光を見ている

まるっと愛でる

20230305

 まだ2023年のカレンダーを買っていません。換気扇の掃除もしようと思ってから1ヶ月くらい経ちそう。

 

 もう明日にはトニコンから1週間経つと思うと時間の流れが速すぎる。勢いでオセロの申し込みをして、ド平日を希望したし当たるだろうなと舐めてかかっています(失礼ぶっこき奴)。いや、やっぱ健ちゃんの姿を見たいじゃない…新感線作品はずっと見たいと思ってたし、このタイミングで乗ろうじゃないのと。じゃあなぜトニセンFCで申し込まなかったのと言われるとそれまでなんだけど。
 健ちゃんがジャニーズを離れることは何となく自分の中で納得というか折り合いはついていて、つまり健ちゃんはV6、6人であること、隣に森田剛がいて、岡田准一という弟分がいるグループに所属し、トニセンがいるグループで歌い踊ることがとてもとても大切だったんだろうな、に尽きるのだと思っている。健ちゃんのV6への愛情をソロコンで届けてもらって、あの思いは疑う余地もなく深く強く優しいものだと信じさせてくれたから、ただ健ちゃんが進みたい方向に歩いていってほしい。もちろん寂しいけど、ソロコンを経て、ジャニーズ事務所にソロアーティストとして所属する三宅健を見ることの方がよりさみしさを抱かせるような気がして、健ちゃんを「V6の喪失」を背負わせたフィルターでしか見ることができなくなりそうなのは、健ちゃんの優しさに甘えていることになると思うし、そのことにどうしても申し訳なさが常に付きまとってしまうのは何かどうなんだろうなと思うので、ただありがとうと思う。いつかFCができたときは、今度こそ入ろう。

 

 トニコンから1週間が経ちそうなわけだけど、私はどちらかというと記憶力が悪い方なんだけど、より細かく言うと視覚優位なタイプで、視覚情報で補完されない(できない)状況でする記憶がめちゃ弱なんだろうなという。だから言語だけで、音声だけで説明されてもいまいちよくわかってなくて仕事でミスを多発させるわけですが…頼むから一回やって見せて!!!もうすでにどんな感じで歌ってたかは思い出せないけど、LADY LADY LADYの博の腕の振り付けは映像で思い出せるのでやっぱ傾向、得手不得手ってある。ライブの記憶で言うと、2021年10月の私が参加したgrooveコン、何の曲だったかは全く覚えてないけど、メインステージからセンターステージに移動するとき、花道を奥(私はメンステに向かって右手ブロックにいて、そこから花道を見ているから井ノ原さん、博、剛くんが横並びになって歩いていて、井ノ原さんが嬉しそうに優しい笑顔で博の顔を覗き込み、剛くんも表情こそ見えなかったけど博の顔をそっと見てるんだろうなという感じだったのを未だに忘れられない。ああいう瞬間を見れることがファンだからこその幸せというか、ファンだから許してもらえてるんだろうなと思う。視覚の話から離れるけど、解散の1,2年前くらいから剛くんの飼っているゴールデンレトリーバーちゃんがちょくちょく映るようになったのも、剛くんがプライベートな部分を見ることをファンに許してくれてるんだと思ってて、そのあたりからああ私はV6ファンなんだなと思うようになったな......オタクをする自分への赦しが欲しいというニュアンスではなくもっと軽いものなんだけど、許してもらうって何なんだろうね…それを求めてファンおよびオタクをしているわけではないと思ってるけど、「他人」とはまた違う関係を築かせてくれてるような感じ、不思議よね。

 

 

 また「MIU404」ブームがやってきてレンタルしました。私はいい加減DVDボックスを購入するべき。
 私はあの作品の伊吹藍をAロマの人物であるとして読んでいて、また当然志摩一未もクィアであると思っているのでサイコーに楽しい作品です。伊吹の言う「きゅる」からロマンティック的な感覚を読み取れない(セクシュアル的な感覚は描かれていないだけで何となくある気がする)、それだけで鑑賞の上でだいぶストレスが軽減されるし、さらに志摩と伊吹の関係よ。志摩は反差別でなければならないという意識が透けて見える、努力と学びによって作り上げられた倫理観と、それでも完全に拭いきれないで内側から時折にじみ出てくる「男らしさ」とかホモソーシャルブレンドがすごいいいし、伊吹はAロマ的、かつASDADHD傾向のある感じ、知識というか認識の軽薄さ(これは善意の差別者的な自分の態度と重なってしまう感を意味する)がどうしても自分と切り離せなくて≒まったくの他者として鑑賞できなくて、そのふたりの関係を見るのが楽しいです。

 私が自分のアイデンティティとして「女性じゃない」「Aジェンダー」を獲得したのはここ半年くらいのことだけど、そのずっと前から言語化されずとも感覚としてはあって。ずっと「女性」というアイデンティティを自分に割り当てられるのに違和感があり時に苛立ちや苦痛も感じて、だから「フェミニズム」は自分のものではない、というか私がそれを引き受けていいのだろうか、それは私のものなのだろうかという思いがあり(正直その思いは今も完全には拭い去り切れていない)。そして、私自身のアイデンティティの引き受けとはまた違う範囲の話で、趣味として受け取るものでも、「自分と近いけれど、どうしたってやはり自分はそれではないもの」として、女性同士の絆や連帯を描いた作品にあまり興味関心を持てなかった、遠ざけておきたい感覚があるんですよね。現実のホモソーシャルは大概最悪でしかないけど、作品として鑑賞したり批判したりこねくり回したりすることができるそれは私にとっては娯楽になるんだな、と思う。女性じゃない、というアイデンティティは=男性であるとは結び付かないので(この社会はそんなにバイナリーにはできていない、そのことに気づくのにもだいぶ時間がかかったけど、あまりにもあらゆる社会制度が性別二元論を前提として設計されているから、そこから外れる人間がおのれのアイデンティティを獲得するのはすごく難しい。さっさと性別二元論はくたばってほしい)、女性よりも明らかに「他者」である男性同士の関係を描いたものは、安心して鑑賞者である自分の立場から遠くにあるものとして見ることができるから好き、というのもあるんだと思う。私はめちゃハマったジャンルで二次創作を書いてきた人間なんですけど、過去描いていたのは全部男性で、やっぱり男性は私にとっては完全に「まなざす対象」だからこそできてるんだろうなと思う。女性を扱うとフィクションとノンフィクションが入り混じってやりたいこと、願望をうまく描けない気がして…シスターフッドを扱った作品を見るとどうしても、そこに私と近い人間の生きる希望と私はそれではないのに社会は私に「そう」であると要請している(わたしは「そう」ではないのに)という苛立ちが湧き上がってきて、その葛藤を楽しむ余裕はねえので......と遠ざけてしまう。当然のことだけど、この苛立ちを女性たちにぶつけるのは間違いであり、一番の敵は性別二元論です。バイナリーな規範に苦しめられながらバイナリーであるという前提で趣味を展開し、愛好し救われるって何??と自分に嫌悪することもあったけど、それも全部性別二元論、女か男か、という前提が違うんじゃん!?と理解してからは楽になった。でもレドベルのQueendomがすごい大好きで支えられたと思ってきたのに、Aジェンダーアイデンティティを獲得した後に聴いたら「それは私のものではない」となってしまって、そう思うことがすごいショックでしばらく聴けなくなったんだけど、それだってQueenがKingと対立する概念である、という段階の社会がアレなんじゃん!?でもやっぱ今も聴くとさみしさがある。何の話?

 ともかく、まなざす側、鑑賞者の立場として見たとき、私にとって男性同士の関係はわかりやすく他者のものだからある程度の気楽さで、娯楽として楽しめるんだと思う。ジャニーズが好きなのもそういうのと関係している。他者のアイデンティティを私が知った気になるとか決めつけるとかはとても乱暴な行為だけど、しかし「男性(たち)である≒私とは完全に違う属性であるという前提」に安心して寄りかかれるところもあるし、ファンおよびオタクとして好きでいられるところもあって、割り切れねえなと思います。

 

 本日16時に起床した割に、起き抜けにミカンを食ってビタミンを摂り、酒を買ってきて飲みながら弁当用のおかずを4品作り、辛ラーメンを作って食い、風呂に1時間以上入ってまた酒を呑みながらブログを書き寝るまでの1時間何しよっかなMIU404見るか消えた初恋のクィアリーディングの続きするかな~(つまりどっちを見てもAロマ的な作品を見ることになる)って、怠惰と充実感が同居してて最高の休日なのでは...?確かオセロの当落今週だから楽しみだし(当たる前提のお気楽野郎)、2日働いたらまた休みだから、火曜日の夜はマフィン作って、水曜日はトニセンの水曜日聴きながら好きな服着てファミレス行ってケーキ食いながらトランスジェンダー問題を読み切って、みたいな小さな楽しみで今週も生きながらえていこう、という感じ。働き始めて1年になろうとする現在、仕事に楽しみを求める働き方がそもそもあんまり向いていないというか、仕事を生きがいにできるほど器用にできてない(目の前の情報だけで生きているので、帰宅したら家モードにリセットされ仕事のことは頭から9.8割くらいは抜ける)ことに気づきました。便利な脳なのかもしれない。引きずりそうになるからこそ、職場から離れたらもうどうにもならねえから忘れろ!切り替えろ!と唱えながら帰宅する努力はしてるけど、今はそれができているからいい状態でやれてるんだと思う。仕事、嫌なことも当然あるけど完全に苦痛というわけでもなく、みたいな距離感で、なるべくその感じをキープしたいというのが今のところの願いだな…淡々と過ぎていってほしいんだよね。大きな喜び、それと対応するような大きな悲しみみたいなのに感動ではなく疲弊を覚えるタイプだから…そういうのは趣味の方で得たい…ジェンダーについても仕事についても、それらの規範に適合しない(ジェンダーはバイナリーである、仕事は生きがい求められるようなものでなければならない)ことに戸惑いや劣等感のようなものを全く感じないわけではないのが正直なところだけど、だからこそ意識してそこから離れなけれなならないというか、そうしないと私が生きづらくなるだけという利己心を働かせなけれなばならないよなと思うわ…それを利己ではなく、アイデンティティとして受容できるようになったときまた違うようになるのかな…