V6の名曲と言えば?という問いをV6のファンにしたとき、最も挙げられるのは『over』だと思います。実際V6楽曲大賞1995-2015では堂々の一位を獲得しており、本人たちからも「この曲やるとファンの子が泣いてるのを見かける(20周年アニバコンの初回B盤コメンタリーより)」と認識されています。それくらいV6ファンの思い入れの強い曲です。
『over』は1998年発売の、V6初の両A面シングルです。両A面というくらいだから、もう一曲の方も同じように盛り上がるのかと思いきや、『over』の人気が圧倒的過ぎたのか、もう一曲の方は知名度はそこまで高くはありません。このシングルは8センチCDなため、店舗によってはもう置いていなかったりしますし、シングル以外で収録されているのは①1999年発売のアルバム「“LUCKY”」*1②2001年発売のベストアルバム「Very best」*2です。最新のベストアルバムは2015年リリースなので、2015年以降ファンになった人はこの曲に出会う機会があまりないのかもしれません。V6ファン層として典型的な「20周年出」である私もそうでした。
V6で一番好きな曲を選ぶときに、歌詞が好き、パフォーマンスが好きなど理由は様々ありますが、「これほどV6を歌った曲はない」という観点で選ぶとき、これを超える名曲は私の中にはない。その曲と、今のV6についてつらつら書こうと思います。レビューであり、私のV6観であり、私の思うV6らしさについての話です。超個人的な解釈しか書いていないので、そういうものとして読んでください。
私の思い入れの強い曲は、『EASY SHOW TIME』です。前述した通り、『over』のダブルA面のもう片方の曲です。そしてこの曲を語るには、『over』についても触れなければなりません。この曲は『over』があるからこそ、その意味が強く、深くなるのです。
『over』は、カミセン主演ドラマ「PU-PU-PU-」の主題歌で、作詞はトニセンが担当しています。当時18,9歳だったカミセンに、当時平均年齢25歳のトニセンが送った歌詞は、文字通り年上であり先輩であるトニセンから、次世紀を生きる若者の旅路を見守り、励まし、「できないことなんてなんにもない」のだから、果てしない夢を描こうよ、と率直な愛を以て彼らの人生を肯定する贈り物のような曲です。歌詞そのものの意味だけでなく、トニセンからカミセンへのメッセージソングという文脈もあり、非常にファン人気が高い曲です。
この曲は「V6」の歌ですが、同時にV6を「トニセン」と「カミセン」に分ける曲でもあります。メッセージを送る人、受け取る人。若者と彼らを見守る存在。先輩と後輩。振り付けもトニセンとカミセンで別になっています。V6にはカミセンとトニセンという2つのユニットがあり、その2つが対比されることで、別々の存在だった彼らが共に歌い踊ることの、一言でいうと「わかりやすいエモさ」があります。そんな、まるでV6の歴史を歌ったかのような『over』ですが、実はV6の歴史はもう一曲の存在があって、初めてV6のものになるのです。トニセンとカミセンに分かれていた彼らはどうやって「V6」になるのか。それは、『EASY SHOW TIME』によって実現されるのです。
初めてこの曲を聴いたときの印象は「『Can do!Can go!』の親戚ジャンル」です。キラキラした音。ダンス曲としてのビート感。サビで繰り返される印象的なキャッチフレーズ。若さ溢れる歌詞。ジャニーズ・クラシック的要素はCDCGと似ているのにどうしてこんなに知られていないんだろう。しかし、何回も聞いていくと、この曲がV6を作り上げる唯一無二のものである理由がいたるところに散りばめられていることに気づきました。この曲は、あまりにも「V6そのもの」を歌った曲であるがために、V6以外には歌われないまま、大切にしまわれてきた曲なのです。それらについて歌詞を参照しながら、色々とこねくり回しながら書いていこうと思います。
うつむく恋が 傷つくたびに
迷子のように 立ちつくす
1番Aメロからこの歌詞。エモい!!!!!!と一言でいうとそれに尽きるのですが、こういう切なさをカミセンに歌わせたら右に出るものなし。恋に傷つくのは若者の特権だなんて言われたりしますが、何もできず迷子のように立ち尽くすしかできないくらい若い青年の空気感と、カミセンの持つやんちゃなかわいげ、純真さが絡み合って絶妙の温度感が出ています。
いいことなんて そう ないから
自分の今を 変えなくちゃダメ
続くトニセンパートでは、いいことなんてそうそうあるものではないから、自分を変えないと出会えないんだよ、とカミセンを諭すようです。しかし、「変えなくちゃダメ」と、どことなく幼い言い方なのは、トニセンもまた迷子のように立ち尽くしてしまう気持ちを知っているからかもしれません。
駅で バス停で ビル街で 視線
落とした足元に ちからを集めてみて
駅、バス停、ビル街。この歌詞を森田さんが歌うと“ジュニア時代、先輩だった井ノ原さんに『君色思い』を渋谷のど真ん中で何回も踊らされた※だって剛かわいかったんだもん!”エピがよぎりますね。井ノ原さんめっちゃわかるよそれ。傷ついた気持を抱えたまま、ありふれた街の風景の中で、うつむいた視線の先にある足元に力を集めて、どうするんだろうか。
Why Don't You Shine?
輝いていたいならEasy Show Time
ターン一つ決める 勇気が芽を出す
Why Don't You Try?
ウソじゃない いちど ためしてごらん
変なヤツだけれど それもいいじゃない
「Why Don't You Shine?」、サビで魔法のように繰り返されるキラーフレーズの登場です。「ターン」という具体的な動作が描かれているように、ここでのショータイムとは比喩ではなく、本当に身体を使って踊ることを意味するのだと思います。そして、会場は煌びやかなステージの上ではなく、駅の片隅やビル街の隙間のようなところで、たとえ変な踊りでもいいから、誰に見せるためでもなく、決められた型をなぞるものでもなく、自分に言い聞かせるように、ただ自分の勇気のために踊ってみようよ、と歌います。
自分がイヤになる 瞬間
誰にも人を 愛せない
2番の冒頭、カミセンパートです。1番ではいじらしい恋の悩みを歌っていたのが、2番では急にはっとさせられるような歌詞が出てきます。青年特有とも言えるような悩みから、人間に普遍的な孤独の深淵に沈吟するような心情が、カミセンの若い声で歌われると、なんとも切実に響きます。
落ち込みすぎる この若さを
引き受けながら でも夢見てる
続くこのパートで、トニセンは文字通り若さを引き受けます。そしてこのトニセンパートこそが、この曲の転換点であり、この曲をV6たらしめるポイントです。トニセンが「若さを引き受け」ることで、今まで分けられてきたトニセンとカミセンが「V6」になるのです。
V6がV6であるとき、年上組であるトニセンはずっと「大人」としての役割を担ってきました。特にこの曲がリリースされた時代のトニセンとカミセンの年齢差、10代と20代の差はとても大きいです。今でこそV6古典落語と称される「まだ10代と20代前半なのにジャニーズSr.と呼ばれていた」「初シングルのジャケットでトニセンがめちゃくちゃ小さかった」「1枚目はカミセンの足元にいたのが、2枚目のシングルでは立ち位置がめちゃくちゃ後ろに下がって相変わらず写りが小さかった」「アダルトチームという名前だった上3人が、Coming Century【次世紀】結成を受けて、対比のためにもらった名前が20th Century【20世紀】(尚2001年に21世紀になり、20世紀は「過去」になったという笑えないオチ付き)」といったエピソードの一方で、「コンサートの会議をしていても、(経験豊富なトニセンが進めてしまうから)暇なんだよね」と、20周年の時に出演したSONGSで健くんがどこか寂しげなトーンで話していたように、デビューしてから数年は、V6にとって年齢差はトニセンとカミセンを分断するものだったのかもしれません。
落ち込みすぎることを若さと捉えていること、そしてその若さを引き受けることができるのは、トニセンが大人だからなのかもしれません。しかし、今のトニセンにも通ずるような、年齢をありのままに受け入れ進化し続けるしなやかな強さだけでなく、「でも夢見てる」と続くことで、未熟な自分という現実を見る大人というより、夢を見ることを諦められない青さがより強調されているように感じます。カミセンと対比されることで誕生した経緯を持ち、そのためにこれまで「大人」を担ってきた(もしかしたら、担わざるを得なかった)トニセンが、V6の中で初めて若さを歌った、つまり年齢差や大人役割を脱いだことでV6が分断を乗り越えるきっかけが、このパートなのです。
君に電話して グチるより
夜の小さな公園で ビート感じているよ
このパートを、甘くて幼さすら感じる岡田さんの声で歌われるのが最高ですが、岡田さんが歌うこと自体にもまた意味があると思います。岡田さんはカミセンの最年少でもありますが、V6の最年少でもあります。一般的に「君」と話しかけるとき、その相手となるのは同い年か年下であることが予想されますが、*3ここで岡田さんが「君」と語りかける相手はほかの5人、年上メンバーしかいません。先程トニセンがV6に近づいていったように、カミセンもまた徐々にトニセンへ歩み寄っていきます。先ほど取り払われた年齢差という垣根を超えて、そして「夜の小さな公園で踊る少年」という物語に「V6メンバー」という現実を招くことで、より「V6」の歌になっていくような感覚。
物語としての構造もですが、情景描写がいい!君に電話でグチるより、街灯がぽつんと照らしているような小さな公園で音に乗っている。「夜の小さな公園」ってほとんどの人が具体的な光景を想像できるからいいですよね。地元に絶対ある風景だもん。鬱屈を誰かと共有するのではなく、ビートという言葉のないものに身を預けるのは、何だか孤独の色が強い行為のように感じます。
Why Don't You Shine?
ささやかな 抵抗だぜ Crazy Show Time
踊りだせばわかる 憂うつがほどける
Why don't you try?
身体ごと ひとは自由になれる
かたまれば 明日の チャンスが見えない
キラキラした音に乗せて歌われる踊ることの意味とは、逃れられない孤独感や苛立ち、未熟さを振り払おうとすることでした。それらに対してささやかな抵抗だぜ、と傷つきながらも負けないぜと不敵さを感じるのは、踊ることが武器になることを知っているからです。憂鬱という心の内側を蝕む、掴むことすらできないものからも自由になれるから、踊ってみるのです。
Why Don't You Shine?
輝いていたいならEasy Show Time
踊りだせばわかる 憂うつがほどける
Why don't you try?
ヘタでいい 何も考えないで
ココロを切りかえる 時間は必要
輝いていたいなら踊ろうぜ、そうすれば憂鬱だってほどけるよ、と最後まで歌われるくらい、この曲において踊ることの持つ意味は大きいです。「変なヤツだけどそれもいいじゃない」「ヘタでいい、何も考えないで」「心を切り替える時間は必要」とあるように、ここで歌われる踊りとは、実際に体を動かすことではありますが、そこにルールはありません。最後までただ「踊る」というテーマ、姿勢、信念が貫かれています。
この曲には、具体的なエピソード描写があるにもかかわらず一人称が出てきません。「僕」という具体的な誰かの話ではないのなら、これはV6史を曲にした、V6の自伝なのではないか。V6とは、という物語であり、歴史であり、答えですらある、と思っています。
V6固有の物語を歌っているすると、この曲は「V6になる過程」を描いたものです。『over』でトニセンとカミセンに分かれていた彼らは、トニセンが若さを歌い、歩み寄ることができるようになったことで、年齢差による分断や、大人と若者というそれぞれが背負っていた役割から脱却し「V6」としての言葉を手に入れます。そのためには、「踊り出せばわかる」。輝くための、憂うつをほどくための、自分であるための方法、踊るという共通項を持ち寄ることで、V6になる。この曲はV6としての在り方を歌った曲なのです。
V6は、否定的・肯定的、両方の文脈から「ばらばら」と語られてきたグループです。トニセンとカミセンという2つのユニットだったという歴史は先に長々と書いてきましたが、『EASY SHOW TIME』によってひとつになった後、再びV6には分裂のイメージが付けられるようになります。ガコイコが終了した頃、10周年を超えたあたりから、元々活発だった6人それぞれの個人活動の立ち位置を確立させていきましたが、その影響もあってなのか2011年からはライブ周期は2年に1回、ライブのない時期は個人活動が目立ち、そして当時のファンの方のブログを読むと、その頃から「個人活動を理由とした解散報道」がしょっちゅう出ていた、というグループです。私は解散=一律悪いことであるとは思っていませんが、そういうことがあったのは、当時の同世代グループの状況として、SMAPにはスマスマが、TOKIOには鉄腕DASHが、KinKi Kidsには堂本兄弟という各グループの代表的な冠番組が継続しており、それと対応するガコイコが終了したことや、グループでありながらここまで全員が他分野で個人活動をしているグループが当時は珍しかったことなど、色々あると思います。しかしある時から肯定的な文脈での「ばらばら」の使われ方が目立つようになり、そして2015年のSONGSで全員が個人活動でエキスパートとして活躍している、ということが強みとして語られ、「ばらばら」はV6らしさを象徴するキーワードになりました。時にマイナスの意味で使われた言葉を「らしさ」とし、いつもの調子でいこうぜ、と言いながら着実にアップデートして取り込んでいく姿は、V6の進化であり強さです。
変化してきたからこそ続いてきたグループであると思うし、私自身変わっていくことを受け入れられずとても困惑したこともあったけれど、徐々にその変化を受け入れ、楽しむことができるようになっていきました。でもやっぱり、オタクのわがままとして、ばらばらなのはさみしいです。それは2017年が最後の有観客ライブになってしまい、6人の姿を見ることを待ち続けていることとか、V6が解散してしまうこととか、せっかくひとつになったのにまたばらばらになってしまうこととか、私が大好きだった「らしさ」が変わっていったこととか、色々なことを含んだ感情です。
ここ数日の間で、V6の最新シングル収録曲である『MAGIC CARPET RIDE』が披露されました。発売されてからずっと『僕らは まだ』だけが披露されていましたが、この曲は聴かせるバラードで、振付はなく、そして最後に明かされる「僕らはまだ未完成さ どんな色にでもなって行ける」という、未だにばらばらだと言い切ってしまうことで「ばらばらというV6らしさ」を表した曲です。
この曲がいい曲なことに違いはないのですが、披露するために番組に出るたびに「ラスト」だとか「解散前最後の」と言われることが、とても嫌でした。V6の口から語られる分にはまだ受け入れられるのですが、あのFC動画以来V6の口から「解散」の言葉を聞発する姿を見ていない、きっとその語らないことに意味があるのに、周囲によってV6の物語を簡略化され消費されることが嫌でしんどくで、正直Mステ以降、録画はしているものの音楽番組自体を見れませんでした。今回はMCが中居くんと安住さんという、私が信用できる二人だから見れました。そしてこれを機にきちんと『MAGIC CARPET RIDE』の歌詞を読み返し、そしてパフォーマンスを見ました。
ありあまった情熱
解き放つすべも知らず Dance
怖くないと言えば噓になるがもう一度
いま 胸の熱さだけ 信じてみたい
Clap your hands
Until the kick comes back
止められないRhythm踊り続けろ
Can you hear me?
裸足のかかと鳴らし feel it
それぞれ自由でいいんだ
この際誰の目ももう don't care
ここに来て、こんなにリンクすることある?と、愕然としてしまいました。そしてこの曲で踊るV6を見て、さみしさのひとつが昇華された気持ちになりました。『EASY SHOW TIME』が最初に歌われてから23年の時を経てもなお、V6は踊ることをやめず、踊ることを共通項として持ち続けており、彼らにとっての踊ることの意味も姿勢も変わらず、「踊りだせばわかる」ことを示し続けていました。V6らしさは変わっていないし、きっと彼らは最後までその信念を持ち続けている。6人で踊ることでV6になる、そのシンプルで内向きでなV6らしさが最新曲にも流れていて、今でも変わらず続いているのなら、こんなに素敵なことはないのではないか、と思います。
縦横無尽にフォーメーションダンスを操り、軽やかなステップを繰り出し、同じグルーヴの中で漂い、歌詞が終わったところで横一列になり、同じリズムを聴いている6人が、同じ振付を、それぞれの美学をにじませながら踊っている6人は、ばらばらで、ひとつです。26年積み重ねてきた時間であり、「最新こそが最高」という森田さんの言葉をそのまま表す、変わり続けることで得てきた在り方と、「踊る」ことへの変わらない態度は、ずっとずっと前から途絶えることなくV6に流れていた「らしさ」の結晶なのです。
私が勝手に見出しているだけですが、まさか23年越しにこんなつながり方をするなんて、しかも「踊る」というV6を語る上で絶対に外すことのできないものでつながるなんて、月並みな表現ですが奇跡みたいだなあと思います。きっとこれからわかることや、答え合わせされることもあるのかもしれません。発表以降、時間が限られていることは分かっていてもV6を見れない状態が続いていたのですが、このパフォーマンスを見たことで、シンプルにV6の格好良さを再確認できたというか、素直にV6を好きだという気持ちを取り戻せた気がします。これからを見るにはどうしても寂しさがついてきますが、でも好きになるのに遅いことはないです。V6はいつでも踊り続けてきたのだから。
*1:https://avex.jp/v6/discography/detail.php?id=145
*2:https://avex.jp/v6/discography/detail.php?id=155
*3:この文脈で1番に登場した恋の相手にグチるのは何だか違う気がします。自分が嫌になる瞬間のなかには、きっと恋の相手とうまくいかなかった、というシーンもあると思うので、その相手にぐちをいうことはしないんじゃないか?と解釈しました。