光を見ている

まるっと愛でる

20230504

笑の大学

 もう観劇から1ヶ月になりそうなのが怖い。時間早すぎ。交通費が電車賃しかかからない現場、久しぶりすぎてめちゃありがたかったです...

 

 まずええか?前の席の人、身を前後左右に乗り出しまくってて、頭が超超超邪魔だった。ずーっと私も体をひねりながら見てたわ!疲れた!会場の問題で聞こえにくいとか見えにくいとかより100倍ストレス!!!!!!!幕間に言おうと思ったら幕間なかった!!!劇場マナーというか利己的な感情として見にくいのちょー嫌で、席的にもたぶんS席ではないポジションの人だったから、地方に来たしせっかくだから行ってみるか的な感じで観劇したんだろうなーと思うと仕方ねえのかもしれない。東京の劇場に行く人はおそらく多くが「わざわざ東京まで見に行っている」人だろうから、必然的に「劇場マナー(「」つきの意図を込めてるよ)も知ってる人が増えるんだよね。そういう点では「わざわざ見に行く」の距離感で行く方がいいのかもしれません。作品を見るのも好きだけど、劇場の空気を浴びることも好きだし、あと移動することも好きなので。物理的に移動することで気持ちの切り替えにもなるし。

 で、こんだけ愚痴ってるけど地方でやるから軽いノリで観に行こう、のノリはめっちゃ大事なんだよねえ...そうやって観劇体験って始まって根付いていくものじゃん。だからせめてスタッフさんは注意してくれ...博多座の動画を全劇場で流してくれ...映画泥棒みたいに...

 

 

 内容は戦時下におけるエンタメの話で、劇作家と検閲官のやり取りで最後まで進んでいくんだけど、検閲に負けず笑いを盛り込んだ作品を作る劇作家と、笑いがわからない真面目な堅物ゆえに面白い話を生み出す検閲官のやりとり、という皮を被っているけど、その裏や奥には戦争を皮肉る内容を検閲官にぶつける思いってどんなものなんだろうとか、果たして向坂は椿の作品を笑い、楽しむことは許されているのだろうかとか、そういうのがあるから笑えないシーンも多くてしんどかった。バカバカしい笑いが生まれるシーンに明確に戦争の影響が響いている様が描かれたりして、でもそこは笑いどころのシーンで観客も笑いで応答して、ということが何度かあって、私は笑ったり笑えなかったりで、笑う自分が愚かだなと思ったし笑ってる周りの観客の素朴さというか戦争を無視した笑いの無邪気さに怖くなったりした。実際今の日本が10年前、20年前より戦争に近づいている感じがして、全然遠い話に思えなかったんだよね...

 また、実際の太平洋戦争下の検閲では向坂のように、召集令状が届いた若者に「死ぬな」なんて言えなかったと思うし、「死ぬのはお肉のためだけでいいんだ」が思いっきりブーメランしてしかも残酷さを増してるし(「お肉のために死ぬ」は向坂が気に入ってたギャグだけど、椿が本当にお国のための死ななくてはならなくなって、くだらないと笑ったもののために死ななくてはならなくなった椿、という)、言葉を選ばずに言うと市民に死ぬことを要請する立場である向坂が、椿の脚本を受け取って笑うシーン(その笑いには悲しみとか後悔とか苦しみがこもっていたし、向坂もまた組織の末端という権力の中でも弱い、ヨゴレ的な立場ではあるんだけど)は正直都合良すぎないか?と思った。でもそれができるのが演劇なんだよね。それを美談として受け取らなくてはならないとは描いていなかったと思う。最後椿が去り、一人で脚本を読みながら笑う向坂が暗転して消えた、と思ったらふっと照明が付き、そこには椿がいて、というシーンで終わったんだけど、あの椿は向坂の言った通り死なないで帰ってきた姿なのか、それとも向坂の願いなのか、分からないけど、それができるのが舞台で。願いを抱くことを許してくれるからカタルシス...になって見るんだよねえ...私が政治について一歩踏み込んで知ろうと思ったきっかけが映画「主戦場」だったんだけど、作品から政治につながる方法を辿ってきた人間だからこそこういう作品を諦めたくないと改めて思った。はだしのゲンとかもうすでに規制はもうすでに始まっているのが辛いし恐ろしいんだけど、それに気づくことからやってかないと...回帰不能点という言葉がちらつくのがすごい怖いのだが...現政権ぶっ倒さないとの精神が強くなった。

 

ミュージカル「マチルダ

 名前だけは知ってた作品なのだけど、改めて観劇したら超面白かった。思ってた以上にまっすぐなガールズ・ライオットの話で、「Naughty」にも「そう悪い子になるの少し」とあるようにフェミニズム的にも読める話ということを知れて嬉しかった(いい女の子は天国へ行ける、わるい女の子はどこへでも行けるというメイ・ウエストの言葉がある。マチルダが本が好きというのも勝手にベル・フックス~になったりして、そういう少女の可能性を見れるのは、この作品を見る女の子にとても勇気を与えるんじゃないかなと思う。

 ハニー先生にとってマチルダは過去の自分、マチルダにとってハニー先生は(マチルダがトランチブル先生を倒さなかった場合の)未来の自分でもあって、そのふたりが同じ意志のもと手を取り合って、ハニー先生はマチルダに寄り添って愛して、マチルダはハニー先生の行く先を照らすように革命を起こして、最後ふたりで手を取り合い世代を超えた連帯をする、という力強い話だった。これはマチルダを英雄として扱う話ではなく、マチルダがした革命の話だと思うから、マチルダが男の子だったら成立しないよななんて思ったりしました。

 この作品の肝は「子ども(という弱い立場の者)であろうと正しくないことに怒っていいし、最低な保護者にとってのいい子である必要はない、そこから追い出していい」だと思うのだけど、苦しむし辛い思いもするけれど、それらの矛先を自分に向けるのではなく敵をきちんと見つめているという描き方が真っ当すぎて…自己責任論に回収されなくて本当に良かった。マチルダの超能力も怒りのパワーで発動したものだと解釈しているので、怒りが形を変えることなく描かれていてとても好きでした。嘉村咲良さんが主演の回を観劇したのだけれど、嘉村さんのマチルダはすごく怒っているマチルダだなと感じて、そこがすごく好きでした。そもそもマチルダは全然笑わない(笑うような場面が多くないので)のだけど、真剣に演じているからというだけじゃなく、表情でああ今マチルダめちゃくちゃ怒っているんだと気付くことが何度かあって、純粋にすごいなと思いました。

 大人になってからのこの作品の見え方としては、いい作品だったと言うのと同じパワーで「子どもにそんなことをさせるな、子どもがたったひとりで背負う必要のない苦悩を背負わせるな、大人の責任を果たせ!!!」になって、なんかすごい申し訳なくなってしまった…マチルダに大人を励ます役をさせてしまって申し訳ない。正しくないことが起こりまくるヘルジャパンに生きるたくさんのマチルダのためにゥチも頑張らなければ…

 

THE MUSIC MAN

 パンフレットのヒル教授がぜ~~~んぶかわいい!!!!!!特にSTORYのとこのウインク教授!!!

 1曲目のロック・アイランドの掛け合いが楽しすぎて、あと白スーツの坂本さんのウエストが細すぎて最初からもうびっくりしたし、アホみたいな感想だけど坂本さんを見るたび好きになっていくな…としみじみしてしまった。とにかく音楽を楽しむ作品だったね~話としては分かりやすくシンプルだからこそ、音楽でこんなに幅が広く豊かになっていくのよ。生オケとキャストの生歌を楽しむぜいたくな空間、こういうハレの日がないとダメ。人生にはショータイムが必要。マジで。カルテットの皆様のアイスクリームとミセススクワイヤーズのコソコソヒソヒソの掛け合いが一番好きだった。あと2幕のハロルド坂本さん、ハロルドの正体がばれてるとマリアンから明かされた橋のシーン、どっちがプリンセスだよ!!と言いたくなって、やっぱ細かい所作がプリンセスなんだよな…スタアでプリンセス、稀有すぎる逸材。マーチングバンドでどうしてもガコイコの坂長がちらついたのはここだけの話です

 何だかんだでいろんなジャンルの作品を見てきてるなと思えるくらいに感激してると思うのだけど、今回で自分の好みが何となくわかったかもしれない。私は推しが出ていることも大事だけど、それと同じくらい演目が自分の関心に寄っていることで「満足、面白かった」になるのだと思う。たとえば今回のミュージックマンは明るい話で好きだったけど、私にとってはマチルダの方が自分事として引き寄せやすかった分入り込むことができたのかも。作品を通して自分は何をどう感じたかというのが私にとっては必要で、そういう点で「THE BOY FROM OZ」が本当に好きなのだなと気づきました。好きな人が、私のためと思えるクィアなエンパワメントをしている作品、そう言うものに出会えてよかったなと思う。今回OZに出演経験のあるキャストが坂本さん含め3人いるのかな?ハッピーでした。特に小暮航ノ介さん、カテコで坂本さんと一緒に出てきたとき、明らかに去年より身長差が少なくなっててよそのお子さんの成長は早いな…になったし、ピーターが時を超えてまた並んで同じステージで歌い踊ることができた…と勝手にエモくなっていました。

 

 

 ギャッと観劇の感想をまとめた。5月は今のところ観劇の予定がないので、精神がおしまいになる前に何か見つけて見れたらいいなと思うし、それが無理なら在住地で遊べるところを開拓したいし、あといい加減メガネを変えたい。レンズに傷がつきまくってるのに一向に割れない丈夫なメガネ、めちゃくちゃ愛着があるけどそろそろ変えないと...


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阿部ちゃんのダンスパフォーマンスの好きなところ ~アイデア、度胸、意思~

 

 阿部亮平さんのダンスパフォーマンスが好きです。自担や推しとはまた違うけれど、好みのパフォーマンスをするアイドルとして私の中の特別枠であることは間違いないです。(私は「ダンス」とされるものを含めたステージ上での身体を用いた表現を広く包括した語として「パフォーマンス」を使っているので、そういう理解でお願いします)

 Snow Manの皆さんのダンスを「(技術的に)上手い」と評価されるとき、挙げられるのはラウールさん、照くん、宮舘さん、佐久間くん...なのかなと思いますが※「上手い」の種類はたくさんあり、評価しようとすると、派手さ、身体の使い方、手数の豊富さ等がわかりやすい判断基準になるのかもと思いますが、何に着目するかによって見え方は変わってくるものだと思っています。それに私は評論家ではなくいちファンなので、好みです、で締めくくって全然いいんですよね※私は阿部ちゃんのパフォーマンスを見るとまじでおもしれー男だな!!!になるんですよね。今回はそういうことを書いていきます。とってもふわっとしていますね!ダンプラを見ながら好きポイントを羅列するだけの回です。では!

 

【Party!Party!Party!】


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 Snow ManのダンスパフォーマンスはJr.チャンネル開設時からゆるっと見ているのですが、最初におっ!?と思ったのは『Party!Party!Party!』のパフォーマンス動画です。薄らと持っている事前情報として佐久間くんはめちゃダンスが上手いということが頭にあったから、そんな人とシンメ組んでるなんて大変だろうな〜と思って見ていたら、お召しになっているパーカーを完全に小道具として、しかもただ使うんじゃなくて自分に注目を集める、観客の目を惹かせるためのアイテムとして使ってて、へえ~~手数が多い!と思っていました。今見ると、阿部ちゃんのダンスパフォーマンスの特徴なのか癖なのかわからないですけどよくやっている気がする「腕を使って上下を表現する動き」、今回だとラスサビ前の「uh~hey!」の、勢いをつけて顔からしゃがみ込む(顔も下を向いている)→「Uh~」で一段階、「Hey!」でさらにもう一段階跳ね上げるように腕を振り上げ、フードを下ろし顔を見せるの流れがすごい好きです。そして極めつけにアウトロのフリーのところで一人だけジャンプするところ。上下の動きの最たるものだし、明らかに目立つ動きを一人でやってのける度胸がすごい好き。
 あとこの振り付けの「何度だって」のつま先立ちになるところ、ポーズとして一瞬でも止まる派(岩本・宮館・阿部)と流れとして踊る派(深澤・佐久間・渡辺)に分かれてるのもおもしれ~と思います。そういうところに表れるダンスや解釈やノリのくせを楽しむのが今回のブログです。

 

【ZIG ZAG LOVE】

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  0:42辺りのシュパッと振り下ろされる右手!そして1番サビの最後「宝物」を歌いながら移動するときに後ろから前に回される右腕!!

【KISSIN’ MY LIPS】 


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 この高く上げられる右腕、キッシンのサビ「There is no need to be afraid」のあたりのところ(この動画だと0:58~の流れ)でも見られるんですけど、めちゃくちゃ「俺を見ろ」って言っててもう最高!!!180度ターンしてステージに背を向けると同時に右腕を振り上げ、そしてその手を2回軽く振りながら立ち位置に向かう、この一連の動きを見たときから阿部ちゃんのダンスについてのブログを書きたいなとずっと思っていたくらい好きなところです。

 一旦ジグザグに戻りますけど、アクロバットパートで側転をしたあとその勢いのまま左腕を後ろから前に回しながら持ってくる動きもあって、腕を使った表現自体は手癖的なところもあるのかな?なんて思っているのですが、経験を積み重ねていく中で大所帯グループで埋もれないためのアイデアからそれよりももっと明確な意思に変化していった感じがして、すごく好きなんですよね…

 

【Make It Hot】


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 冒頭の阿部・宮館・向井ブロックの「Hands up 感じるままに」のところ、宮館・向井の二人が普通に立ったまま歌っているところで一人だけスタンスを広く取り姿勢を低くし、動きを極力少なく印象的なポーズを取る→すぐ次の腕を上げる振りに合わせて立つ姿勢に移行することで高さが出る、という流れ。この曲の一番最初の歌割という注目が集まるところで静を選ぶ度胸、高低差を作ることで「同じ動きをしているのに違く見える」を作り上げる技術、好きです。「俺を見ろ」も一人だけジャンプも、単に「目立つための行動」と言ってしまうこともできますが、その背景には阿部ちゃんのアイドル人生とかステージに立つうえでの意識とかが少なからずあると思うんですよね。そういうのまで想像させるというか、動きひとつに振付としてだけでなくその人のパーソナリティや経験までを乗せているのだろうな…と思わせてくれるのがアイドルであり、阿部ちゃんのパフォーマンスに惹かれる理由なんだと思います。

 

【Granduer】


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 まずサビの「想像を超えた世界をこの手に」の、左腕を顔の前で横に置き、右手で顔を左から右に持ってくるような振付のところ。阿部ちゃんは他メンバーと比べて顔をかなり左に寄せ、向きも若干うつむき気味なところから右に持ってきます。そして顔を持ってくると頭は右に傾き気味、しかし顔は正面を向いているというかたちに収まります。サビで何度も出てくる振付ですが、毎回この角度、この向きでキメています。同様にサビの「It't a Granduer」で指鉄砲のような形を作りこちらに向けてくる振付のところでも、頭と首の動きのアクセントを入れているんですよね。激しい振り付けで腕や脚で動きを作れなかったから比較的自由に使える頭や首を使ったのかもしれないですが、このゴリゴリに踊る曲で顔に注目させるような動きを作る阿部亮平さん、最高の男だな…になりました。阿部亮平さんのパフォーマンスの引き出しの中に「あざとい」があるのは知っておりそれを十二分に発揮しているところも凄く好きですが、きっとその「あざとい」を突き詰めるとここにたどり着くのだと思います。やっぱ度胸と意思の男・阿部亮平さん職業アイドル。なんか急にフルネームさん呼びになってしまいました。

 

【HELLO HELLO】


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 1番サビの「Trust Trust me baby」、阿部ちゃんだけでなくシンメ位置の深澤さんも「Trust Trust me baby」に合わせて腕を使い音ハメをしていますが、深澤さんが両手を横→横と流れるように踊るのに対し、阿部ちゃんは右手のみ横→両手で横(一つ前と角度を気持ち反対につけている)→右手上というこの細かさ。そして目黒くんの「恋のせいにして」のところでターンしながら右手を上げる動き。これを見つけると嬉しくなります。ラウールくんの最後のパートが終わっておそらくフリーの部分、満面の笑みからの頭に手を当てたままターン→指差しアピールを、カメラの向こうのファンに届いていることを知っているようにずっと顔を正面に向けて踊り、隣位置の佐久間くんのパフォーマンスに注目を集めさせながら位置チェンジする流れ、なんとなくこれまでだったら自分のパフォーマンスだけでやってそうだったのになとか思いましたが、楽曲のポップな空気感に合わせてなのか、阿部ちゃんの中でそういうモードだったのか、どちらでもないのかは本人のみぞ知るですが、時系列で見ているとそういう変化も勝手に想像できて阿部ちゃんのアイドル人生…になります(急に何?)

 

【W】


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 1:00あたり、「どうすればいい」で画面左から中央にゆっくり移動するのですが、そこで開いた右手を頭の高さに掲げ、指をたたみながら握り拳にしていくという一連の動きなのですが、開いた手をすぐグーにするのではなく、パーを掲げる→移動しながら一呼吸おいて指をたたみ拳にする、なんですね。最初に見たときは単に敢えてなのかな、うまいなとだけ思っていたのですが、繰り返し見ると一呼吸分のタメを作ることで、背景が黒→白に変わった瞬間に動きを作ることができる、つまりより指の動きを視覚的に分かりやすくできる上に、わかりやすい動きが顔付近にあることで必然的に顔にも視線が行くようになっているのか......?というところまで計算してやってるのでは?となりました。完全にプロの仕事。

 

 

 ずっと脳内だけで考えていたことを文章に起こしただけなので、自分の考えをまとめる以外のことは特にしていないブログになりました。昔はこういう一人にフォーカスを当てたしつこい文章を結構書いていたのですが、最近はやっていなかったので書きながらこの感じ懐かしいな…になりました。当時の文章はもうイタくて読めないですが…

 マジで阿部ちゃんのパフォーマンスが好きということしか書いていないですが、こういうふうに癖や工夫やアイデアからその人の意思や意図を想像できるからアイドルのパフォーマンスが好きなのかもしれないです。それがパブリックイメージと違う面を見せてくれたりするから楽しいんですよね。私の中で阿部ちゃんは、ファンに自分を見つけさせるメッセージを発信し自分に注目を集めさせることを、知恵と工夫で表現する冷静な方法と、度胸といい意味での頑固さのような強い意思とを備えている、改めておもしれ―男でおもしれ―アイドルだな…という思いが強くなりました。終着点はそこです。担でもないオタクが書いたものなので、阿部ちゃんファンの方が読まれてどう思うのか想像つかないですが、私はこういう阿部ちゃんが好きです、という話でした

 

 

 

 

 

 

 

20230325

 初・ヤコバから職場に直行をかましました。私は何より睡眠が必要な人間なんですけど、課金していつもより高いバスで帰ってきたら割と動けたので今後もこの方法を取ろうと思います。

 

 

港町純情オセロ〜月がとっても慕情編

 後味は悪いけど、気持ちいいくらいに爽快にぶっちぎってるせいで心地よさすらある最後のシーンを見るためにチケット代を払った感。悪い意味じゃなく、それくらいあの画が鮮烈で悲しくて愚かで、でも美しかった...欲望には抗えないな、と思いました。あまりにも良すぎて...オセロの原著って言うんですかね?シェイクスピアを知っていればもっと楽しめたんだと思う。でもミリも知らなくても楽しめた(すげー陳腐な感想だね...)。登場人物誰にも肩入れはできなくて、みんな愚かだけど、果たして自分は愚かではなくいれるか?と思うとより地獄みが増す。終演後周りで「重すぎる」「もう観たくない」の声が結構聞こえてきて、そうなるってことはいい作品なんだよね。あんなに下劣をぶっ込んでもなお破滅のしんどさが勝つという、ものすごいパワーだった。悲劇的なシーンで当たり前のようにお下劣なキャラクターがブッ込まれてて、どうしたって滑稽な画が展開されてて笑えてしまう、こういう不謹慎な笑い、引いては笑うしかできない面白さと罪悪感を引き出してるのかななんて思いました。私はその居心地の悪さ嫌いじゃない。ただその笑いがホモソーシャルを向いている感があって、ただ面白いとは思わなかった。humanではなくpersonに向けた笑いを見せてくれ。

 オセロは嫉妬に狂って愛する人の言葉を聞かなかった、アイ子は裏切られたことが許せなくて破滅をけしかけた、モナもまた自分のことしか見えていなかった。みんな愚かなんだけど、その中に差別ー被差別の立場の違い、この作品においては戦後日本における外国人差別、特に外国人に向けられたデマというものがあったんだけど、ブラジル系で黒人差別を受けてきたオセロ(初演ではオセロ役はブラックフェイスペイントをしてたみたいで、今回はそうしなかったのがきちんとアップデートされてるなと思った)、在日コリアン2世のアイ子。この二人はデマに家族を殺された経験があって、一方のモナは大卒で医者の家に生まれた「箱入り娘」で、当時の日本社会のエリートで、モナのナチュラルにオセロを見下す感じのニュアンスが感じられて上手いな〜と思ったしまんまと1幕でモナを嫌いになった...同族嫌悪的な嫌いさね...しかし、アイ子もまたオセロに対して黒人差別を向けているし、このファッ○ン家父長制社会において「男社会」という強者側にいるオセロやアイ子に対し、モナはひたすら無力なんだよね。だからこそ2幕のモナ・チエ・エミの弱い女たちの連帯がすごく良かったんだよね。男は死んだら英雄になれるけど、女が死んでも悲劇にしかならないし、女は生きてても尚懲罰を喰らうというのを見せつけられるとクソですな!!!!!!になったけど、それにしたってあの首を掻っ切ってモナの膝に倒れ込むオセロの美しさ...........になってしまう。初演ではイアーゴーは男性が演じてたようで、そこから2023年版オセロは女同士の連帯や、手を取り合っているようでその中にさらにある階級を描いてるのかなと思った。

 

 当たり前だけど、健ちゃんがV6から出た場所だとしっかり大人に見えることにちょっとまだ慣れなくてそれにびっくりする。42歳なのに...42歳!?!?

 健ちゃんの寂しさ、今の状況や本来持ってるパーソナリティとしての寂しさが根底にあるから生まれたオセロなのかなと思っちゃったよね。三宅健のオセロだった。まっすぐで運命に翻弄されるキャラクターとして描かれていたと思うけど、嫉妬に狂う姿もどこか寂しそうで、制作者が想定する以上に切ないオセロになってたな〜なんて。あと、健ちゃんの声って芯のところに寂しさがあるよなと再発見した。

 

 今回が噂のブリリアホール初だったんだけど、確かに観づれし聴こえづれえ。でも私はまだ許容範囲だったので、今後気になる作品がブリリアでやるとしたら観に行くと思う。

 

 

ミュージカル おとこたち

 PARCO劇場、イスがふかふかだし最後尾でも観やすくてℒℴ𝓋ℯ。そして初藤井隆

 これはまじで事前情報を全く入れないで観劇したんだけど、ものすごく「シス男性の人生の話」でした。シス男性の孤独を描くだけでこうも可笑しく、そして悲劇的に見えるのかと思って驚いてしまった。ラストシーンも喜劇ではないと思うので。希望ではあったのかもしれないけどね。

 4人の中で一番悲劇的に描かれていたのが鈴木で、家の外でどれだけ「家族のために」働いたとしても、家族メンバーとのコミュニケーションを蔑ろにして(しかしこれは「方法が分からなかった」というのもありそうで、それがまた地獄でね...そうさせたのは日本の「男は外で、女は家で」というあり方も大いに関係してるので)、その結末として家にも社会にも居場所がなくなり、息子(娘じゃないのが上手い)とコミュニケーションが取れなくなり、若者に殴り殺されるという。その鈴木と対比させると、宗教という居場所があった津村、不倫によって妻からの信頼がなくなり、いい記憶の中に存在していないことが明らかになったけど、でもそこにいることは許され、やがて妻の方に引っ張られることで老後新たなコミュニティに参加することができた森田、そして友だち3人に寄り添い、話を聞いてきたことで「友だち」という居場所を持ち続けることができた山田。森田の妻の商工会のバレーチームとの対比がわかりやすかったけど、あそこで描かれてた女性たちの連帯(バレー以外にも家庭の愚痴を共有する経験)を見ると、4人のおとこたちは友達ではあったけど連帯はできなかった(だから鈴木のDVを鈴木の死後の知った)わけで、おとこたちが連帯するには自分の弱さ、加害性と向き合った上で、自分の思いを話すこと、そして話を聞くことを面倒がってはいけないんだよなと思った。

 大原櫻子さんがめ〜〜〜っちゃよかった...!あのチャリンコのシーンの美しさ、そして歌声よ!!あの声を聴いたことで、ボロボロに見えたとしてもあの彼女は強く生きていくんだろうなと思わせる、すごい力強い希望溢れる歌声だった。

 おとこたちの人生を追っていく作品だから、2幕では「老い」が軸にあるのかなと思ったけど、観劇に来る層って思ってる以上に「老いた状態」が身近ではないんだなと感じた。山田が認知症っぽい言動をしたとき周囲から笑い声があがってて、それは滑稽さと切なさのために持ち込んだ場面なんだろうなと感じたけど、でも私にとってあの山田の感じ、そして職員の対応って言うたら「職場の光景」に近いわけよ。だからああわかるわかるという感じだったんだけど、それがあんなに笑いに繋がるってことは当たり前ではない→珍しい→身近ではないなんだろうなと。私だって今の仕事をしなければ高齢者がどんな感じかなんて知らなかったと思うけど、生きていく限り必ずやってくる老いについて、みんな思ってる以上に他人事なんだなと感じた空間だった。山田の感じを笑う観客の(特にシス)男性ら、まずは山田の姿を見つめるところから始めるのがあなたらのこれからの人生ではないだろうか、と思った。

 おとこたちではない私の話としては、やっぱクィアの未来ってどうすればいいんだろうな...と暗い気持ちになっちゃって全然笑えなかった...なんかそれが辛すぎて観劇中誰かに手を握って欲しい思いが湧き上がってきちゃった。ホラー作品でもないのに。特に自分はひとりでいたい人間だから、「ひとりでいる」と「頼れる人がいる」と「連帯」をどうやっていけばいいのかな...わっかんねえ...の状態で、もうどうしましょうね...オセロもおとこたちも「女の連帯」を(メインではないにしろ)描いてて、そのこと自体はすごくいいと感じたんだけど、いや私は...になってしまう。そういうのをどうにかしたり誤魔化そうとするためにこうやって作品を観て文章を書いてるのかもしれない。感じて、考えて、どうにかしようとするわやっていかなければならないのよね...

 

 

 

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20230313

 カレンダーを買いました。それだけで生活をきちんとやっている...という気持ちになれる自分、助かる。

 

 私は恋愛を扱った作品を楽しめないタイプなんだけど、特に恋愛によって何かが変わったという描写がでえっきれえで、逆に恋愛によってその当事者のある側面が(向ける感情とか愛情とか)深くなった様をわかりやすく鑑賞者に示すツールとして使われている場合はまあしゃーなし..........レベルになるのかもしれないと思いました。恋愛をメインに置くんじゃなくて、その人がどう思っているのかを鑑賞するためのガイド的アイテムとして使われてるならいい。それだって恋愛という名前をつけなくたって、単に「特別扱い」でいいじゃんとは思う。特別=恋愛じゃねえのよ。特別は特別のままでいいのよ...それぞれの特別を描いてこうぜ!!!と人様の書いた二次創作を読みながら思ってました。二次創作、作者が対象の人物への愛を原動力に描いている作品だと、恋愛をまさにツール扱いしかしてないものに出会ったりしてラッキーです。そういうのが好み。

 

 本日気圧がやばくて、一日座りっぱなしの仕事だったんだけどあんまり記憶がありません。午前中とかオンラインの説明を聞きながら4月末までの家計簿をざっと作って金の動きのことを考えてたら終わりました。5月が暇だけど、6月に車を買う予定(ローン組むけど)があるしいい加減冷蔵庫も買い替えたいし、少し貯金しようかな...とか思ってるけどどうせ思い立って舞台行くんだろうなという感じです。結局オセロ行くしね。ブリリアの「「死」」の席だったんだけど見え方大丈夫なのでしょうか。でも今回が初めてなので経験として行くのもありだと思うし、もしもムーラン・ルージュ行けるってなったときどんな感じに見えるか知りたいし、オッケーです。ようやく新感線作品見れるのもふつーに楽しみ。楓ちゃんが卒業してからやっぱりモーニング娘。から少し遠くなった感覚があって、きっとハロプロとは音楽の趣味が合うから離れることはないと思うけど、でも積極的に追うことはこれからはぐっと減るだろうなという予感がしてる。寂しいけど、でもthe music never ends(嵐)だから...ハロプロもまあまあ恋の歌多いけど、それでもあの最強のメロディーと時にブッ刺してくる詞がある限り嫌いにはならないと思う。

 

 ブラッシュアップライフ配信で見て、最終話で4人が同じ老人ホームに入居してたシーンを「理想の老後!」のような肯定とか憧れの文脈で語られるツイートを結構見かけて、ある時期は私もそう思っていたけど、介護業界に身を置いている、そして単身者生活をできるだけ継続したい人間として、高齢になってから(高齢だけじゃなくて、傷病など生活が社会に想定されている類型から外れると、のが表現としては適切かも)の生活ってどうやって他者に頼ることを受け入れるかなんだよな〜とか、自分はああはなれないな、単身者の未来ってわかんないな〜と思ってうっすら辛くなった...頼るのが悪じゃなくて、それを受け入れるまでの過程とか、受け入れられないいけど諦めはついてるみたいな曖昧なラインとか、自分がその状態になったらどうなるのだろうと思うと、なんかまじで単身者が老いるって難しいなと思う。私は人付き合いがあんま得意ではないし、人が嫌いというわけではないけどひとりでいることが好きなので他者と生活するのもあんまり理想とはしていないし。でも大きい犬を飼いたい夢があって、それを叶えるにはひとり以上で生活しないとなーと思うので、その目的のためなら同居生活もいいかなと思う。万一それが叶い、そして犬がいなくなったあとで同居をすぐ解消するかというと現実的に難しいだろうし、そうやって一緒にいるのはもしかしたら理想の、夢のような未来なのかも。この人と一緒にいたい、以外でも同居していいはずなんだよね。まあこの社会では難しそうですが......でもできたらそれもいいだろうなとぼんやり思ってる。ジェンダー観と政治的イシューへの態度が全く同じではなくても「これは絶対ダメ」というラインが同じだったらいい。最低限ラインとして。友達と遊ぶことは今の私の人生には絶対的必須項目ではないけれど、生活の中に他者を介在させるかたちはどんなものがあるかは考えなきゃなーとは思ってる。ひとりでやっていきたいけど、「ひとり」とはどんな状態か、「やる」のは何をどのようにとか、細かくなくていいけど軸については深めていくのがきっと自分のためになるよなーなんて思いながらドラマを見終えました。

 

 フェイスラインのニキビがとんでもねえけどまあいっか!!!!!!!!

 

 

 

 

20230305

 まだ2023年のカレンダーを買っていません。換気扇の掃除もしようと思ってから1ヶ月くらい経ちそう。

 

 もう明日にはトニコンから1週間経つと思うと時間の流れが速すぎる。勢いでオセロの申し込みをして、ド平日を希望したし当たるだろうなと舐めてかかっています(失礼ぶっこき奴)。いや、やっぱ健ちゃんの姿を見たいじゃない…新感線作品はずっと見たいと思ってたし、このタイミングで乗ろうじゃないのと。じゃあなぜトニセンFCで申し込まなかったのと言われるとそれまでなんだけど。
 健ちゃんがジャニーズを離れることは何となく自分の中で納得というか折り合いはついていて、つまり健ちゃんはV6、6人であること、隣に森田剛がいて、岡田准一という弟分がいるグループに所属し、トニセンがいるグループで歌い踊ることがとてもとても大切だったんだろうな、に尽きるのだと思っている。健ちゃんのV6への愛情をソロコンで届けてもらって、あの思いは疑う余地もなく深く強く優しいものだと信じさせてくれたから、ただ健ちゃんが進みたい方向に歩いていってほしい。もちろん寂しいけど、ソロコンを経て、ジャニーズ事務所にソロアーティストとして所属する三宅健を見ることの方がよりさみしさを抱かせるような気がして、健ちゃんを「V6の喪失」を背負わせたフィルターでしか見ることができなくなりそうなのは、健ちゃんの優しさに甘えていることになると思うし、そのことにどうしても申し訳なさが常に付きまとってしまうのは何かどうなんだろうなと思うので、ただありがとうと思う。いつかFCができたときは、今度こそ入ろう。

 

 トニコンから1週間が経ちそうなわけだけど、私はどちらかというと記憶力が悪い方なんだけど、より細かく言うと視覚優位なタイプで、視覚情報で補完されない(できない)状況でする記憶がめちゃ弱なんだろうなという。だから言語だけで、音声だけで説明されてもいまいちよくわかってなくて仕事でミスを多発させるわけですが…頼むから一回やって見せて!!!もうすでにどんな感じで歌ってたかは思い出せないけど、LADY LADY LADYの博の腕の振り付けは映像で思い出せるのでやっぱ傾向、得手不得手ってある。ライブの記憶で言うと、2021年10月の私が参加したgrooveコン、何の曲だったかは全く覚えてないけど、メインステージからセンターステージに移動するとき、花道を奥(私はメンステに向かって右手ブロックにいて、そこから花道を見ているから井ノ原さん、博、剛くんが横並びになって歩いていて、井ノ原さんが嬉しそうに優しい笑顔で博の顔を覗き込み、剛くんも表情こそ見えなかったけど博の顔をそっと見てるんだろうなという感じだったのを未だに忘れられない。ああいう瞬間を見れることがファンだからこその幸せというか、ファンだから許してもらえてるんだろうなと思う。視覚の話から離れるけど、解散の1,2年前くらいから剛くんの飼っているゴールデンレトリーバーちゃんがちょくちょく映るようになったのも、剛くんがプライベートな部分を見ることをファンに許してくれてるんだと思ってて、そのあたりからああ私はV6ファンなんだなと思うようになったな......オタクをする自分への赦しが欲しいというニュアンスではなくもっと軽いものなんだけど、許してもらうって何なんだろうね…それを求めてファンおよびオタクをしているわけではないと思ってるけど、「他人」とはまた違う関係を築かせてくれてるような感じ、不思議よね。

 

 

 また「MIU404」ブームがやってきてレンタルしました。私はいい加減DVDボックスを購入するべき。
 私はあの作品の伊吹藍をAロマの人物であるとして読んでいて、また当然志摩一未もクィアであると思っているのでサイコーに楽しい作品です。伊吹の言う「きゅる」からロマンティック的な感覚を読み取れない(セクシュアル的な感覚は描かれていないだけで何となくある気がする)、それだけで鑑賞の上でだいぶストレスが軽減されるし、さらに志摩と伊吹の関係よ。志摩は反差別でなければならないという意識が透けて見える、努力と学びによって作り上げられた倫理観と、それでも完全に拭いきれないで内側から時折にじみ出てくる「男らしさ」とかホモソーシャルブレンドがすごいいいし、伊吹はAロマ的、かつASDADHD傾向のある感じ、知識というか認識の軽薄さ(これは善意の差別者的な自分の態度と重なってしまう感を意味する)がどうしても自分と切り離せなくて≒まったくの他者として鑑賞できなくて、そのふたりの関係を見るのが楽しいです。

 私が自分のアイデンティティとして「女性じゃない」「Aジェンダー」を獲得したのはここ半年くらいのことだけど、そのずっと前から言語化されずとも感覚としてはあって。ずっと「女性」というアイデンティティを自分に割り当てられるのに違和感があり時に苛立ちや苦痛も感じて、だから「フェミニズム」は自分のものではない、というか私がそれを引き受けていいのだろうか、それは私のものなのだろうかという思いがあり(正直その思いは今も完全には拭い去り切れていない)。そして、私自身のアイデンティティの引き受けとはまた違う範囲の話で、趣味として受け取るものでも、「自分と近いけれど、どうしたってやはり自分はそれではないもの」として、女性同士の絆や連帯を描いた作品にあまり興味関心を持てなかった、遠ざけておきたい感覚があるんですよね。現実のホモソーシャルは大概最悪でしかないけど、作品として鑑賞したり批判したりこねくり回したりすることができるそれは私にとっては娯楽になるんだな、と思う。女性じゃない、というアイデンティティは=男性であるとは結び付かないので(この社会はそんなにバイナリーにはできていない、そのことに気づくのにもだいぶ時間がかかったけど、あまりにもあらゆる社会制度が性別二元論を前提として設計されているから、そこから外れる人間がおのれのアイデンティティを獲得するのはすごく難しい。さっさと性別二元論はくたばってほしい)、女性よりも明らかに「他者」である男性同士の関係を描いたものは、安心して鑑賞者である自分の立場から遠くにあるものとして見ることができるから好き、というのもあるんだと思う。私はめちゃハマったジャンルで二次創作を書いてきた人間なんですけど、過去描いていたのは全部男性で、やっぱり男性は私にとっては完全に「まなざす対象」だからこそできてるんだろうなと思う。女性を扱うとフィクションとノンフィクションが入り混じってやりたいこと、願望をうまく描けない気がして…シスターフッドを扱った作品を見るとどうしても、そこに私と近い人間の生きる希望と私はそれではないのに社会は私に「そう」であると要請している(わたしは「そう」ではないのに)という苛立ちが湧き上がってきて、その葛藤を楽しむ余裕はねえので......と遠ざけてしまう。当然のことだけど、この苛立ちを女性たちにぶつけるのは間違いであり、一番の敵は性別二元論です。バイナリーな規範に苦しめられながらバイナリーであるという前提で趣味を展開し、愛好し救われるって何??と自分に嫌悪することもあったけど、それも全部性別二元論、女か男か、という前提が違うんじゃん!?と理解してからは楽になった。でもレドベルのQueendomがすごい大好きで支えられたと思ってきたのに、Aジェンダーアイデンティティを獲得した後に聴いたら「それは私のものではない」となってしまって、そう思うことがすごいショックでしばらく聴けなくなったんだけど、それだってQueenがKingと対立する概念である、という段階の社会がアレなんじゃん!?でもやっぱ今も聴くとさみしさがある。何の話?

 ともかく、まなざす側、鑑賞者の立場として見たとき、私にとって男性同士の関係はわかりやすく他者のものだからある程度の気楽さで、娯楽として楽しめるんだと思う。ジャニーズが好きなのもそういうのと関係している。他者のアイデンティティを私が知った気になるとか決めつけるとかはとても乱暴な行為だけど、しかし「男性(たち)である≒私とは完全に違う属性であるという前提」に安心して寄りかかれるところもあるし、ファンおよびオタクとして好きでいられるところもあって、割り切れねえなと思います。

 

 本日16時に起床した割に、起き抜けにミカンを食ってビタミンを摂り、酒を買ってきて飲みながら弁当用のおかずを4品作り、辛ラーメンを作って食い、風呂に1時間以上入ってまた酒を呑みながらブログを書き寝るまでの1時間何しよっかなMIU404見るか消えた初恋のクィアリーディングの続きするかな~(つまりどっちを見てもAロマ的な作品を見ることになる)って、怠惰と充実感が同居してて最高の休日なのでは...?確かオセロの当落今週だから楽しみだし(当たる前提のお気楽野郎)、2日働いたらまた休みだから、火曜日の夜はマフィン作って、水曜日はトニセンの水曜日聴きながら好きな服着てファミレス行ってケーキ食いながらトランスジェンダー問題を読み切って、みたいな小さな楽しみで今週も生きながらえていこう、という感じ。働き始めて1年になろうとする現在、仕事に楽しみを求める働き方がそもそもあんまり向いていないというか、仕事を生きがいにできるほど器用にできてない(目の前の情報だけで生きているので、帰宅したら家モードにリセットされ仕事のことは頭から9.8割くらいは抜ける)ことに気づきました。便利な脳なのかもしれない。引きずりそうになるからこそ、職場から離れたらもうどうにもならねえから忘れろ!切り替えろ!と唱えながら帰宅する努力はしてるけど、今はそれができているからいい状態でやれてるんだと思う。仕事、嫌なことも当然あるけど完全に苦痛というわけでもなく、みたいな距離感で、なるべくその感じをキープしたいというのが今のところの願いだな…淡々と過ぎていってほしいんだよね。大きな喜び、それと対応するような大きな悲しみみたいなのに感動ではなく疲弊を覚えるタイプだから…そういうのは趣味の方で得たい…ジェンダーについても仕事についても、それらの規範に適合しない(ジェンダーはバイナリーである、仕事は生きがい求められるようなものでなければならない)ことに戸惑いや劣等感のようなものを全く感じないわけではないのが正直なところだけど、だからこそ意識してそこから離れなけれなならないというか、そうしないと私が生きづらくなるだけという利己心を働かせなけれなばならないよなと思うわ…それを利己ではなく、アイデンティティとして受容できるようになったときまた違うようになるのかな…

 

 

 

 

 

20230301

 いよいよツイッターが調子悪くなってきたし、これを機にブログでもテーマを決めて1本!ではない日記的な使い方をしようと思います。逆にこのブログを開始してから今までの約7年、テーマを絞った濃いいものしか書いてこなかったのがすごいなと自分で思います。気楽に書いてこ。

 

 

 人生初トニコン!!!しかもビルボ!!!トニコンに参加するチャンス自体は2019年のディナーショーがあったんだけど、そのときは翌月に関ジャニ∞のライブ高知公演に行くことが(確か)決まってて、ちょっと学生の貯蓄では無理できないな…と思って見送ったんですよね。その関ジャニのライブがコロナ禍前最後のライブになってしまい今回に至ったので、なんかやっと.....という思いでした。

 感想はもうツイッターにわーっと書いたので細かくは書かないけど(気が向いたら書くかも)、ビルボの空気感だからなのか、すごいネクジェネみたいな空気感だった。でもネクジェネより井ノ原さんがはしゃいでた。やー井ノ原さんほんとにかっこいいんだよな…LOVE SONGとかredとか、割と昔の曲と分類される曲ってロックテイストのものが多い印象なんだけど、そういう曲でオラつきながら音に乗るあの感じ、サイコーにおしゃれで爆イケで「イノッチ」しか知らない人が見たら卒倒するやつだしオタクにこういうところを見せてくれてほんとうにありがとうという気持ち。坂本さんはまじで歌が上手い。やっぱ昔の曲だとわかりやすく「メインボーカル=坂本昌行」という感じがあって、正直!ロシ担としては今の曲の方が歌割というかそれぞれの得意分野をきちんと任されてる気がしてたんだけど、Precious Loveのフェイクを生で聴いたらやっぱあんたがトニセンの歌唱の肝の人!!!になった。ホイットニーヒューストンだった。博はなんかもう、これまで見てきた長野博を再確認した感じの居かただった。この人を見てると「変わらない(ように見せる)」ことの自然さ、凄み、アイドルとしての矜持みたいなのを感じてすごいなあと思う。よくわからない人だからこそ自担になったという感覚だけど、grooveコンを経てなのか単純に時間が経ったからなのかはわからないけど、ファンになった当時よりはわかる気がする、という部分が増えてきたかもしれない。あくまで見えているところだけの話だけど、それでもアイドルの部分を知れることはすごい嬉しい。アイドル・長野博を好きになったからさ…LADY LADY LADYの振りつけで手とか腕をバシッと決めてダンスとポージングの中間みたいな感じで踊るのがすごい好きだった。

 帰りながらセトリをプレイリストにして流してたらオレキミ2番の博のパート、「今日もどこかの街できっと君も俺みたいに こんなはずじゃないって夜空を見上げて」が今の自分に刺さりすぎて泣きそうになった…オレキミ曲としてすごい好きだし、初めてみたトニコン(映像でだけど)のリード曲で繰り返し見てたから、好きになりたての頃の熱量という思い出も詰まってるんだけど、こうやって何度も歌われていくことでさらに新たな支えになってくれるのが、アイドルと共に年を取っていくということなのかなと思った…素敵な経験ね…

 

 今回、トニコン代々木第一体育館を通過してアンナ・カレーニナ→原宿の東京じゃんがらという感じだったんだけど(その合間に行ってみたかったイタリアン一人飲み→トリキ飲み、ジャにのチャンネルのトリュフパンを買いに行ったりといったことを挟んでる)、ひとり行動が苦痛じゃないタイプでよかったなと思うし、だからこそ関東に住んでみるのも手なのかな.....と思ったりした。やっぱ東北に住んでると私の趣味である観劇のハードルは高いんだよね…ハコが少ないし、チケット代と同じ、もしくはそれ以上の移動費を払って観劇することでかかるコストは結構きついし…現在地元からは出てるけど結局同じ東北地方に住んでて、何となく「何かあったときに帰れる方がいいから」と思って現在の地域で仕事を探し就職したけど、そう決めた理由の中に無意識に「長女(これは社会に割り当てられた役割としてで、私のジェンダーアイデンティティは「女」ではないよ)だから、何かあったとき家に戻れる程度のところにいた方がいい・いなきゃいけない」と思ってたところがあるのかもしれない、と気づいた。それは結婚を選ぶことは絶対にない、交友関係が合って会える友達も割と誇張なしにゼロ、でもそのことは現状苦痛ではない(それは私が家族との関係が良好で、私自身や親の経済的な安定があり、正規労働に従事できているという特権によって成り立っている面もあるんだけど)自分にとって、果たして地方にいる意味って何なんだろう?と思ってしまう。趣味を大事にしたいという思いの先には私の自己決定とか長女としてイエ制度、家父長制とどう向き合うべきかとか、都会中心主義(への批判)とかの問題、さらには地方という環境による非シス、非ヘテロパーソンにとって生きづらさもきっとあるんだろうけど、やっぱり首都圏へのアクセスが決してよくないところで今まで生まれ育っている人間として、ここからどこにいきたいか、どうしたいか、何がしたいかを考えた。実は地方(つまり私の住んでいる東北)で社会運動に携わっていた経験があって、社会と向き合うとき周辺とされる場所に存在すること、問題を見ること、声を上げることの意義は肌感覚で感じてきたつもりなので、そういうね、社会の中にいる生活者として地方に存在することの大切さを捨てるのは私にとっては惜しいことだから、どうしようかなーー......なんにせよ自分の中に選択肢が増えたことはいいことだと思うので、これから考えていきたい。

 

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 最後の博、iPhone8の画質の限界もあって写真なのになんか絵みたいな質感になってる。

 

 

 

 

 

現在完了進行形で続く未来 〜Ken Miyake NEWWW Live Tour 2022〜

 

 10月31日という日程を取ったのは、シンプルに公演の会場が居住区と近いからですが、でも、どうしてもそれ以上の意味を乗せてしまいます。2021年11月1日からもうそんなに時間が流れていたのか。V6が解散してから本当に1年が経ってしまうのか。〜か月ではなく、これから過去を年単位でカウントしていくことになるのかと思うと、なぜかとても寂しい気持ちになっていました。

 この期間の私のV6およびブイの一族の皆様との距離感や向き合い方は、微妙なバランスを取ってきました。悩みましたが経済的事情、そしてどうしても舞台に立つ剛くんを見たいという現金な思いで、結局FCはトニセンと剛くんの二組に入りました。それぞれのSNSはフォローして動向を追っており、トニセンロードは全話購入して、マーダー、フォエプラ、OZ、凍える、バーディ、そしてGuys俺たち、ブイ間連は10現場になる予定です。剛くんの舞台は仕事の都合でどうしても行けなかったけれど、チケットは取っていました。トニセンの配信シングルは毎回購入しています。未だにgrooveコン本編を再生できず、MC集とメイキングだけ見て、相変わらずの空気感に安心しています。V6の曲を全く聴けない時期と普通に聴ける時期が行き来していて、8、9月はしんどくて聴けない時期でした。いわゆる自担舞台のフォエプラで解散以降初めて博を見たとき、私の最初で最後のV6コンであるgrooveコンの時のような胸の高鳴り方をせず、穏やかな感情しか湧き上がってこなかったとき、それ自体の良い悪いではなく、私にとってのV6の解散の意味を理解しました。リリースされるトニセンの歌声を聴いて、音楽活動を止めないでいてくれること、将来のライブの可能性を嬉しく思いながら、元々あったV6と20th Centuryの歌声の違いを改めて感じ、「V6の歌声」が更新されないことに打ちのめされた思いになることもありました。V6になるずっと前からトニセンでは末っ子で、その末っ子ムーブをファンの前では隠すことなく自然に出す井ノ原さんを愛おしく思いながら、ふと再生した「そういえばこれやってなかったな旅」で岡田さんへの態度がびっくりするくらい「兄」で、慣れ親しんでいたはずのこの姿を久しぶりに見たこと、こういう振る舞いをする人だったことを忘れていた自分にショックを受けました。これに関しては完全に憶測でしかないけれど、FC動画で時折、それまでカミセンに向けていたような甘やかし方を井ノ原さんにしている気がする博を見て、何とも言えない喪失感に寂しくなることがありました。坂本さんはやっぱりあの日から変わらず、この人にとってV6はなくなったものではないけれど全うしたものではあるのだろうな、と考えていました。

 つらつらと書いてきましたが、ようやく「V6が更新されない」ことがどういうことかを理解し、そしてそのことにまだ慣れたわけではないことを知った時間でした。

 

〜〜〜ここまでが10月30日に書いた内容〜〜〜

 

※ガンガン内容に触れていきますのでネタバレ注意

※微妙にフォントが違うのが混じっているのは自分のふせったーから一部コピペし編集したためです

 

 ほんと、ブイの一族ということで先行で健ちゃんのライブに申し込めるようになっていることが不思議というか奇跡というか、なかなか前例のないことだと思います。トニセン名義のFCで当選した健ちゃんソロコン、行ってきました。会場に着き発券すると3階席、この会場で3階席しかとったことがないけれど、どの席でも割と近く感じる会場だしいいや、何より健ちゃんファンの方が楽しめますようにという思いと、昨年以降トニセン現場しか行っていなかったため、久しぶりにV6を感じられる現場に行けたことの嬉しさも感じながら、会場に流れる健ちゃんの新曲とステージのスクリーンに映る歌詞を眺めていました。当たり前のようにオレンジのネイルを塗ってきたけれど、会場は青のペンライトばかりで、こういう光景に慣れたときまた寂しくなるんだろうなと始まる前から切なくなっていると、ふとすれ違った方のスマホのホーム画面がgrooveコンで岡田さんからプレゼントされたあの6人のハートで、きっと私と同じようにあのツアーに参加していたV6ファンの方と1年ぶりに会えて、勝手に懐かしい気持ちになっていました。会場はプピーこと今回のツアーグッズのペンライトが体感9.5割を埋めていて、それしか持っていないためgrooveコンのペンライトで参加した自分が何となく申し訳ない気持ちになっていると、健ちゃんの影アナが始まり、そしてライブが始まりました。

 

 

 1曲目『HELLO』。そうくると思わないじゃん!?!?!?という衝撃が何よりも最初に襲ってきて、どうしても感じてしまう、わかってしまう健くんの意図、そして思いに触れたことで一気に感情が揺さぶられ、開演前に感じていた不安が一気に霧散し、ただただ健くんのV6への思いを受け止めようと立ち尽くしてしまいました。

  まず、あのセットは健くんの心の中、心象風景を表しているのだろうなと解釈しました。薄暗くて、安心できるけど、一人分しかない孤独な空間。解散を発表したとき、健くんは「宝箱にしまう」とV6の閉じ方の理想形を語っていましたが、あの空間はその言葉通りの場所だったように感じました。最初あそこにいる健くんは、V6を失ったあの時から時計の針が止まったままの心に抱えている癒えない喪失感、悲しみ、寂しさを生々しく感じている姿で立っているように見えました。

 そもそもこの曲は20周年のベストアルバムにはじめて収録され、それをひっさげた20周年ツアーで初披露された曲です。そのベストアルバムでで発表された新曲は3曲、『Wait for You』、『~此処から~』、そして『HELLO』です。この20周年三部作は、それぞれ「未来」「現在」「過去」を歌っている、と当時解釈されていた曲たちであり*1、それに則ると『HELLO』は過去、そしてこの場合の過去とは「(解散した)V6」へのエレジーなのではないだろうか。ソロになって初めてのコンサートで、最初にV6という過去を持ってくるとは予想していなくて(セトリのネタバレを見かけて、『HELLO』をやるのは知っていたけれど1曲目だとは微塵も思っていなかった)、そんな、ここでV6を思い出すことを、V6を感じることを許してくれるの?という驚きと、過去として歌われるV6の姿を目の前で見せられるのがあまりにも辛くて、どうやって受けとめればいいのか最初はわかりませんでした。ただ、ひとりで歌われるとあまりにも孤独で、聴いているこちらにも健くんの痛みが伝わってくるような『HELLO』だったけれど、単純に失った過去の痛みを歌っているわけでもなく、過去に語りかけるようでもあり、どこか未来を祈る歌にも聴こえてくる気がしました。

 ヤマシタトモコの「違国日記」という漫画があります。主人公の田汲朝は突然の事故で両親を亡くし、母親の妹である高代槙生の元に身を寄せともに暮らしていく姿を描いた作品なのですが、2巻で朝が彼女の家族と暮らしていた家を引き払うための整理をしながら、母親のことを思い出というには近すぎる、当たり前にそこにある距離感のこととして槙生に語ります。ふと朝は「おかーさんのこと 現在形で話してるね」とつぶやくと、槙生は過去分詞は習ったかと問いかけ、現在完了進行形の話を始めます。

 

…「今読んでいる本」は 今ここでじゃなく読み途中の「読んでいる本」はね

I'm reading ではなく 過去のわたしから 今 少し未来のわたしへ 繋がる

この線の上 I've been reading 「今 読んでいる」

だからあなたは… なんだろうな You've been thinking of them 続いている

それを強引に断ち切る必要はない

 

ヤマシタトモコ「違国日記」第2巻 P28(kindle版)

 

 あの空間で、1曲目に健ちゃんひとりで歌われた『HELLO』は、そういう手触りのものでした。解散によりリアルタイムで動く存在としてのV6には終止符が打たれたけれど、まだV6は続いている。それはもう終わってしまったことを突き付けられる苦しみを生み、しかし同時にまだそこにあると感じることを許してくれる希望も生む。それをV6の一員である健ちゃんが示してくれることに、V6ファンに対する途方もない優しさと、健ちゃん自身のV6への思いも感じ、ライトブルーのペンライトでほとんど埋まった会場にピンクのペンライトをやりきれない思いを抱えながら光らせる自分の思いを掬い上げてもらった気がしました。思い返すと解散を発表してから最後の日の挨拶まで、健ちゃんは悲しむことを肯定する言葉をかけてくれていました。その言葉は、もしかしたら解散を決めた側が言うべき言葉ではないのかもしれません。それでも、悲しみが続くことで思いが今も続くものでもあると感じられる、過去にできない思いをきっと私(たちファン)だけでなく、V6だった人も感じているのかもしれないと思えたことで、少しだけ喪失の痛みが和らいだ気がしましたし、健ちゃんにとってもV6はまだそういう存在であるのかもしれないと思えたことは不思議と嬉しいものでした。

 

 そして2曲目から続くV6楽曲。過去を歌ったすぐ次に「そう 今だけを生きろ 音楽だけが時間を超えるよ」という『MAGIC CARPET RIDE』を持ってくるのにはいっそ舌を巻かれる思いでした。続く『分からないだらけ』は、ソロバージョンもリリースされている曲であり、何より健くんのあてがきのような*2曲で、grooveコンと比べダンサーさん(YOSHIEダンサーズという豪華な布陣)と作り上げる作品という色がより強くなっているように感じ、新しい光景を見たなという思いでした。その中でもサビ終わりの「カンカン!」のくだりを思い出し、ちょっと面白くなってほんの少し切なくなりました。

 『悲しいほどにアイドル』。まさかこの曲を見れると思っていなかったです。2011年から10年以上経っても歌えること自体が既にすさまじいのに、目の前で歌われるとセクバニコンの映像で見たときよりさらに凄みをまとっていて、こんなアイドル健ちゃん以外会ったことない……と圧倒させられました。2011年にこの曲で歌われているのは、アイドルであることでprivate、personalのアイドルではない自分の在り方を抑圧されることの哀しみや辛さだと思っていたけれど、今回は「演じている自分も決して嘘じゃない」が強さを持って響いていた気がしました。見たい姿を見てるだけかも知れないけど、特に『HELLO』『分からないだらけ』で、ピンライトの下に移動するというのが振付として組み込まれているのか、ステージ上の姿として印象的だなと感じていました。光の当たるステージの上に立ち続ける意思表明なのかななんて思ってたけど、この曲を聴いてそんな甘いものじゃなかったのだと思わされました。どストレートに「これだからやめられないのがアイドル」と示してきて、40代でグループを解散した、ひとりで立つことを選んだ孤高のアイドルの「生涯アイドル宣言」を見せられたのだと思いました。恐ろしい男……

 『SPARK』を、ライブ版のイントロからやってくれたのが本当に感謝でした。あの予兆があるだけで気持ちの跳ね上がり方が桁違いなんですよね。細かいところや実際のところは覚えていないのですが、私がYOSHIEダンサーズがV6のメンカラを意識したであろう衣装を着ていることに気づいたのはこの曲でした。そのときの気持ちを何と表せばいいのか。まず『SPARK』は何よりもパフォーマンスありきの曲だと思っていて、それを一人でやられたらどうしても見慣れた6人の姿ではないことの方を意識してしまいそうだったから、皆さんが踊ってくれて私は本当に良かったです。そして、『HELLO』のときと似た思いなのですが、ソロコンでV6の姿を見ることを許してくれるのか、ということに健ちゃんの愛を感じてどうしようもなく嬉しく、少し切なくなりました。同時に、YOSHIEさんにオレンジの衣装着せてた(よね?)のを見てなんて贅沢な男!!!と心で叫んじゃいました。いやVとYOSHIEさんの縁は健ちゃんから始まったものですから正統なアレですけど……そしてYOSHIEダンサーズさんと並んでもやっぱり細くて華奢......ダンサーズを従えた図、身長差があんまりなくて寂しくなったりもしました。

 会場BGMとして流れていた新曲、そしてPVが公開されている『Destination』、健ちゃんと音楽の趣味が合うのが本当に幸せ。V6ファンをここまで続けているのもV6と音楽の趣味が合っているというのがかなり大きな理由で、トニセンの配信シングル3曲も変わらず好みで、さらに健ちゃんの曲も好みで、さすがVの一族!と思いました。アルバム発売楽しみ。


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 ファンもだけどV6がミュージック・ライフをすごい好きな印象があったけど、まさかここでも聴けると思ってなかったし、ペンライト振るのめちゃくちゃ楽しかった!!!同時に、もうV6のコンサートでペンライトを振ることはもうないのかと思って、急に寂しさが込み上げてきた瞬間でもありました。

 『Full Circle』は、解散前と後でかなり印象が変わりました。最後の井ノ原さんのパート「I'm gonna be alright」がどこか祈りのように感じられて、V6の文脈から少し距離を置いて聴くとこんなに静かな曲だったんだと気付きました。この曲で1番印象に残っているのはハピライで、あのとき漂っていた得体の知れない緊張感が張り詰めていた感覚だけまだぼんやり覚えていて、あの時から随分時間が経ったんだなと思いました。てかこれをひとりでやろうってのがすでに凄いんですけど。
 『The One』。スクリーンに映された宇宙っぽい空間の中に輝く金の光はペンライトを持つファンの光だと思ったし、ラスサビで映された満開の花びらはgrooveコンの最後の衣装だと思いました。あのときはお互いいっぱいいっぱいで、きっとV6の方も、もしかしたらV6の方が、自分たちの思う幕引きをするために堪えていた、語れなかった思いがあって。そのためにあの場で交わすことのできなかった思いのやりとりが多分あったけれど、あのとき私(たち)が届けたい思いはちゃんと届いてたんだと思いました。いつかの健ちゃんのインスタのストーリーで、STEPについてきたメッセージメモが壁一面に貼られた前で撮った写真、メッセージを書いているときはどう使われるか知らなかったし、ライブ当日も、ドキュメンタリーを見てもどうなっていたのか分からず、果たしてあの言葉は届いていたのだろうかと思いを馳せるしかできなかったけれど、あの写真でちゃんと届いていたことを知れました。そして今回のこの曲の演出によって、健ちゃんから「届いているよ」と言ってもらえた気がしてじーんときました。そしてその次の曲の緊縛で情緒!!!!!!になりました。だって情緒............(同じこと2回言う)
 Microの提供曲と紹介された曲。記憶がすでに怪しいけど、会場BGMで開演直前まで流れてた曲で合ってる...?違ってたらごめん...健くんなりの『〜此処から〜』じゃんと思ってしまってちょっとまだ咀嚼し切れていません。ふと、『〜此処から〜』の波線は過去と未来をつなぐ意味の記号だったのかも、と思い浮かびました。此処があるから過去を繋ぎ止められるし未来も存在させられる、20周年の時6人が思いを馳せた過去、願った今、望んだ未来の軌跡を健くんも健くんの方法で辿っていくのだろうかなんて思ったりしました。
 本編最後の曲。オープニングの部屋に戻ってきて、スクリーンに映された歌詞を見ながら、最初剛くんへの思いを歌ってるのかと思いましたが、徐々に終わったV6への思いなのかなと感じました。「更新されるV6」としての健くんは、2021年11月1日で区切りがついたんだなと思います。ただこれからはV6の語り手として、V6を解釈すること──V6を経たパフォーマンスだけでなくV6そのものも──はやめないんだとも思いました。そうする限りV6は続く、と言うよりそうすることでV6を存在させようとするのかなと。

 これからも今現在の健くんにとってV6どういうものかを語るし、ある意味過去のものではない、現在完了進行形として続くV6を共に見ていく営み、それはファンと同じ地平に立って見ている景色なのかもしれないし、健ちゃんが健ちゃんとしてひとりで(も)V6を背負う覚悟とも言えるものなのかもしれないなと感じました。

 最後にまた同じ部屋に戻ってきて歌うと、健くんは心のドアを開け放ちます。そこから漏れる、健くんの全身を包むほどの眩しい光は、健くんがこれから立ち向かっていく世界であり健くんを迎え入れる世界でもある、というストーリーを読み取ったところで本編が終わりました。最初は宝箱の中で展開されるV6の曲という印象だったのが、ひとりで立つ三宅健としての物語として幕が閉じられる姿はドラマティックで、意図したのかそうではないのかわからないけれどどうしても拭えない切なさが会場を覆っていました。


 アンコールのクラップをしていると、車を運転する健ちゃんの映像が流れ出しました。そのカーステレオから微かに聴こえる『意味のないドライブ』。これまでライブでもテレビでも配信でも披露されたことがない曲です。

 

 剛くんの歌声が会場に響き渡りました。耳馴染みのある歌声なのに、何が起こっているのかよくわからなくて、思わずええっ!?と声を上げてしまいました。

 ステージに立つ健くんは、マイクを持っていますが構えることはせず、会場に流れる健くん以外のボーカルの入ったオケを背負い立っていました。剛くんのパートの次は健くんのパート、そこを歌い終えると次は岡田さん。サビは井ノ原さん。続いて博。締めは坂本さん。それまで通り、他のメンバーのパートを健くんと一緒に聴きながら、この曲の1番を「V6のボーカル」で聴き終えました。
 まさか剛くんの歌声をステージで聴ける未来が来るとは思っていませんでした。この曲は今回が初パフォーマンスの楽曲だから、ファンの記憶にあるのは音源の、6人の歌声しかありません。そういう曲を健くんに全て更新されると、少なくとも私は、新しい表情を見れたという思いだけでなく、健くんの歌声を聴きながらきっとほかの5人の歌声が脳内に流れてきて、そのことにさみしくなっていたと思います。それを、同じように5人の声が記憶の中から聴こえていることをわかってくれて、一緒に5人の歌声を聴くことで、共に不在の痛みを分かち合うことができるなんて、どうしてこの人はこんなにもファン心理というか心の機微がわかるんだろう?と健くんの優しさに泣きたくなりました。2番から健くんの声で歌われるこの曲は、憂鬱が柔らかく溶け出す水曜日の夜の車内のように、そっと温かいものになっていました。トニセンが最近『水曜日』という曲を出したけれど、それと重ねて聴いたりしていました。

 

 印象的なイントロが鳴り響き始まったのは『Crazy Rays』。ライブで披露されないまま解散してしまった曲で、たぶんV6ファンがライブで見たかった未披露曲ランキング第一位の曲です。この曲を最後に持ってくることがどういうメッセージを届けようとしてくれてのことなのか、本当に愛しかないです。これは私が本当に勝手に思っているだけの話ですが、もしもいつか来る未来があるのなら、この曲を6人で歌ってほしいと願っている曲でした。その日が来るまで歌われることはないと思っていました。それを健ちゃんに歌ってもらえるなんて。
 永遠なんかにキョーミはないけど泣いたのさ。V6が永遠ではなくなった後に歌われるとこれ以上ないくらい残酷な詞に化けるのではと思っていたけれど、どこか晴れやかに聴こえてきたのは、健くんがこのソロコンを通して「V6の未来を見てしまうことを諦めなくていい」「まだ同じ夢を見ていこう」といってくれたからだと思います。「永遠なんてない」と知ってしまった私(たち)に、永遠はないのかもしれないけれど、だからといってV6が過去に遠ざかっていくものになるわけではないんだよ、と言ってもらったようでした。

 

 

 V6のライブは健ちゃんの投げチューが終わりの合図なのですが、それをやっと見れたのが嬉しかったです。最後のgrooveコンは円盤を見れていないのでどうだったかあやふやだし、たしかそういう終わり方ではなかったような気がして、それもあってあのときV6は本当に終わったんだ……とショックを受けたので、「いつも通り」のバイバイができて本当に良かったです。

 

 

 

 このライブを見るにあたり、私の心は2021年11月1日にいました。そこから見る2022年10月31日という未来がどうなっているのか、自分がどうなるかわからなくて不安でした。そういう思いがオープニングのあの部屋だったのだと思うと、マジで健くんファン心理をお見通し過ぎる恐ろしく聡明で鋭いアイドルだし、そして同じくらいV6への思いがあるんだなと知れて、全然傷が癒えていない、未だにgrooveコンを再生できないところにいる自分も、それでもトニセン、剛くん、健ちゃん、岡田さんの活動を楽しみにすることができていて、あの日以降気持ちが変化したことも変わらないままでいることもあるV6ファンでいいのか、と思えるようになりました。解散から1年が経って、まだそれしか経っていないのかと思いながら、とうとう1年が経ってしまったのかと時の流れの速さに切なくなりながら、まだ続いていくV6と共にあろうと思えたソロコンでした。

 

 

 

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 実は直前に行っていました。つい最近見た光景がライブの中で映されてびっくりしたし、この場所が待ち合わせ場所になっていることが改めて嬉しかったです。また会おうね!

 

 

*1:もちろんすべてのV6ファンにというわけではないですし、本人たちからの公式メッセージでもありません

*2:というか健くんの剛くんに対する思いを描いたような曲だと思っている