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井田、Aロマじゃね?? 〜ドラマ『消えた初恋』をさらにクィアリーディングする①【第1話〜第4話】〜

 今?と言う声が聞こえてきそうですが、ドラマ『消えた初恋』を見ました。放送からすでに1年以上経っている作品ですが、放送当時一切情報を得ることなく通り過ぎていたので、あんなに盛り上がっていたのに原作がBL漫画であること、主題歌をなにわ男子とSnow Manがやっていること、主演が道枝駿佑さんと目黒蓮さんということ以外マジで知りませんでした。恋愛をメインに置いたコンテンツを見るのが苦痛なので積極的に摂取することは基本的にないんですけど、クレジットをよく見たら道枝駿佑さんが「なにわ男子/関西ジャニーズJr.」表記だったのを発見してえええその時期だったの!?!?と驚き、さらに放送途中でなにわ男子がデビューしたことを知って察しました。ちょうどこの時期はV6の諸々に全リソースを割いていたのでシンプルにそれどころじゃなかったんですよね。わかるでしょ??

 

 

 「クィアコンテンツを摂取しないとどうにも心がおしまいになりそう」な時ってあるじゃないですか。このところあまりにも使い古された非ヘテロパーソンへの差別発言が吹き荒れており、それによって受けるダメージに加えて、反論しているかたちを取っていても結果ロマンティックラブイデオロギーを肯定する言葉を浴びてさらにしんどくなる...ということにほとほと疲れて、非ヘテロの中でも”Aロマとして”しんどいことが多い日々でした。*1

 そういうときに私を助けてくれたのはいつもジャニーズで、ロマンティック/セクシュアル以外の愛の存在を見せてくれて、一方的に愛を傾けることを許してくれる存在として、ずっと私を救ってくれました(もちろん傷つけられることも少なからずあったけれど)。ともかく私はAロマかつAセクのジャニオタとして、ジャニーズを好きで救われてきた人間なんですね。そんなオタクとして

 

【Aro/Aceなジャニオタの話が聞きたいアンケート】集計結果 - 光を見ているsignko.hatenablog.com

このようなブログを書いたことがあります。タイトル通りの内容ですが、この中に個人的な募集として【ジャニーズ関連作品で、クィアリーディングができる作品があればぜひ教えてください】という項目を作り、その中で一番多くの方から挙げていただいたのが『消えた初恋』でした。まとめていたときは「へえ〜やっぱ流行ってるんだね〜デビューのタイミングでBL漫画原作の作品に起用されるのすごいな〜」と思っていただけだったのですが(あのときは「THE BOY FROM OZ」の余韻バリバリでブログ書くのに忙しかったので...)、ともかくこれだけ推されてるし見てみるか、に至りました。

 1話の段階でおぉ…?と思うセリフがあり、それによって恐る恐るながらも見ることをやめられず一気に最終話まで完走し、確信しました。

 

 

 

 

 井田、Aロマだ......................................

 

 

 もうね、泣いた。まさかのAロマと読めるキャラクターとの遭遇。しかも主役の人物としてしれーっと登場してた。それをジャニーズがやっていた。めっちゃびっくりしたし、嬉しかったし、出会えてよかった。厳密に言えば、Aロマ~デミロマのグラデーション上にいる、Aロマ傾向の強いデミロマなのかなという感じですが、このドラマで描かれる井田という人物は、A(ロマ)スペクトラムの中にいる人物である可能性を十分に見せてくれたと思っています。というか私にはそうとしか見えねえ。
 作品については、LGBTQ監修がスタッフとして関わっていることは評価できる点だと思いつつ、非ヘテロを都合のいいワードで漂白し、そうすることでマジョリティの方を向いたものになっているなと感じた部分もありました。あくまでも青木と井田の世界だけの話にまとめられていることで、マジョリティ向けに設計された、青木と井田を悩ませたり苦しめたりする社会がどう変わるべきか、という問題を抱えている、*2マジョリティが多くを占める社会への批判はされていなかったと感じました。あと少女漫画が原作ということを考えれば何とも言えないですが、登場人物の大部分が当然のように恋愛至上主義を無邪気に信じている姿はふつうにキツかった......

 最初に注意書きとして書いておくのですが、私は現時点で原作である漫画の方を読んでおらず、そのため原作とドラマがどう違っているかということを知りません。ドラマで描かれていない、漫画の中でのストーリーでもしかしたら井田は明確にAロマではない他の(もしかしたらAlloロマンティックスペクトラムの側に寄っている)アイデンティティを獲得しているのかもしれません。また、漫画はすでに完結しており、ある意味で「正解」が提示されているのにそうではない方向に持っていくのは原作ファンとして作品を蔑ろにされた気がする、と感じる方がいるかもしれません。
 まず、今回私は「ドラマ版『消えた初恋』の井田」について書いていきます。ドラマで描かれた範囲の井田から読み取れることを拾い上げていくため、「原作ではそうではなかった」ではなく、あくまで「ドラマ版の井田」としての読み解きになります。
 そして、クィアリーディングとは「原作の前提を捻じ曲げた解釈」ではなく「異性愛だけを前提にした読み方では抑圧されてしまう可能性に光を当てていく読み方*3」であり、クィア─この異性愛主義の社会で周縁化された存在─が「自分のための物語」として作品を再解釈し、希望を(再)獲得することだと考えています。ただ鑑賞する立場からもう一歩踏み込み、私のための作品だと思えることは、ヘテロパーソンに比べそういった機会が少ない非ヘテロパーソンにとっては現状(機会が少ないという意味で)貴重な経験であり、その行為を「捻じ曲げ」と呼ぶのは不誠実ではないだろうかと考えます。ファン心理としては、「私のための物語」として受け取った原作が他者に違う解釈をされていることが嫌、という思いはわからないわけではないですが、読み手の手に渡り、その人にとっての「私のための物語」として読まれることは間違いではないはずです。そうやってクィアリーディングが蓄積していくことが、エンターテイメントがクィアを救うことにつながるのだと信じています。

 ということで今回は、井田を【Aロマ~デミロマの人物である】としてドラマ『消えた初恋』を読み解いていこうと思います。井田のセリフや行動を挙げながら、なぜAロマと読めるかを解説し、このドラマ『消えた初恋』の中で井田はどのような経験をしていったのか、井田がAロマであることでこの作品はどのような機能を果たし、どんな物語を紡いでいったのか。そんな感じのことを、ひとりのAロマAセクのジャニオタとして考えていきます。

 

 

【はじめに─用語解説】

 今回挙げた定義が絶対というわけではなく、以降のブログを読む際に内容を理解するための手助けとして、最低限の原則を解説しています。

Aロマンティック(Aロマ):他者に恋愛感情を抱かないセクシュアリティのこと。「A」は打消しを意味するため、Romantic Orientation(恋愛的指向)がAである(存在しない)と説明することもできます。

Alloロマンティック(Alloロマ):他者に恋愛感情を抱くセクシュアリティのこと。Aロマの対義語である、と理解していただけるとわかりやすいかと思います。

ミロマンティック(デミロマ):強い感情的な絆ができた相手にのみ恋愛的魅力を感じるセクシュアリティのこと。

 

 さらに詳しく知りたいと思った方は、以下のリンク先から調べてみてください。Aセクシュアリティについて、広い内容がわかりやすくまとめられたサイトです。

acearobu.com

 また、書籍では

www.akashi.co.jp

www.diamond.co.jp

こちらの2冊を紹介しておきます。どちらもAセクシュアリティを理解するのにとても役に立った書籍です(経験談)。

 

 

 

【第1話─好きってどういう気持ちなんだ?】

 たったひとつの消しゴムから事態が展開していくわけですが(内容は大胆に端折っていくスタイル)、自分が青木に思いを寄せられており、告白されたと勘違いした井田は「ごめん」と断ります。「何もわかってなかったから、今まで気を持たせるような思わせぶりな態度に見えていたら謝る」はおっヘテロがよく見せる非ヘテロへの偏見~!(褒めてない)と思いましたが、「お前の気持ちはなかったことにしなくていいんじゃないのか?いい返事はできなくて申し訳ないけど」と、青木が自分を思っている(と現時点では勘違いしている)ことは否定しません。そして青木の親友であるあっくんに「青木ってどんな奴なんだ?」「俺が青木のことわかってなかったっていうか、傷つけたっていうか」と、青木のことを知ろうとする態度を見せます。

 再び(勘違いが発端で)屋上で話すふたり。井田は青木の元に来た理由を「お前が待た泣いてんじゃないかって気になって心配で来てみた」と語ります。これまでの過程で、井田にとって青木は「放っておけない存在」になったわけですが、その要素は「心配」だけでなく、「自分に告白してきた青木」、そして「正直、好きとか嫌いとか俺にはよくわかんねえんだ」「なあ、好きってどういう気持ちなんだ?」と、自分に投げかけられた「好き」という思いそのものも、気にかかるものとして明らかになります。

 

 このセリフから、井田が青木の告白を断ったのは「ただ青木を好きではない」とか「同性で付き合うことを受け入れられない」といった理由(だけ)ではなく「『好き』という感情がどのようなものかわからないから、それを根拠とした好意に応えることができない」と読むこともできないでしょうか。「イダくん♡」の消しゴムを発見し、青木にこれは自分のだと言われた後の回想で、井田は「ハートって、マジか」「いつからだよ、なんで俺?」と衝撃と疑問を抱きながら、これまで青木が自分にしてきたことを思い出します。制服のボタンが取れていることを教えてくれたり、荷物を半分持ってくれたり、雨の中傘に入れてくれたり。それらを振り返り「いい感じじゃないか!」と驚愕した表情を浮かべる様子から、そういった行為は好きな人にするものであると理解しているようですが、でもその原動力になる「好き」とはどんな気持ちなのかわからない。この「『好き』という感情がわからない」は、Aロマの人々が経験する感覚を表す際や、アイデンティティを語る際によく使われる表現の一つです。そのため、このセリフを発することでその人はAロマの人物である(かもしれない)と周囲に示すキーフレーズ的な役割を果たす機能があり、よって井田はAロマの人物である(かもしれない)と受け取ることが十分に可能と言えるでしょう。第1話の時点で、すでにエースリーディングの可能性は開かれていたと言えます。

 青木は「どういうって言われてもな…」と井田の問いかけに答えることはせず、「ていうかお前、今まで好きなやつとかいたことないの?」と質問を返します。それを受けて、それまでまっすぐ青木と対峙し、目を見て話していた井田は目線をそらし、背を向けるように回ってベンチに座ると、ぶっきらぼうな響きで「…ない」と答えます。そんな井田に「マジ!?ってことは…チャンスあるじゃん」と、橋下さんのことを思い浮かべテンションが上がったまま井田の好みのタイプを聞きますが、井田は「何なんだ…」と言いたげな目を向けています。
 「好き」という感情は誰もが備えているから、わざわざ定義を説明する必要なんてない。「好き」という感情は誰もが持っているから、今好きな人がいないということは「フリーである」≒恋人になれる可能性があるということ。だから青木は「好き」の説明をしませんし、好みのタイプを聞き、橋下さんと井田がくっつく可能性を見出しワクワクしています。この流れで井田は人は必ず、誰でも他者を(恋愛的に)好きになる」という規範*4を無邪気に青木からぶつけられます。「恋愛感情は誰にでも備わっている」と思っている青木の「好きな人いないの?」は、「他者に恋愛感情が向かないから」好きな人がいたことがない井田にとって、前提が違うため、そもそも答えられない問いかけです。自分のような人間が想定されていないことを感じ、でもそのことを説明しても「そんなわけないって」「まだ運命の人が現れていないだけだって」と返されることが分かっているから、仕方なく「ない」と答える。これは私たちAロマの人間にとってよくある、悲しくて悔しい経験と重ね合わせてみることができます。そらされた目線、緩慢な動き、ぶっきらぼうな口調から、井田の悲しさがにじみ出ているように感じました。

 青木は「好きなタイプ」を井田に聞きますが、これって便利な言葉で、別に恋愛的に好きな相手のことを話さなくてもちゃんとそれに答えているように聞こえるんですよね。実際私も高校生のときこの質問をされたことがあり、そのときただ脳裏に浮かんだという理由だけで千葉雄大さんの特徴を挙げ、「わかる!」と言われ場を切り抜けたことがあります。(そこで自担の特徴を挙げるのはなんか違うような気がしていた面倒なジャニオタ心)(千葉雄大さんその節は本当にありがとうございました)この手の質問って、内容うんぬんより答えられることの方が重要視されるというか、答えられることで自分たち(この場合マジョリティ側という意味です)と同じである、という共有の感覚が求められると思うので、どうにかしてでも答えておいた方が無難で安全なんですよね。そうやって埋没していく方が、余計な衝突やこちらが意図していない「裏切り」をせずに済むことが多いです。学校という閉鎖的な空間ならばなおさら、そうしていた方が無難です。

 しかし井田は、まっすぐに青木に「お前はどうなんだ」と、青木のことを知ろうとする態度を見せ続けます。(それでも最終的に「お前も好きなやつできたらわかるよ」と、これもまたAロマの人がよく言われる偏見ワードを喰らっており私の方がダメージを受けたのですが…)青木が語る「好き」についてをまっすぐに見つめながら聞き、「なんか言えよ、はずいだろ」に対し「いや、お前のそういうまっすぐなとこ、すげえいいと思った」と青木のパーソナリティを肯定し、「お前のことをちゃんと知ってから返事したい」から告白の返事を待ってほしいと告げます。これがさ~!!「相手のことをもっと知ろうとする」かたちでの歩み寄りを描くことで、「『好き』という感情がわからない」まま告白を断る(ことで元々持っていた関係が疎遠になったり、ぎこちなくなったり、最悪の場合失ったりする)ことなく、Aロマであるまま人間関係を諦めず(再)構築していく姿を描いていると受け取ることが可能で、これまで中々見なかった展開だな~と感じ胸アツでした。

 

 

【第2話─他者にドキドキしない/同性愛嫌悪がキツい】

 主役二人が風邪をひき欠席したことで青木と井田がシンデレラを演じることになりました。そういや映画『そばかす』でもシンデレラを取り上げていたけど、異性愛規範をよく表しているもの、として使いやすいモチーフなんですかね?

 シンデレラを演じることで、井田はロマンティック・ラブ的関係を疑似体験することになるわけですが、開演前からドキドキし、本番中のハプニングでさらに動揺するはめになった青木に対し、青木の言葉を馬鹿正直に受け取って真面目に答えたり、転びそうになった青木を「大丈夫か?」と心配したりと、井田は最後まで変わった様子はありませんでした。このように青木と対比された井田の態度は「他者に対して恋愛的な文脈でドキドキすることがない」という、これまたAロマを表現する際に使われることの多い表現をなぞっていると受け取ることも可能だと感じました。一口に「ドキドキ」といってもそこにはまさに人それぞれの感情があるわけですけど、やっぱり青木と比べると現時点では感情の起伏が少ない人物として描かれており、それ自体は「恋愛感情がない=感情がなく平坦なパーソナリティである」というAロマパーソンへのステレオタイプ的偏見が見えなくもない…のですが、そもそもこの作品は井田を明確にAロマの人物であると描いているわけではない(ためにAlloロマの可能性も全然ある)というある意味悲しい前提と、クソ真面目で融通が利かないけど基本的に優しい性格と読めるようにもなっている目黒さんの演技で、後者であると希望を持つこともできるようになっているんですよね。これが結構嬉しかったです。

 正直2話は青木と井田どうのこうのよりクラス(≒マジョリティ)の空気感の描写がしんど過ぎました。まず「シン・シンデレラ」とタイトルを変えたのがわかるあのシーン、オブラートに包んだ同性愛嫌悪(ホモフォビア)を感じて気分悪くなりました…まあ大体の寓話はヘテロが前提となっているわけだから同性同士のキャストで演じるのはセオリーから外れていると読めますけど、それを揶揄するテンション感がキツかった…そして終わった後の打ち上げでの最悪な空気!!!!!!リアタイしてたクィアたち大丈夫だった?特にファンダムの若いクィアが見ていたらものすごく傷ついたんじゃないかと心配になるシーンでした。結局井田がその空気を批判する役割を担っていたわけですが、谷口静観してねえでお前が止めろ!!!!!!!!!と大シャウトしてしまいました。子どもにその役目を背負わせるのは大人の責任を放棄してるでしょ。しかも当事者の子どもにだよ!?きっと誰より傷ついた青木が場の空気を丸めていた(そうしないとこのホモフォビックな空間で自分がクィアであるとバレる危険があるから)のを見て、私もしんどくなってしまいました…青木のツッコミを受けてみんなが笑う空間の中でひとりだけ笑わなかった橋下さんだけがこのシーンの救い…マジで、こういうふうに描くならホモフォビアを否定するシーンまで描く責任が制作者にはある。「うけねえよ」は確かに否定だけど、それだけだと「なぜ笑いが起こるのがだめなのか」、そしてその根本にあるホモフォビアの指摘をするまでには不十分です。内容の改変以前の問題として、現実に生きるクィアを踏みつけっぱなしはダメでしょ。

 

 

【第3話ー恋愛のルールと社会からのまなざし】

 「青木のカミングアウトのその後」から第3話が始まるわけですが、俺って変だよなと言う青木に対し、橋下さんが力強く「変じゃないよ。すっごくわかるよ」「人を好きになるのに、やばいなんてことないよ」と青木の思いを肯定します。非異性愛以外の感情をはっきり肯定する場面を描くこと、これが製作者の責任だよォ!!!!!!と2話と同様にシャウトしました。こっちはいい意味のシャウトです。このシーンに励まされたような思いを抱いたのはありますし、このドラマのターゲット層であろうティーンのクィアにこの言葉が届く意味は決して小さくないだろうと思います。
 ただ注意しなければならないのは、「だって一緒の気持ちだもん。ちっとも変じゃない」という橋下さんのセリフです。これはかなりヘテロノーマテヴィティ的な立場からの言い回しで、このような「同性愛者(非異性愛者)であることは異性愛者と何も変わらない」というメッセージは異性愛以外の関係に対する偏見へのカウンター的表現としてよく使われる表現のひとつですが、それを異性愛者側が発することで、自分たちと何も変わらないのになぜ問題とされるのだと非異性愛者に向けられてきた「問題」を異性愛(者)が引き受けるという態度とも読めるけれど、同時に異性愛に準ずるようなフォーマットに収まる関係である限りにおいて、非異性愛的関係もされる」という無邪気な異性(恋)愛中心主義もほのめかしています。そういうかなり傲慢なせりふなんですよね。原作との兼ね合いとかドラマの筋とか、あと日本社会の化石っぷりを考えると難しいのだろうというのは重々承知ですが、異性愛以外の関係が阻害されている要因にはロマンティック・ラブ・イデオロギーがあるってとこまで描くドラマがあったらめっちゃくちゃ面白いのにな、なんて思いました…

 第3話では、「恋愛」を取り巻く暗黙のルールが解説されます。相手と同じ人を好きであると気付いたとき、そのことを黙っているのは「だます」ということになる。恋愛感情を備えている者たちは、「すっごくわかるよ」とその思いを共有し仲間になることができる。恋愛的に好きな相手とは「2人」の枠で関係が築かれるため、1人の相手を2人以上が思いを寄せているとき、その2人はライバル関係になり、どちらかしか結ばれることができない。恋愛の話をすることによって、相手のよりパーソナルな部分に踏み込むことを許容される。(テストが返却されたシーンで、橋下さんのグループの人が指差しで合図するのがちらっと映ることから)恋愛の話題は友人関係のなかでも共有され、友人コミュニティはメンバーの恋愛関係が実るようにサポートする。恋愛とは、楽しい話題である。

 青木が井田の卒アルを見たいと二の腕をつつきながらねだり、井田が「普通に恥ずいから」と目を泳がせる様子を見せると、青木は「もしかして、照れてる…?」と、井田のかわいいところを見つけ嬉しそうににやつききます。するとそんな何気ないふたりのやり取りを見ていたあっくんが「はいそこ、いちゃいちゃしない」と茶化すと、青木は「はあ!?してねえし!!」と動揺した様子を見せ、その奥で井田は不思議そうな表情を浮かべています。

 この一連のシーンからは、まず、青木と井田の何気ないじゃれあいのような、親密そうなふたりの間での行為は「いちゃいちゃする」という、主に恋愛関係にある人に使われる言葉で表現される、という社会のまなざしを理解することができます。「主に」としたのは、この「いちゃいちゃする」という言葉は必ずしも恋愛の文脈で使用されているわけではなく、例えばアイドル誌やテレビ誌などに掲載されることの多い「メンバーが親密そうな距離感で絡んでいる」様子を「いちゃいちゃ」や「わちゃわちゃ」と表現することもあるためです。そのことを踏まえると、あっくんも「いちゃいちゃ」を「単に親密そうな様子」くらいの意味で使用しているとも考えられます。
 しかし青木は、「いちゃいちゃ」=恋愛関係にある人に向けられる言葉→自分と井田は恋愛の文脈で親しいと見られている、と想像し、動揺した様子を見せます。これが単なる照れ隠しにならなかったのは、あっくんにまだ井田が好きかもしれないことを言っていないための焦りもあると思いますが、自分が男性を(もしくは「も」)好きになるセクシュアリティであることを知られたくないことも関係しているでしょう。冒頭で井田を好きだということを橋下さんにカミングアウトした際、「俺って変だよな」とどこか苦しげに言う青木は、非ヘテロでありながらホモフォビアを内面化しているキャラクターとして描かれています。10代の若者にそう思わせる社会、最悪すぎる......

 そして、焦る青木に対し不思議そうな表情を浮かべるだけの井田が「恋愛のルール」──心の機微から周囲の反応、そして恋愛と異性愛中心主義の関係に至るまでのあらゆる「決まりごと」──をよくわかっていないと読むことができます。その態度に青木は「俺はお前に告白したのに(≒恋愛関係のフォーマットに巻き込んだのに)、なぜそんなに平然としているんだ(≒関係が変わるかもしれないのに態度を変えないんだ)」と問いかけますが、そんな井田が青木と向き合おうとするための方法は、「青木のことばっかり考える」でした。そしてその理由は「恋愛とかわかんねえ」からだと語られます。「でもお前いい奴だから、どう接すればいいのか考えていた」「不安にさせてごめん」と応答します。やはり井田の態度の理由には「恋愛がわからない」があり、それはとてもAロマ的ではないだろうか…と思えます。

 帰り間際、井田の母親に「(青木は)友達っていうか…クラスメート?」と紹介され、途端に青木は腹を立てた表情を浮かべ、そつなく挨拶し早々に帰ろうとします。井田が引き留めようとすると「友達以下かよ、クラスメートって」と吐き捨てるように言います。「じゃあ俺たちは友達なのか?」と問いかけると、「それはお前次第だろ」と突き付け、立ち去ります。
 場面は変わって美術の授業中。互いの絵を描きながら井田は青木に思いを巡らせます。「正直想像できない。デートとかするのか俺と青木が」「でも、青木ってたまにかわいく見えるような…」。授業が終わり、ふたりで片づけをしていると、相多が「あの子今反抗期なのよね。昔はかわいかったんだけど」と冗談めかしたように言うと、井田は驚いたように「相多も青木のことかわいいって思うのか?」と問いかけます。相多は「冗談だよ」と答え、そしてふと、井田が以前青木の好きな人のことを気にしていたことを思い出します。しばし思いを巡らせ、何か合点がいった様子を見せ、焦った表情を浮かべます。そして慌てた様子で青木を呼び出し「お前は井田に狙われている」と告げます。

 ことの経緯をあっくんに話すと、「井田に本当のこと言いに行こうぜ」と、「青木が井田のことを好きなのは誤解である」と井田に伝えに行こうと提案されます。「嫌だよ!」と断るも「何で!?」の問いかけにはっきり答えることができず、「そうやってごまかすから悩むんだろ、お前もあいつも」「俺に任せなって」と、言葉こそ柔らかいですがかなり強い力で青木を引っ張り出し、屋上であっくんが(あっくんの想像する)青木の思いを井田に代弁し、あとはふたりで、と去って行きます。

 このあっくんの態度はまさに「差別は悪意がなくとも、それどころか善意の下ですら行われる」ことを示しています。あっくんは、青木にも井田にも直接「(非異性愛的な欲望を持つ)お前はおかしい」とは言わず、嫌がる青木を強い態度で井田の元に連れていき、そして重要な「青木が井田のことを好きなのは誤解である」という部分は自分が伝えます。これらは、青木が井田のことを好きと周囲に誤解される前に問題を解決し、ふたりが好奇の目に晒されることから守ろうとし、でも直接青木の口から言わせてしまうとふたりも傷つくだろうから部外者である自分ができる範囲で肩代わりしようとした結果とも読むことができます。

 しかし、それらの行動の根本には「非異性愛的な欲望は間違いである」「その欲望は周囲から差別を受けるものである」という考えがあります。その考えを内面化しているから、青木の思いを聞こうとせず、井田との関係から遠ざけようとしますが、それこそが同性愛差別をふたりにぶつけることになっているのです。社会からふたりを守ろうとして行ったことが、差別の再生産になっている…というとてもえぐいさまを描いています。これを仲のいい友人からぶつけられた青木はすごく辛かっただろうなと思います。青木はその思いが全て井田と自分自身に向いているようですが、これだけだと社会が抱える同性愛(=非異性愛)差別への否定がなさすぎてまじでしんどいです…

 

 

【第4話─本当のこと/変わるべきはマジョリティ】

 第4話は、主にあっくんにフォーカスが当てられた回になっています。そしてかなり画期的な描き方だと思うのですが、この回は「変わるべきはマイノリティではなくマジョリティである」と明確に示したものになっていると読むことができます。

 おそらく青木が井田に「本当のこと」を言いに行った日の帰り道、青木、井田、あっくんの3人で帰路を歩いています。青木はぎこちなく軽い調子で告白のことを水に流したようなことを言い、井田への恋に終止符を打った様子を見せますが、橋下さんは「だって青木くんの気持ちは本当なんでしょ?嘘にしちゃだめだよ」と励まします。「でも井田も、(青木が自分のことを好きなのは誤解であると知ったことで)よかったってホっとしてたんだ。自分の本当の気持ちなんて、もう言えないよ」と、青木はその場から逃げ出します。青木、すごく傷ついてきたよね......とじわじわと胸が痛くなりました。
 青木を追いかける橋下さんはあっくんと遭遇し、青木と井田の件だとわかると、「さっさと本当のこと言えばいい話なのに」とあきれた口調で言い放ちます。それに対し橋下さんは「言えないこともあるよ。空気とか相手の反応とか、やっぱり色々考えちゃうと思うし」と口ごもる様子ですが、あっくんは「言い出しにくいこともあるかもしれないけど、相手の反応気にして言えないとか言い訳だからね」「そもそも、ごまかしたのが悪いんだからね」と取り付く島もないように言い放ちます。
 このやりとりは、青木と井田の告白に関するやり取りの話でもあり、カミングアウトをする側(マイノリティ)/される側(マジョリティ)の違いについても描いているんですよね。思いを伝えることそのものがカミングアウトになり、もしかしたら相手に拒絶されたり周囲の人に傷つけられるきっかけになるかもしれない、告白した後の(主に悪い方の)影響まで考えなければならない、「単なる恋愛」に収束できない立場の青木と、ここまでその権力勾配に徹底的に無自覚な(キャラクターとして描かれている)あっくん。
 ここで書いておかなければならないのは、この物語においてそういった社会規範や構造については正直ほとんど触れられておらず、当事者である青木や井田ですらそれらの点に気づいていないように描かれている、という前提があるということです。物語は極めてミクロな視点で進められており、規範や構造に苦しめられている姿ではなく、あくまで青木と井田の問題でありふたりの間だけの話であると描くことで、問題の当事者でもある社会、そしてそういう社会を作り上げているマジョリティに矛先を向けないような作り方になっていると言えます。これらのシーンであっくんがやたら露悪的に見えるのは、社会が引き受けるべき問題をあっくんという個人に背負わせることで、「あっくんが差別的なふるまいをしたから青木が傷ついた」と視聴者に見せ、問題の矮小化につながっている、という視点は持たなければならないと思います。

 みんながそんなに強いわけじゃないと怒りとビンタをぶつけられたあっくんは青木の元に向かい、橋下さんは青木が好きだから自分の態度に怒ったのだ、と推理しますが、あまりにも的外れなそれに青木は「好きとか嫌いとかもうどうでもいいわ」「そうすれば、もう傷つくこともないから」と、井田への思いを消そうと決心します。しかしそんな思いをコントロールできるものでもなく、井田を目で追ってしまう青木。そんな様子を見て、あっくんは橋下さんに問いただし「青木は本当に井田が好きである」ことを知ります。するとあっくんは、「マジかよ、ありえねえ…」「だって、そしたら俺、青木にすげえ酷いこといっぱい言った」「そりゃ青木も何も言わねえわ」、そして青木と対峙し、「お前に本当のことを言えなくした犯人は、俺だ。青木、ごめんな」と謝罪します。

 このあっくんの態度が描かれたことで納得できたというか、溜飲が下がったというか。自分たちに有利なように設計されている社会の恩恵を受けているマジョリティが問題をマイノリティに押し付けず引き受けたという構図をきちんと描いているのはとても誠実だと思いました。きっとあっくんも勇気を振り絞っていったのだろうなという表情がよかったです。
  その言葉を受けて青木は「いいよ。あっくんの反応が普通だと思うし」「だって普通にやべえって思うでしょ。井田のことそう思ってたら」と言います。このときの青木の表情が切なくて......すっきり諦めているようなのに心の中は悲しみでおおわれているような、自分は普通ではないのだと明確に線を引いて孤独を感じているのがわかる顔。ほんと10代にこんな顔さすな!!!!!!!こんな思いをさせるな!!!!!!!!!になりますね…あっくんの「じゃあ、その普通が間違っているだろ」が青木の支えになってくれたらと願うばかりです。でも怒ってねえのは嘘だろ…と思うけどね。怒りを覚えられないくらいヘテロセクシズムが強固すぎる社会が悪いです。ただ、あっくんの態度は全く変わらなかったことは救いだなと思います。結局あっくんは善人なんですよね......善人だけど差別的な面を持っている人と出会ったときどうやって関わっていけばいいのかなとか、親しい人がそうだったとき自分はその人とどんな関係を築いていこうとするのかなとか、自分もまた他者にとってそういう人間になっていないかなとか、色々考えました......(このあたりを考えるにあたって、北村英哉・唐沢穣「偏見や差別はなぜ起こる?心理メカニズムの解明と現象の分析」を読み返そうと思いました)

 場面が変わって、井田は部活の休憩中です。チームメイトに「最近告白されたが、俺の勘違いだった気がする、相手も別に好きとは言っていなかった気がする」とこぼします。ここで井田は「相手が自分のことを好きだという雰囲気なんてわからない」「好きってなんだ?未だに俺にはわからない」と真剣に言うのですが、チームメイトは「恋に悩むなんて成長したな~」と嬉しそうです。この恋愛をする=人間的に成長、成熟した証みたいな社会通念なんてク〇くらえなのですが(これについても恋愛伴侶規範が詳しく説明しています)、そんな井田の表情は悩んでいるというより深く考え込んでいる様子です。井田の態度は一貫して「恋愛がわからない」が示されており、その上で「好き」「付き合う」とは何なのかを模索する様子を5話以降から見ていくことになります。

 

 

 

 ひとまず今回はここまで!次は5~8話までを書いていこうと思いますので、ぜひお待ちください!

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:年明けに見た『そばかす』という映画はAro/Aceを描いた作品とあったけれど、私はあの作品は全然当事者に対して不誠実な作品だったと感じましたし、見たことでさらにメンタルが削られたものになったのでもう踏んだり蹴ったり

*2:性的マイノリティを取り巻く不正義を語るとき、しばしば非シス・ヘテロに「問題」を背負わせたり解決を求めたりする構造がありますが、異性愛規範こそが「問題」の根本にあります。よって異性愛規範が変わるべきであり、非シス・ヘテロがマジョリティに合わせて変化したり遠慮したり、規範に適合しようとする必要は全くありません。「問題」は私たちではなく、社会の側にあります

*3:有名な記事ですが、クィアリーディングとはどのような方法を取るのか、というのを分かりやすく説明しているのがこちらかと思います

gendai.media

*4:これを恋愛伴侶規範と呼びます。詳しく知りたい方は、

note.com

こちらのブログ、およびこの中で紹介されている書籍

hakutakusha.co.jp

を読んでみてください