。「アイドルオタクは皆ヘテロである」という前提は、「ヘテロ以外のドルオタは存在しない」ことと同義です。世界にはヘテロ以外もいる、というメッセージをジャニーズから受け取った経験もあります。でも、「世界」が「自分(たち)のファン」に置き換わった言葉を明確に投げかけられたことってあったかな、と考えてしまいます。(これはあくまで私の経験の中だけの話なので、そういう経験がある方を否定する意味は全くありません。)

 ここで明確に言いたいのは、これまでのジャニーズの存在を落とす気持ちは全くないということです。どのような形であっても好きでいることを許してくれるジャニーズがいたから、恋バナに巻き込まれる年頃(今もですが、特に高校生くらい)のときに「誰かを恋愛的に好きにならなければならない」と、無駄に思い悩んだり苦しむことを経験せずに済みました。友愛、恋愛に収まらない、深く複雑で、多様で様々な感情や人間関係の存在も、ジャニーズから見つけてきました。それは比喩でもなんでもなく、恋愛による関係が最も尊いものである、という規範を信仰しないで生きていけるためのきっかけでした。また、恋愛的に人を好きにならない自分にとって、全力で情熱を傾けるほど好きな存在がいる(た)こと、好きであることを向こうから否定されないことは、「恋愛感情がないなんて、人格的に欠落しているのではないか」という偏見を一切内面化することなく、というかそんなことが脳裏を過ぎることすらなく、伸び伸びと楽しく(そして今思えば、安心で安定した精神状態で)彼らを愛することができる思春期を送ることができたことと、深くかかわっています。そして、アイドルグループという、恋愛関係や家族関係ではない者同士で親密性を築くことを実現している彼らは、私にとって希望でもあります。人生においてジャニオタだったから、ジャニーズに助けられ、守られていた経験も、また本当のことです。

 

 そして私は、SUGAさんとの出会いで、非ヘテロのドルオタとして、そしてドルオタであることと不可分な人格の部分がめちゃくちゃ救われました。私のようなアイドルファンも存在しているということをアイドルの側から提示されるということ、ヘテロ至上主義を否定するための言葉を持つアイドルがいるということ、ファンをセクシュアリティの観点から個として見られる可能性を示されること。どう見るべきか、どう解釈すべきかという規定のない存在であることに寄りかかり、それを許してくれるジャニーズを長いこと愛してきた私にとって、SUGAさんは「同じものを見て、同じように感じているかもしれない」感覚をくれた、初めてのアイドルでした。どちらも私の人生には必要です。しかし、SUGAさんと出会ってしまってから、私のアイドルオタクとしての在り方は変わりました。これを望んでもいいんだ、ということを知ることができたことは、間違いなく私にとって幸せです。

 

 このコメントだけを以てSUGAさんを聖人扱いをすることはしないように自戒しなければならない、と自分に課しています(そしてこれはSUGAさんに限らず全ての推しにも共通します)。また上記したように、アイドルファンであることでヘテロセクシュアル・ロマンティック至上主義にアイドルを巻き込んでしまう構造、そしてそれに則った発言に対して、異を唱えられるための言葉を身に付けなければならないと強く思います。何より、こんだけ書いといて今更というところはありますが、私は私の見たいようにアイドルを、そして全ての他者を見ることしかできません。それらに意識的になることが、私がアイドルオタクをする上で取らなければならない態度であると、書きながら言語化しています。

 

  Rolling Stone Japanを衝撃と勢いのままに買い、もっとBTSを、SUGAさんを知りたいと思い『LOVE YOURSELF』(ぱっと見で知っている好きな曲が多かった)と『D-2』(原則「最新のものが一番いい」を信じているので)を購入しました。ひたすらこの2枚を聴いています。まだBTS沼に飛び込んだばかり、しかもKPOPに深く触れることが初めてで、もう無我夢中といった感じです。きっとBTSのこと、音楽、どんな人たちか、楽しさ、歩みを知るのはこれからです。そして、SUGAさんのこと、音楽、ラップ、どんな人なのかを知るのもこれからです。きっかけはインタビュー記事でしたが、その出会いだけで終わる関係ではもうないことを予感しています。SUGAさんが好きです。出会えてよかった。好きになれてよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ハロプロを始めとした女性アイドルにも「推し」がいますし、推しのジェンダーが私の好きという感情を決定することはたぶんほとんどありませんが、このブログで書きたい内容が「男性アイドルを推す女性ファンへの社会的な眼差し」なので、今回は私の属性の一部であるこれをテーマに扱っています

*2:もちろんアイドルが恋愛の歌だけを歌っているわけではないし、ロマンティックラブではないラブソングもたくさんあります。

*3:しかし、ファンは、この文脈の場合は「女性ファンは男性アイドルを」このように=恋愛的な文脈で好きであろうという想定は働きます。そのように想定される構造に巻き込まれることで苦しむことと、しかし本人に明確に質問するなどの、アイドルがどう想定しているか確かめる術を基本的にファンは持たないことの矛盾を抱え、疎外感を感じるというのが個人的にはよくあります。また、その想定からは逃れられないということは私にとって非常にストレスがかかることでもあります。

*4:例として、トラジャのファッション企画でメンバーそれぞれの服装やそれに対するメンバーの反応のみに注目し、デートプランの話は一切スルーする、みたいなことです

*5:我ながらよくあの短時間でこれだけ考えたなと思いますが、性的マイノリティが自分のセクシュアリティについて知るために自己と向き合い、考えざるを得ない状況があり、また一つ一つは小さいものであっても、性的マイノリティであるドルオタとしての疎外感を少なくない頻度で感じているから、こういう言葉に敏感に反応するようになって身についたというのがあるなと思います。