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井田、Aロマじゃね?? 〜ドラマ『消えた初恋』をさらにクィアリーディングする②【第5話〜第8話】〜

signko.hatenablog.com

 

 前回の続きです!

 

【第5話─「付き合う」という定義の書き換え】

 オリエンテーション2日目、またもや食材をほとんどゲットできなかったCランクの青木と橋下さんに対し、危なげなくAランクだった井田。Cランクふたりの会話を聞きながら少し考える表情を浮かべた井田は、カレーをクラス全員で作ることを提案します。「体力とか地図を読む力とか、みんな違うに決まってる。それだけで人を判断してランク付けするなんて変だろ」。これが井田から出たことにちょっと考え込んでしまいました…
 このセリフは、とてもマッチョなオリエンテーションのルール(しかし最終的に種明かしされた答え「協力すること」、つまり井田の答えが正解だったわけですが)への抵抗という役割を果たしているのですが、それを作中人物らのパワーバランス(どの程度マジョリティ側に近いか、もしくはマイノリティ側に近いかという権力勾配)においてマイノリティ側に位置する井田が、マジョリティの設定するルールによる違和感や負荷を受けやすく、それらに敏感にならざるを得ないこと。対してマジョリティ側である(もちろん彼らの中にもマイノリティはいたはずだと思っていますが、今回「そうである」と提示されているのが青木と井田だけなため、雑にマジョリティ側としています)クラスメートは、井田の言葉を聞くまでルールの不均衡さに気づかずに鈍感でいられるということを描いているようにも読めます。井田は阿久津と対峙し「そのルールはおかしい」と言うわけですが、これまんま”マジョリティが引き受けるべき「問題」”の矢面に立たされるマイノリティの構図じゃん…になりました。実際の社会では一人の人間をマジョリティ/マイノリティに区分することは不可能で、例えばジェンダー、社会的階級、人種、障害の有無といった様々な要素で構築されていることを理解しなければならない、と書きながら自戒しています。*1

 場面は変わって、阿久津に「お前たちだけがうまくいかなかったのは臆病だからだ、行動する前にあきらめるな、勇気をもって一歩踏み出せ」と鼓舞された青木(これも「青木が井田に告白すること」に対しては単に青木が臆病だから、だけでは説明できないんだけどね~~と思ったけど)は、振り返り井田を見つめます。そこにはあっくんたちと焼きそば作るの楽しかったね~と話しているような無邪気な井田の姿があります。きっと青木はそういう井田の姿を好きなんだろうなと思って「「愛」」が脳裏に浮かんできました。いいシーンだね......

 そして青木は決意し、ふたりきりで炊事場から少し外れたところで話を始めます。「(自分を好きということが)勘違いでよかった」に俺は傷ついたんだ、という青木の言葉に、井田は眉間にしわを寄せ考え込み、そして驚いたように「今、傷ついたって言った?」と問いかけます。ここでふたりは互いに本当のことに近づき、ついに青木が「お前のこと、本当に好きになっちゃったんだ!」と告白します。勇気を振り絞った青木はその勢いで「一思いに振ってくれ」と井田への思いを完結させようとしますが、井田は「本気なのは十分伝わってるから。…付き合ってみるか」と、まさかのOKが出ます。が、その理由が「なんかほっとけないし」だったことに青木は「真剣に考えてくれたんじゃなかったのかよ」と怒った様子です。すると井田は「考えた。考えた結果、結局考えてもわからないことが分かった」「とにかく、青木に真剣に好きだって言われて応えたいなって思ったんだ」「そういう理由でお前と付き合うのは、ダメなのか?」と答えます。

 このセリフによって、井田にとっての「付き合う」の意味とは、自分の「好きがわからない」ことは変えることのないまま、青木の好意を受け取り、応答しようとすることである、と理解することが可能です。これにより、井田は付き合う=当事者は相互に恋愛感情を持っており、恋愛の文脈で好意を抱いている、という当たり前とされてきた規範を壊し、友達ではない(思えば第3話の時点ですでに井田は青木のことを「友達ではない」と示しています)そして恋愛感情は必ずしも伴わないけれど放っておけない、思いに応えたい相手として青木という存在と向き合い、関係を作ろうとします。恋愛至上主義社会の中で、自分の本当の思いを偽り「恋人」になることをせず、しかしそれより格下の「友達」になる*2こともせず、井田は自分のための「付き合う」ことのを意味を示し、その相手に青木を選びます。こんなサイコーのAロマ宣言、地上波ドラマで見れるなんて思ってなかった。しかし、青木はこの宣言の意味を理解しておらず(それこそがAフォビアが我々に降りかかってくる理由…)、それがこれ以降に起こるいくつかのすれ違いの原因にもなっているのですが......ともかく、青木と井田は付き合い始めます。

 

 

【第6話─「(恋愛的に)好き」の規範を揺るがす/アイデンティティの獲得】

 井田は、青木の「俺らって付き合ってんの?」に対し「これからよろしくな」と返し、「それだけ!?何も変わってなくね!?」と戸惑う青木の姿に、「確かに...」と考えこみます。さらに「井田って俺のこと、好きなのか?」の問いかけに「わからん。そもそも人を好きになったことがないし」「比較対象がないことにはなんとも...」と、見方によっては(≒Alloロマンティック側に寄った観点から解釈すると)とても冷たく映る返答をします。

 青木は、付き合う=友達から恋人へとラベルが変化し、それに伴って関係性の中身も「友達」より特別なものに変化していくと考えています。だから、付き合ってもそれ以前の頃と態度が変わらない(ように見える)井田に不安を覚えているのです。この恋人関係は他のあらゆる関係より優先されるべきであり、特別扱いされなければならないという社会規範を恋愛伴侶規範*3と呼びますが、これは恋愛関係以外の人間関係で結ばれる絆やケア関係、愛情を「恋愛以下である」と価値を下げる有害な機能を持っており、これはAロマンティックスペクトラムへの差別につながると言えます。だから井田はこの規範を理解しない(受け入れず拒否する)んですよね。

 井田にとって付き合うとは、「好きがわからない」ことは変えることのないまま、青木の好意を受け取り、応答しようとすることです。変化を求められても、井田は「好き」がわかりません。そしてきっと、青木の求めている「好き」が自分の中にないものであることも自覚しています。自分の中にないから、外にある関係と照らし合わせることで青木への思いを理解しようとした井田なりの誠実さ──しかもそれは、青木(≒Alloロマンティックというマジョリティ側)の思いに応えようとした歩み寄り、しかもそれは、マイノリティがマジョリティに向けて設計されている規範に適合しようとする、あえてこの言葉を選びますが、本当は不要だったはずの努力、優しさによって発揮されたもの──は、しかし全ての人には必ず恋愛感情が備わっており、皆がそれを求めている、という規範を違和感なく享受できる青木にとっては理解できないものであり、井田の発言を「そんなのおかしい」と一刀両断します。その後の井田の傷ついたような表情が辛くて......恋愛伴侶規範に傷つけられるAロマの図、もう見たくねえな......

 

 ぼろ負けの試合が終わりうなだれる一同。そんな中井田は誰かを探すように辺りを見渡し、松内さんからもらった紙袋を持って体育準備室から出ていこうとします。すると松内さんが現れ、「あのさぁ…」と話しかけられます。しかし思い出すのは青木のこと。「あのさ、俺のこと、好きなのか?」「比較対象がないことには何とも」「それで付き合うっておかしいだろ!」先程のやり取りがリフレインします。唐突に松内さんから「付き合いませんか?」と提案され、驚く井田。「何で?他に好きな人いるだろ?」

 松内さんと先生の会話を聞こえてなかったと言っていたけれど、実は松内さんが先生にシューズ入れを渡そうとしていた会話が聞こえていたことが明かされます。青木の前でそのやりとりが聞こえていなかったと嘘をついたのは松内さんの思いを守るためだったと説明されていますが、これはAロマパーソンに向けられる「Aロマは恋愛が理解できないから、他者の心の機微がわからず冷たい」というステレオタイプを打破するシーンとも読むことができます。この社会で生きていて、ニュースや家族や職場の人との会話、さまざまなエンタメなど、パブリック/プライベート関係なく恋愛についてのメッセージは発信されており、常にそれらに晒されている私たちは、望む望まざるに関わらず恋愛に巻き込まれ、その結果恋愛について学習せざるを得ません。他者に恋愛感情を抱かないからと言って、必ずしも恋愛に関するあらゆることを理解できないというわけではないのです。だから、Aロマ的表象として恋愛を全く理解できないキャラクターが描かれると強く違和感を感じます*4し、井田が自然に松内さんの置かれている立場を慮る行動をしたシーンが挿入されていたことを好意的に感じました。

 谷口先生と似ているから井田も好ましく思っていると明かし、「こんなに(谷口先生を)好きだなんて、バカみたいだよね」と自嘲する松内さんに、井田は「すげえよ、そんなに思えるのは」と答えます。井田にとって「(わからないなりに)応答しようとすること」だった「好き」が、止められないくらいあふれ出て、伝えようとするものも同じ名前で呼ばれることを知り、「私と話してるのに上の空だったし」「ついつい目で追ったりとか」「今何してるのかなとか考えたりしちゃう」と、井田が青木に対して感じていたこともそう呼ばれることを教えてもらうことで、自分が青木に向けていた感情に「好き」という輪郭が出来始めます。

 …その「好き」とは、本当に恋愛感情でのみ語ることが許されているものでしょうか?
 たとえば好きなアイドルがいて、ふと今あの彼は何をしてるのかなと考えたり、グループで踊っていても自担を一瞬で見つけられるとか、そういう経験ってないでしょうか?そういう日常の中に入り込んでくる大切な存在に向ける感情を、「好き」と説明することは十分可能なことで、その感情とは必ずしも恋愛感情に基づいたものではないはずです。*5そして、その感情を他の「好き」と比べて劣っているとか、本物ではないとか、誰が言えるでしょう?それらもまた、松内さんの言う「好き」の定義に当てはまると言えないでしょうか?...つまり、ここで井田が輪郭を掴んだ「好き」とは、必ずしも恋愛的な意味とは限らない「好き」の可能性があるはずなのです。

 自分の青木に対する思いが少しずつ信じられるようになっていった井田は、自分にとっての「好き」の内容を言語化しようとします。言語化するとはつまり、井田が自身にとっての「好き」の定義を自分に示し、その定義によってアイデンティティを獲得していく重要なプロセスと言えます。その過程によって井田が獲得した「好き」は、他の関係との比較によって理解されるものではない、というものでした。これは、井田にとって青木は他の人、例えば「友達」「クラスメート」のようにこれまで自身の中にあったカテゴリーに分類される相手ではない固有の特別な存在であるということであり、井田自身が「そもそも人を好きになったことがない(から好きかどうかわからない)」、言い換えれば「他者に恋愛的な好意を寄せるという感情・感覚を持っていない」ことを受容したことを示していると読むことができます。他人ではないし友達でもない、でも【恋愛的に】誰かを好きになったことがなく、青木に対してもそうなのだから、青木のことも「好き」ではない…ではなく、【恋愛的に】好きではないけれど、でも自分の青木に対する思いは疑わなくてもいいものなのだと確信し、そっと安堵と喜びの表情を浮かべる井田。そしてそれは「人は必ず他者に対して恋愛感情を抱く」という規範から脱却することを意味するとも言えるのです。
 井田は青木を恋愛の文脈・関係性の枠から外し、その上で「俺、青木のこと好きなのかな?」と問いかけますが、これは青木に(恋愛的な意味合いでの)答えを求めたのではなくて、自分が「好き」という感情を(何となくではあるものの)理解したことを青木に伝え、青木が求めている「付き合う」の状態に近づけたらいいと思っているよ、という応答であり、「自分と青木」という非Alloな関係性の構築への第一歩なんですよね。ここで「井田の気持ち、ちゃんと聞けて良かった」と青木から井田にボールがパスされ、そして井田からもパスを返すやり取りを数回するのがめっちゃ希望でした。なぜなら、6話で井田がしてきた「好きの意味を(再)定義し、相手に伝える」ことは、Aロマとしてのアイデンティティのカミングアウトと同義であり、その上でこのやりとりが決して一方通行のものではなく、互いの思いを伝え合い、受容し合う未来への可能性を意味しているからです。井田は(両)片思い的なものではなく、ある意味互いの妥協点を探りながらふたりの関係性を作っていくことを望んでいて、大切な人と共にあるための方法を、諦めていないんですよ......
 6話は、井田のアイデンティティ獲得と大切な相手へのカミングアウト、そして相手に自分を拒絶されることなく受け止められる経験、という超重要な回だと思います。まじでこんなふうにAロマ的クィアネスを描く作品がありました??という感情でした......

 しかしそんな6話は平穏に終わるわけではないというのが面白いところです。青木は、井田のカミングアウト(と断言しますよ)を受けて「俺も、いつかお前から、本気で付き合おうって言われるようになれたらいいなって思ってるから」と答えます。井田は一貫して「好き(がわからない)」ことに焦点を当てて考え、そしてアイデンティティを獲得していきますが、青木は「付き合う」という言葉や関係を求めているようです。
 この「付き合うという枠組みを優先する青木」と「好きという感情に焦点を当てる井田」の対比から感じられるのが、まさに社会を覆う恋愛伴侶規範の支配の強固さです。青木は「好き」という感覚をわざわざ言語化する必要がなく、規範に沿った言葉の活用をしても違和感を覚えないマジョリティ側です。「好きだから付き合う(付き合いたい)」という構図を自然に信じている青木にとって「好き」と「付き合う」はほぼ同じことを意味しているため、青木は井田の思いを確かめるときにどちらの言葉を使っても(青木にとっては)あまり問題にはなりません。だから「付き合う」の前提条件とされている「好き」を青木とは異なる理解をしている井田との擦り合わせが必要ということに気づいておらず、結果井田のAロマとしてのカミングアウトの意味を完全には理解していないとも読むことができ、青木の振る舞いはマジョリティの特権に無自覚な態度を示しているとも読むことができます。初心LOVEが歌ってますけど、すれ違いの予感がすごいですね......

 

 

【第7話─「付き合う」を見直す】

 橋下さんがあっくんに振られてしまったことを知り、井田との会話もそこそこに急いで階段を駆け上がる青木。たどり着いた屋上でまず目に飛び込んできたのは、クラス公認カップルのるみと弘夢の姿でした。

 このシーンからは、2つの意味を読み取ることができます。まずは「付き合うって何すればいいんだ?」というごくシンプルな問いを投げかける井田、「付き合ったらすること」の理想に振り回されやすい青木への、「自分が好きな相手としたいことをすればいい、決まりなんてない」というアンサー。そして青木の理想という形で示される「恋愛のテンプレ」に1mmもかすっていない「学校の屋上でアフタヌーンティーを一緒に食べるという【モーニングルーティン】」と、るみと弘夢が置かれている状況を客観的にギャグっぽく描くことで、「付き合う」ことそのものをギャグっぽく見せる効果です。(るみと弘夢の関係そのものをジョークであると言っているわけではなく、彼らの様を「ギャグっぽい」として描くことでの効果の話です)
 ドラマの中で青木は井田との恋愛関係を求めており、同時に視聴者の多くもそれを期待しているはずです。その中で、物語の前提とされている「恋愛」をある意味面白おかしいものとして描くことで、恋愛は尊いものであり、全ての人がその関係を目指さなくてはならないという規範を軽やかに退け、ドラマをメタ的な視点から眺めている視聴者に対して恋愛の(不当に特権化された)価値を見直させる役割を果たしていると感じました。制作者にそういう意図があったのかはわかりませんが、クィアリーディングによってそのように読むことができるシーンが挟まれているのはとても画期的だと思います。

 一緒に昼飯を屋上で食べたいとテンパりながら打ち明ける青木。「飯食うだけだろ?」と戸惑いながらも了承する井田ですが、あまりにも嬉しそうな青木を見て少しほおを緩めます。まあこんだけかわいい顔をされたらそうなるよね。わかるよ井田。敢えてギャグっぽく描かれたるみと弘夢の楽しそうな姿がうらやましかったのだろうことがわかる青木の提案が、井田の「青木の素直なところ、すごいと思う」という惹かれポイントなんですよね…かわいいやつ。

 念願叶って屋上でふたりで昼飯を食べますが、青木にとって「ふたりきりの・ふたりだけの特別な時間」であるこの時間は、ただ一緒に昼食をとる以上の意味を期待が込められています。しかし井田は言葉通り「一緒に昼飯を食べる」だけで、甘い空気なんて微塵も発しません。そんな井田に青木は「そもそも井田は俺といて楽しいのか?何考えてるかわかんねえし」「付き合うってこういうことじゃない気がする」と、がっかりした様子で切り上げようとします。これは一般的な少女漫画的な読み方では「思いがすれ違うふたり」のシーンなのだろうなと解釈しましたが、なんせこちらは井田をAロマとしてクィアの話として読んでいるので、「何考えているのかわからない」とか、「付き合う」の規範に沿わない感情や関係の排除のされ方とか、とことんAlloロマンティックな世界に振り回される井田の姿に辛くなっちゃいました......

 青木が不安とさみしさを吐露すると、「俺はお前が喋るのを待ってただけだ。何か悩み事があるんじゃないのか?」と、自分が話さなかったのは青木が悩んでいるのを察していて、そのことを話し出すのを待っていたからだったと明かされます。しかも、「お前朝からずっと、何か別のこと考えてるみたいだし」と、「応答しようとすること」だけでなく、6話で松内さんが言っていた「ついつい目で追ったりとか」「今何してるのかなとか考えたりしちゃう」というような行動も背景にあったのだろうなと想像できるセリフが語られます。井田は青木をちゃんと大切に思っているし、直接的な言葉ではないけれど、ちゃんと好きであることが示されているんですよね。

 橋下さんのことと井田のことで悩みを重ね、「俺はとんだ移り気おせっかい野郎だ」なんてがんじがらめになっている青木に、「そんだけ一緒に悩んでくれるから、橋下さんも青木に相談したんじゃないのか?」と語りかけます。…きっと井田も、自分との関係について一緒に悩み、ふたりのこととして向き合っていくことができる相手として青木を見ているんですよね......マイノリティ側に悩みや問題、そして孤独を背負わせることをしないという描き方としても、井田にとってそういう相手がいて、それがとても大切な存在であるという物語としても、心強く救いになったシーンでした。何より、言葉にして伝えることを諦めていない井田が眩しい......

 委員長&副委員長の登場で、「橋下さんが失踪した(早退しただけ)」というニュースが飛び込んでくると、ことの経緯を知っている青木は眉間にしわを寄せ考え込みます。すると井田は「行ってこいよ。気になってんだろ?」と、橋下さんを追いかけることを勧めます。せっかくふたりの時間を過ごしているのに、と躊躇った様子を見せる青木ですが、「誰かのために頑張っている青木、すげえいいと思ってるから」と背中を押します。自分で言った言葉に少し驚いて照れているような井田の表情がまたいいのですが、このセリフを「付き合っている」関係にある井田が言うのは、「恋愛関係*6は何事においても優先されなければならない」という規範を打破し、恋愛至上主義からの解放を試みているようにも読めます。

 橋下さんとあっくんもなんやかんやで関係が壊れることなく続いていくことがわかり、微笑ましげにふたりを見ている青木の隣にやって来た井田は、「これからは困ったことがあったら、何でも相談しろよ」「付き合うってよくわかんねえけど、ふたりでいろんなこと話しあったり、助けあったりするんじゃないのか?」「少なくとも俺は、お前が困ってたら助けたいと伝えます。「二人でいろんなことを話しあったり、助けあったりする」という「付き合う」の定義、絶対青木の他者と真剣に向き合う態度から導かれたやつじゃん......ほら、井田はちゃんと青木を見ているんですよ......ただこの一連の井田のセリフ、続く8話への布石としての役割も担っているためか、少女漫画のフォーマットを以てしても甘やかさより「連帯・共闘」の意味合いの方が強く響いているように感じ、クィアが生きていくうえで仲間と支え合うことがどれだけ切実なことかを思い知らされた気がしてちょっと苦しくなってしまいました.....

 

 

【第8話─ホモフォビアへの抵抗】

 すでにこのドラマを完走された方はご存知だと思いますが、第8話はクィアにとってかなりしんどい描写が多い話ですので、ほんとに気を付けてご覧になってくださいね…

 

 大学進学が危ぶまれるほど数学の成績がやばい青木は、教育実習生としてやって来た岡野先生に個人指導してもらうことになります。気合十分で緊張した様子の青木に「初日は気楽に行こうか」「苦手分野とか得意分野とか、まずは焦らずお互い知っていこう」と、落ち着いた対応を見せる岡野先生。「なんか余裕があってかっけえ…」と青木は早くも心を開いたようです。

 青木のバツだらけの小テストを採点しながら話題は岡野先生の学生時代の彼女とのことの話になります。語られる直球のヘテロエピソードに「俺もまさに『それ』で」とうまく濁しながら話を広げていく手法、馴染みがありすぎてもうしんどいですね。初対面の人にセクシュアリティを開示するなんてあまりにもハイリスクなことできるわけないし、しかしこういうのが後々「(ヘテロだと思っていたのに)騙された」とかになっていくんですよね......嫌な既視感......
 青木も自分と「同じ」ことを知った岡野先生は、「で、どこまで進んでんの?」と内緒話のように問いかけます。「何もないっすよ!」と慌てたように答える青木に「怪しいな~」「よかったら、相談のるよ?」と、楽しそうに、それでいて親身な態度を見せます。この一連の流れはシンプルに「最悪」の一言で説明できるのですが、詳しく見ていくと何重にも有害さを含んでいるんですよね。

 まず、このやりとりは恋愛・性愛の欲求や感情が備わっていることを前提としており、他者にそれらが向かない存在のことを不可視化しています。この点は青木も違和感なく受け入れ答えていますが、その問いかけには「応えない」という選択肢はありません。*7それだけ社会がすべての人間がAlloであることを前提に設計されていることを示しています。さらに岡野先生は、昼食を一緒に食べているのだと嬉しそうな青木の言葉に固まり、「ピュアでいいなあって」「やっぱり高校生で付き合ったら、手つなぎたいとか、キスとかしたいなって思わないのかな」と語ります。これらからは、手をつなぐ、キス、そして性行為のようなロマンティック・セクシュアルな欲望の存在を当然とする考えだけでなく、それらの行為が親密度や愛情の尺度として機能していることも示し、それによりその欲求を持っていない人間は親密さや愛情を持っていないとされることでAセクシュアリティに対する阻害を行っています。何よりそれは異性愛規範とも強く結びついており、それ以外の関係での行為と親密度は結びつかず遊びとされたり、一過性のものとされたりなど、非ヘテロへの差別構造を示していると言えます。

 さらに、手をつなぐとかキスといったことを「まだそこまで考えていない」と言う青木に対し、「案外向こうは待ってるかもしれないよ」と、関係を展開させるように言ったのは、性的な話題への期待を、青木だけでなく岡野先生自身も持ち、楽しもうとしている態度とも見えます。
 そもそも、岡野先生がこういう話題や質問を初対面の相手にすることができたのは、きっと青木のことを自分と同じヘテロセクシュアル男性だと認識しているからです。それにより、性的な話題を共有できる仲間であるホモソーシャルな関係を形成することで青木と距離を縮めようとしている、と読むこともできます。言うまでもなく、ホモソーシャルミソジニー女性嫌悪ホモフォビア(同性愛嫌悪)を特徴とする関係のため、青木にとってそこは安全ではありません。そのことにまだ気づいていない青木を見ててはらはらするし傷つけられるとわかっているのにブログを書くために何回も見るのがほんとに辛い......

 そんな岡野先生の言葉が脳裏にありつつ、いつものようにふたりで屋上に行くと、こちらもいつものようにいちゃつくるみと弘夢の姿があります。あまりにも熱烈なJust the two of usっぷりを見て場所を変え、風紀委員なんだし取り締まれよという青木に「別に悪いことじゃないだろ。合意の上みたいだし」と井田が言うと、青木は驚いたように「お前ってそういうこと知ってんの!?」と話します。

 ここでのポイントは「合意」という言葉を使用したことです。「同意のない性行為は性暴力」があまりにも理解されなさ過ぎること、性暴力が隠され続けてきたことを発端に「#MeToo」がムーヴメントとして広まり、日本ではフラワーデモが開かれています。そして先月「強制性行等罪」と「準強制性行等罪」が統合した「不同意性行等罪」に改称された法律が成立しました(この法律が成立したことで性暴力に関する法制度が万全に整ったというわけではありません。まだまだ不十分ですが、しかし少しでも前進していると見ることはできると思っています)。辞書的な意味として「合意」は双方の意思を一致させること、「同意」は一方が提示した条件にもう一方が意思を合わせることという違いはあるのですが、なんにせよこのプロセスを踏まないとハラスメントや暴力が生じやすくなってしまいます。そして悲しいかな、それを理解していない人がまだ多く、全然「当たり前」のことになっていないのが現状です。だからこのワードをこういった文脈で使える井田は、セクシュアルハラスメントや性暴力の起こる構造について学んできているのだろうなと想像しました。少なくとも彼は、「合意」というワードを付き合っている関係にある者のコミュニケーション全般(恋愛的・性的なものを含む)に関わる原則として理解し、使っているように感じました。

 しかしその言葉を聞いた青木の「お前って”そういうこと”知ってんの!?」は、恐らくそれまで性的なことを感じさせなかった井田が初めて「そういう」話題を口にしたことで、元々井田に対してあった興味や欲望(理想の中で井田とキスする回想シーンがこれまで数回挿入されている)に加え、岡野先生の言葉もあって、手に触れようとします。井田はハラスメントを防ぐための知識として恋愛的・性的な関係の話題に触れましたが、青木にとってこの言葉と文脈は、単純に「性(的欲望)」の話として捉えられていることが示され、この認識の違いにとてもグロテスクさを感じました。また意味合いは変わってきますが、好きなアイドルやタレントがいると話し、そのアイドルが異性だったときに自動的に(異)性愛者としてみなされる不快感とも近いものを感じました。こういった言葉はマイクロアグレッションとして、確実に日々メンタルを削っていくものです。要はこの「お前ってそういうこと知ってんの!?」というセリフは、井田を始めとしたすべての人間をAlloセクシュアルな欲望を持つ者の枠に当てはめ、セクシュアリティを起点としたハラスメントの構造の問題を「性的な話題」として覆い隠す機能があるのです。

 井田がびっくりしたように手を引っ込めたことで青木はそのことをごまかし、そして歩道橋で並んで話しているときに「あのときからお前が手隠すようになったから...」と気にしているそぶりを見せます。「もうしねえから。だからそんなに警戒しなくていいし…」と少し傷ついたような苦しげな表情で伝えます。井田の反応は、青木にとっては自分の思いを拒絶されたことと同義なので、こうなるのもわかる。でも井田の「青木、手貸して」というスマートなワンクッションを入れてのスノースマイル*8を見ると、やっぱこういうのが大事じゃん?になりました。いわゆるムードも壊さず、拒否を伝える間も設定しているスマートなやり方、同意のプロセスってこういうことなんだと思います。そしてテンパる青木を見てにやっと笑う井田。ずっとカイロを忍ばせていて、そういうシチュエーションがやってこなかったら井田は何も言わなかったはずで、もしものためにひっそり隠し持っていたって、これを愛と呼ばずして何と呼びますか?なんですよね......

 早とちりだとたしなめられますが、青木が安堵したのは「よかった…キモいとかじゃなくて」という理由でした。これは明確にホモフォビアの存在を示しており、この言葉が青木の口から出ることで、彼自身もホモフォビアを内面化していることを察することができます。自分(のセクシュアリティ)に対して嫌悪が向くのは本当につらいだろうし、そうさせる社会は本当にクソです。だからこそ、井田が手を握ったのは青木という存在の受容のシーンだと感じてなんてできた高校生なんだ......となりました。続く青木の「井田って、どこまでわかってんの?」「付き合ったら普通、あんなことやこんなことするんだぞ」というAlloセクシュアル規範ゴリゴリの言葉は、しかし同性同士のセクシュアルな行為や欲望を否定されることへの恐怖の表れでもあるため、単純な話ではないからこそ考え込んでしまいました。対する井田の「今すぐどうとは考えてないけど、青木のこと気持ち悪いなんて思うわけないだろ」は、セクシュアルな話題に答えることから自然に遠ざかりつつ、青木に巣食うホモフォビアを否定し、アイデンティティを受容するというかなり巧みなセリフとなっています。この井田の態度と言葉に私の方が「井田ってどこまでわかってんの?Aセクシュアリティについての自覚があるの?やっぱそうってことだよね?」になっていたと思います。

 

 歩道橋でふたりでいるところを岡野先生に目撃されてからの流れはね、他者からホモフォビアをぶつけられる経験と、それに立ち向かっていく姿を描いているわけですが、全部を解説するのはすごいしんどい作業なので、クィアの描き方としてよかったと感じた場面に着目して書いていきます。

 まずは、教室で落ち込んでいる青木に対し井田がかけた「青木、何かあっただろ」「言えよ、約束したろ?困ったことや悩み事があったら何でも相談するって」という言葉。これは第7話で井田が語った「付き合う」の定義で、しかも「付き合う」という態度を示すことは、青木の「いつか本気で付き合おうって言われるようになれたらいいなって思ってるから」への応答なんですよね…愛......

 青木から岡野先生とのやりとりを聞いた3人の反応もとてもよかったです。井田の「大したことだよそれは」「青木がへこんでいるなら丸く収まっていない」は、傷ついたことを無視しなくていい、無理やり「自分のせいで」と納得しなくていいと青木の苦しみを肯定しています。あっくんは「どうせ適当なこと言ってる系だろ。なぜなら俺がそうだったから」と、過去のホモフォビックだった自分を繕うことをせず、それは間違いだったと青木に伝えています。
 橋下さんがストレートに怒りを爆発させる姿は、青木の苦しみは岡野先生の態度にあることを示し、問題を個人の出来事に矮小化させない役割を果たしています。*9また、「あんな奴の補習なんて青木が辞めちゃえばいいんだ」「なんで?青木くん何も悪いことしてないのに!もとても重要なセリフです。あっくんは「傷つけてくる相手から逃げてもいい」というメッセージを発信しますが、橋下さんはそれを真っ向から否定します。これは、マイノリティが登場する物語でよく見られる「マイノリティの不幸な退出問題」(と私が勝手に呼んでいる)、規範に沿わない存在が物語に起伏をつけるためだけに登場させられ、規範は否定されないまま傷つけ苦しめられ、最終的に物語の脇役にさせられたり存在を抹消させられたりする表象へのノーを示しています。不利益を被るマイノリティが変化するのではなく、その不利益を生む土壌を設計しているマジョリティが変化すべきである、という真っ当な言葉がティーンから出てくる世界、希望すぎる...

 そして井田は、本当だったら日直の青木がひとりで職員室に行くところだったのを「一緒に行こうぜ」と誘うことで、青木が岡野先生とひとりきりで対峙しないようにします。その上で「俺が話しに行くか、岡野先生に」と青木の抱える思いを共有することを提案し、「いいって、誰にも言わないって言ってくれてるし」と飲み込もうとする青木に「青木はどうしたい?」と、本当の思いを聞こうとします。井田の一連の行動は、青木のためという原則がありつつ決して独りよがりにはなっていないバランス感覚が素晴らしいです。こうやって同世代の仲間が自分を尊重してくれるという実感を得られるところまで描いているからこそ、第8話はただ辛いだけで終わらなかった回になったのだと思います。

 「大事にしたいな。大事にしてくれる人を」と答えを出した青木は、井田にラーメンを食べに行こうと誘います。元々は岡野先生に誘われておりとても楽しみにしていた約束でしたが、自分のことを大事にしてくれる井田を大事にしたいと伝える、とてもやさしいシーンでした。

 待ち合わせに早く着いた青木は、ホテルの場所を探していた男性に道案内をしますが、お礼にとお金を渡されそうになるのを断るのに苦戦しています。するとたまたま通りかかった岡野先生が、血相を変えて青木の手をつかみその場から去ります。「お前もっと自分の身体大事にしろよ」。このセリフは、同性愛者(非異性愛者)は性に奔放、という偏見を露呈しているだけでなく、8話冒頭で青木が井田に対して言った「お前ってそういうこと知ってんの!?」と同じことが起こっているんですよね。性的マイノリティがカミングアウトするセクシュアリティとはあくまで【状態】の話なのに、関心を持たれるのは性行為はどうするのかとか、身体はどうなっているのかとか、非常にプライベートな部分だけです。その人がどんなアイデンティティを持っているのか、それによりどんな差別が起こり、何によって傷つけられるのかといったことこそが重要なはずなのに、それらは「性的な話題」に覆い隠され、肝心のところは見られません。ある場面では差別をする側に立ち、また違う場面では被差別側に立つという差別構造をうまく描いていると感じました。

 そして青木の俺、最初から変わってないよ。このドラマ全編通して一番好きなセリフです。自身にも根を張っていたホモフォビアの克服、アイデンティティの受容、そして「岡野先生なんてこっちからお断りだ」と吹っ切ったように見せていても、初めてできた先輩の要で兄貴のような存在だった岡野先生への信頼がホモフォビアによって歪められてしまったことへの悲しみが、この短いワードで丁寧に説明されています。それじゃあ、と別れようとしたまさにそのタイミングで井田がやってくると、なんと井田は岡野先生も誘ってラーメンを一緒に食べることを提案します。青木は「空気読めよ…!」と言っていましたが、きっと井田は空気を読んだ上で「岡野先生とラーメン行くの楽しみにしてた」ことをわかっていたからそうしたんですよね。本当に井田は青木のことをよく見ている......

 「正直、青木くんのこと簡単には理解できないけど」、LGBT差別禁止法が「理解」増進法に改悪された今の状況と照らし合わせるとなぜ最悪かよくがわかりますね。マイノリティが存在していることにマジョリティの承認は関係ありません。「まあいっか。何を好きだろうと人の自由だしな」も意味がわからないです。物語において岡野先生は「偏見ヤバ男」という役割で登場しているのでそういう言動をとることは織り込み済みなのですが、「自分の中の偏見に気づいた後」を想定して描かれているであろうこのラーメン屋でのシーンのセリフも充分偏見に溢れており、こういう言葉で「理解」した気になっている社会にぐったりしてしまった感はあります。

 酔いつぶれた岡野先生をおぶって帰路につく井田と青木。「岡野先生に話しに行くって言ってくれて、嬉しかった」と青木は伝えます。実際にはその方法は選ばなかったけれど、井田が自分を守ろうとしてくれていたことはきちんと伝わっていました。そして起きる気配のない岡野先生を道端に置いていくか、なんて冗談を言います。そう言ったのは「ちょっと俺も腹立ってた」からでした。このセリフもすごく好きでした~…「井田って、じっと見つめてくるんだよなあ…」と青木は思いを巡らせますが、いや青木それが愛だから!!!「好き」だから!!!とまたも画面の前で大シャウトしてしまいました。

 

 

 今回はここまで!次回は第9話〜最終話、そしてまとめとして【ドラマ『消えた初恋』におけるクィアリーディング、井田をAロマのキャラクターとして解釈する意義】について書いていこうと思います。ぜひそちらもお待ちくださいませ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:こういったインターセクショナリティを理解する入門としてわかりやすいと思ったのが以下の記事です

www.nhk.or.jp

*2:「友達」が「恋人」より格下の存在とされてしまうのは「友達以上恋人未満」というようなフレーズからも何となく理解していただけるかと思いますが、これは「恋愛関係は他の関係より優先されるべき」という規範が社会に強く影響していることを表します。それを説明しているのが恋愛伴侶規範です。

*3:elizabethbrake.com

*4:しかし、「自分事」としての恋愛に対して関心が薄いためにいざ当事者にさせられると戸惑ってしまう、ということは少なからずあるのだとも思います。この違いが理解されればもう少し自分を投影できるAロマのキャラクターと出会えるのに…と苦く思うことは少なくないです

*5:私の考えですが、例えば「リアコ」という言葉によって「推しに恋愛感情を抱くファン」が有微化されることによって、逆説的に「そうではない(とされている)」ファンがメインである、とアイドルのファンダムを理解しています。つまり、アイドルのファンダムにおいて「リアコ」は有微化される存在=マイノリティ側、そうではないファンは無微化されている=マジョリティなのだと思っています。当然ですが、リアコだから/そうではないからもう一方と比べ優れている/劣っているということはありません。ただ、世間からアイドルファンに寄せられる見方として、ファンはアイドルに対し恋愛感情的な好意を寄せているのがほとんどである、とみなされることに対しての違和感について説明しています

*6:※社会規範として、【付き合っている関係にある者らは相互に恋愛感情を抱いている】という前提があるため、「付き合う」と「恋愛関係」は≒のものとして読むことができる/読むことが当然とされています

*7:その前提に対し「応えない」とはどういうことかを分かりやすく説明しているのがこちらの記事です。ぜひ読んでみてください

note.com

*8:

BUMP OF CHICKEN スノースマイル 歌詞 - 歌ネット

*9:個人的な考えですが、私はクィア表象において「怒り」の感情が描かれることが非常に重要だと考えています。クィアはよく「悲しみ」を背負わされますが、悲しみは自身の内側にある感情であり、それによってその原因となっている出来事もマイノリティ側の心情の問題として処理される、ある意味マジョリティが問題を引き受けることから逃げていると解釈しています。一方怒りは、発露されることで問題が存在していることを描く効果、そしてその怒りがどこに向かっているかを描くことで責任の所在を明らかにすることもできると考えています。マジョリティ側に向けて設計された構造の中で起こる問題がマイノリティに背負わせられるとき、怒りはその歪みを訂正する機能を果たすのです