光を見ている

まるっと愛でる

きっとそれも暴力(「大暴力」第四話感想)

 

 いや〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(さまざまな感情がないまぜになった鳴き声)

 

 

 前回で「愛の酷薄」は一旦区切りがつくのかな、好きな話だったから寂しいな、なんて思っていた私が間違いでした......物事はそうあっさり切れていくものではなかったし、暴力はそう簡単に消えてくれるものではなかったです。

 それなりに自己顕示欲を持ち合わせているので単純に前回のブログが思っていた以上に読まれたのは嬉しかったですが、それと同じくらいあんなに偏った読み方をしたものがこんなに読まれちゃってどうしよう...という気持ちがあります(手法として間違った読み方だとは全く思っていないですが)。それもこれも、クィアリーディングが可能な面白い作品を作ってくれた作家さん、グレショーにこの作品を持ってきた方に感謝。今週もまた観終えてしばらく「榊............」しか言えなくなり、踏み込まれたくないところが抉られる快感に悶えておりましたし、「最悪!!!」という喝采を叫びました。投げたブーメランがちゃんと自分に返ってくるところまで含めて最悪(喝采)。

 ということで前回に引き続き、グレショーで演じられた「匿名劇壇」の「大暴力」第四話の感想やら考えたことやらを書いていきます。例によって全体の流れやストーリーをまとめてという形ではなく、「榊遊詩」という人物にめっちゃくちゃ肩入れした、部分的なところにばっかり着目したクィアリーディングっぽい読み方をしています。また、前回勝手に立てた仮説に則って色々考えてしまうので、本来の意味や意図とずれている部分もあるかと思いますが、ただの私の感想なので!あと当然のごとくガンガン内容に触れていくので、まだ見てない方はまず今週分だけでも!見て!

 

signko.hatenablog.com

 

 前回書いたやつです。読まなくても今回のブログの中で榊の仮説について説明は入れていますが、なぜその仮説に至ったかの経緯は第三話の流れでの方がわかりやすいかなと思うので、お手すきの際にでも読んでみてください。8000字になってしまったやつなので、バシバシスクロールしてくださいね...

 

 

 

 

「これはまだ本番ではない」

 

 いやいきなり「愛の酷薄」が出てくると思います???まだ全然引きずってるのに、それをまさか榊の口から聞くことになるなんて思ってもいなかったです。思わず一時停止してしまった。
 榊、ナット、高本、安堂、三城平がいる空間(楽屋か控室か)で、榊が「愛の酷薄」の台本のあるページを指差し、口を開きます。なぜ『何だよ、それ』と言われなければならないのか、手紙を受け取ろうとすることを咎められなければならないのか、意味がわからない。欲しいと言っているだけなのに、なぜ「高本」は渡さないのか。榊の問いかけにナットは「傷つくからやろ」と答えます。この言葉に対し榊は「わかる?」と投げかけます。このセリフ上手いな〜と思いました。私は「へえお前はわかるんだ?」という確認、自分との差異を観客に示すためのセリフだと感じましたが、「わかる?俺もそう思う」という同意としても機能する言葉として読むことも可能で。同じ言葉で反対の意味の可能性を込めることができるセリフをここにぶっ込んできたことで、答えを簡単に出さない読ませ方ができるのだな〜と。

 榊は「(ナットは)告白したことあるん?」と、まるで自分はその経験があるかのような口振りでナットに問いかけを続けていたのに、「榊はないん?」と聞かれると、ふざけた調子で同意と誤魔化しが曖昧に混ざり合ったようなポーズ(口を尖らせニヤッと笑い、ごく軽く頷く)を取ってみせる。ナットに追求されると「トイレ行こーっと」と、またふざけた口調で交わし立ち去っていきます。そして残されたナットは、先程までの明るさの仮面を剥ぎ取り、「マジで興味ない」と乱暴に言い放ち、高本は会話を続けようとしたナットを労います。

 なぜ『何だよ、それ』と言われなければばらないのか意味がわからない、と言う榊に対し、高本が「意味わからんとか言わんときましょうよ」とやんわり咎めるシーン!!!同調圧力の暴力!!!となりました。私は完全に榊をAロマの仲間として*1肩入れしてしまうので、わからないものをわからないと言って何が悪い・(結局榊は黙らず疑問を表明し続けたけれど)それは榊の口を封じる言葉である・よりによってあんたが言うんかい暴力が加速するじゃん!!!という感情の三本立てでした。「最近遊詩くんヤバいよ」というセリフがさらに高本の無神経な暴力を加速させてて...最悪!!!

 

 どうにかして自然な感じの会話をつなげて嫌な空気にしないようにする心配りは神経を使うし疲れるというのはもう新入社員研修で体感しまくってるのでナットの気持ちもよくわかる。で、榊に興味がある感じを装う、言葉を選ばないでいうと榊のご機嫌とりをするような雰囲気(周囲にはその雰囲気が伝わっているし、本人がそれに気づくこともままあるやつ)だなと感じたのですが、ふつうにナットは榊のこと嫌いそうなのに何で興味がある振りしてたんだろう...リーダーのような、「立場の違う役」という設定あったっけか...?それともグループのエースとかカリスマ担当...?カリスマと孤高と孤立は完全一致せずとも遠からずのものだよな...それをアイドル「グループ」に演じさせるのエッグいなあ...と思いました。そういう姿を見せなくてはならない彼らにとっても、仲良さそうな空気感や人間関係の行間を楽しんで消費している観客である私(たち)にとっても。

 

 

 

 

 

 

 

 では、ここから前回立てた仮説、「もしかして榊はAロマなのでは」という解釈を基としてこの物語を読んでいきます。*2

 

 この物語で描かれる暴力は、いくつかの要素が絡まり合うことでその姿が浮かび上がってきます。まず、榊とそれ以外の4人の関係です。直接榊と会話をしていたのはナットだけでしたが、高本も、安堂も(そして「愛の酷薄」の「高本」も)、その場での会話には加わらずともナットの言葉を否定することはありません。(そしてナットと高本につっかかった三城平は、会話の内容やへというよりふたりが陰口を叩いていること自体に苛ついてるっぽいのが何とも言えない狂気を出していていい)ナットと高本の会話、否定しない安堂と三城平によって、榊と4人の間には「わかる/わからない」という見えない境界線が生まれます。*3非常にシンプルな、マジョリティ/マイノリティの構図です。これは私が榊を贔屓してるからそう見えているのだと言われたらそうなのか…という話ですが、榊があの場で空気に気づいていなさそうに見えるのが切ないんですよね…セクシュアリティがばれるくらいなら単に空気が読めてないように演じた方がいいという感覚、身に覚えがあって…
 次に、「これはまだ本番ではない」の途中で舞台上から退場した一方、恋愛がわからない(らしい)榊が「理想と現実と現実」「愛の酷薄」、そして第四話の作品である「優しいひと」といった恋愛(に関わる暴力)を描いた作品に登場している(登場させられている)ことです。あくまで私の考えですが、Aロマ(かもしれない)の人間を恋愛の文脈で登場させることは、それ自体が暴力性を帯びている行為であり、同様に、物語に(わざわざ)出しておいて中盤で退場させるのも暴力だと思っています。ただ、恋愛感情がわからないことを描くには恋愛の文脈の中にその人物を置いて周囲との差異を描く方法が最も伝わりやすいため、物語の中での取り扱いは難しいのだろうなということは理解しているのですが、なぜマジョリティの規範にこちらが近づかなくてはならないのかという思いはありますし、せめて暴力を暴力としてきちんと描け!!!と色々な作品に腹を立ててきました。それが今回タイトルからして「大暴力」ですからね。素晴らしい。自分がAロマだからというのを置いておいても、恋愛は楽しいハッピーなものという暗黙の了解であらゆる暴力が曖昧に存在することを許されてきたヤバいシロモノだと思うので、無邪気に描かれてもあんまり...というか、ヤバさを描いてこそでしょと思ってるので…
 登場の持つ暴力性は、マジョリティ側に寄り添ったルールが運用されている環境に放り込まれ、傷つけられるという「暴力との遭遇」を素朴に、ありのままに描いたものとして表れることが多いです。一方退場の暴力性は、「恋愛があることが前提の世界で、それがわからない人は存在することができない、存在が想定されていない」メッセージを発するという、制作者の差別意識の表れとして出てくることが多いです。大体のAロマを扱った作品はここまでで終わり、「結局お前らも高本と同じだな!(自分の暴力に気づいていないの意)」という気分にさせられるのですが、「大暴力」というタイトルとそれが観客に示す前提──この作品で描かれるものはあらゆる場所に暴力が潜んでいるというメッセージ──、そして次の『Singin' in the Rain』まで含めて観ることで、それらがきちんと暴力として昇華されたと感じました。

 そして最後の要素が、「手紙を受け取ろうとすることが暴力だ」「高本の好意を理解しようとしていない」のような感想が現れることだと思います。
 あの場で確かに榊は雰囲気を壊しており、キャラクターとしても輪を乱し、高圧的で自分の意見を曲げようとせず、どこか周囲から腫れ物扱いされている、端的に言って嫌な奴でした。(次回予告で三城平と言い合いになり、止めに入った高本をうっかり殴ってしまい三城平に怒鳴られる、というカットが映っています)空気を壊す暴力、相手の感情をおもんばかろうとしない暴力、実際の暴力も振るっているというまさに暴力の象徴のようなキャラクターです。しかし「愛の酷薄」を観て感じたことは変わらず、やはり私は榊の手紙を欲しがる行為や「ゴミじゃない」という言葉、最後の「ごめん」は、暴力ではあるけれど「そうせざるを得なかった」という枕詞がつくものだと思っています。その暴力は咎められるものなのだろうか?本当にその感情はわかっていないと、もしくはわかろうとしなければならないようなものなのだろうか?わからないことは悪なのだろうか?それらを暴力とすることの方が私には暴力的に映ります。榊をAロマと解釈し、Aロマである自分がクィアリーディングをすることで私情に引き寄せて読むことでの偏りは生まれていると思いますが、その偏りだって私にとっては歪められていたものを元に直そうとする行為であり、それを暴力だとする人がいるのか…というショックがあります*4。そして私のこういう感想もまた誰かにとって暴力として機能するのだろうなと思うと、総合して豊かな気持ちになります。

 配信されたことでより多くの人が観れるようになり、通常のシチュエーションの舞台より感想や共感が拡散しやすくなることで、あの作品を語る上で(加害する側/被害を受ける側といった立場の違いはあるけれど)何を言っても「暴力」からは逃れられないため、それらを目にし、共感を示すことで作品の中で描かれていた暴力が、「観察する暴力」から「みんなの暴力」としてこちら側にも侵食してくる感じ、どこまで意図されたものなのかはわかりませんが、ここまで含めていい作品だなと思いました。作・演出である福谷さんのnoteで、これらをすべて暴力だとカテゴライズし出しているわけではなく、あくまでその行動が観た人に判断は委ねられている、というようなことを書かれており、そう言われると私自身が「大暴力」というタイトルに引っ張られ過ぎているところがあるのかもしれないと思いましたが、それでも私はこの作品からめちゃくちゃ暴力の存在を感じ、しかもそれらが丁寧に描かれるというか、白日の下に晒されていることが快感だし面白かったし嬉しかったです。

 

Singin' in the Rain

 

 「時計仕掛けのオレンジのオマージュだ」というツイートを見かけて、おお聞いたことあるやつ!と思ったもののざっっっくりしたストーリーしか知らなかったため(『雨に唄えば』はV6の『Swing!』に出てくる曲&坂本昌行→「TOP HAT」→フレッドアステアという流れで知っていた)、ストーリーをおさらいしどういう場面であの曲が使われているのかを調べました。まんま(性)暴力、加害のシーンで使われているんですね…

 あまり「時計仕掛けのオレンジ」の内容を知らず、また「これはまだ本番ではない」の流れで上演されていたこともあり、これは「狂気(とされるものとどういるか)」でもあり「榊の怒り」という暴力なのかな、と感じました。怒りが破壊行動という例で表に出てきた感じ。そして、「どこから加害になるのか」というメッセージでもあるのかなと。あの作品を観て、電車や信号待ちをしているときに唸り声をあげている人と遭遇した場面を思い起こしました。唐突に目の当たりにし、自分に矛先が向かってきたらどうしようという怖さ、怖さを覚えた裏にある自分の無知と差別意識と直面させられる居心地の悪さで、立ち去ることに罪悪感を覚えて自然にそこにいようと意識してしまう、あの感覚ととても似ていました。そういう恐怖と、反応としての(自己)嫌悪感に加え、「これはまだ本番ではない」の流れを汲んで、あの場にいられなくなった榊の怒りの心情表現のようにも見えました。赤と青のブロックをじっくり楽し気に破壊し恐怖を与えているけれど、その怒りは悪か?存在を許されないものか?という問いかけをしているようにも見えました。「時計仕掛けのオレンジ」の文脈での「狂気に対する恐怖とどう向き合うか」、「榊の怒り」の文脈としての「その怒りは暴力なのか、咎められるものなのか」、そして末澤くんの華やかなパフォーマンスと存在感とが渾然一体となり、色々な意味で目を離すことができない鮮烈な魅力を放っていたシーンでした。

 そして「榊」から「末澤くん」に移り変わっていくあの表情が!今回も!いい!!!シンプルに好きだ.................という感情が湧き上がってきました。

 

 

 

優しいひと

 

 ストーリーとしては「愛の酷薄」と同様【榊の登場する恋愛を扱った作品】なんですけど、正直わけがわかりませんでした。物語の意味わからんとかではなく、基本的にあらゆるラブロマンスも別れ話もどんな感情のやり取りや動きがあるのか(起こりうるのか)を私がよくわからない、というやつです。共感だけに価値を置いているわけではないので、わからないからつまらないと切り捨てることはない(ように努力している)けれど、そもそも恋愛を扱ったフィクションもノンフィクションも楽しまない方のAロマでいて困ったこともないので、別にわからないままでいいわ、という感じです。「公野」で検索をかけてみたら解像度の高い感想がかなり見られて、「へえ~そういうことなのね…」となりました。体感として、古文の解説を聞いている感じでした。それそういう意味の単語(セリフ)だったんだとか、その語(セリフ)ってそこに掛かってたんだというような、部分だけ理解したけど文化の違いで全体を掴むのは難しいみたいな。

 わからないので、【「優しいひと」で「榊」を演じている榊】について考えていたのですが。榊にこの役をやらせるのが暴力だなあと思いました。ある意味マジョリティに擬態するという本来しなくてもいいことをしているわけで、その上で「榊」の感情をあんなにリアリティある演技で表現できるのがすごいな~榊…と。「優しいね。優しくてすごく自分勝手」を榊が言うのとか、何かとてもしんどくなりました。あれは「公野」もだけど、「榊」にも返ってくるというか、むしろお前だろというまなざしを生み出すセリフだと感じたのですが、無自覚な暴力を振るっているのは「愛の酷薄」の「高本」と同じじゃん…榊……

 

 「優しいひと」は、「恋愛がわからないので本筋がわからない」という開き直りのもとストーリーを読むという関わり方をしてきたのですが、これって「愛の酷薄」の「榊」と同じような態度なんですよね。果たして私のこの行為は何なのか、書きながら考えていました。一体何なのでしょうね。

 

 

 挟む場所が見つからなかったので唐突にここに書きますけど、この「大暴力」というフラッシュフィクション作品を第一話から観ていくにつれ、初めてみるのになんとなく既視感のようなものが生まれてきて、なんだろう…と思ったらLil Nas Xの『INDUSTRY BABY』だったんですよね。もちろん全くの別物ですけど、暴力が積み重なっていく感じとか、暴力だけどでもそれを私が咎めることができるのか?という感覚を引き出す感じとか(あとクィアを示唆するシーンがあるとことか)。

 

www.youtube.com

 

 

 

 次回予告で映った場面もまあまあ修羅場だったし、ここまで書いていていわゆるハッピーエンドに向かうのもあまり想像できないし、ハッピーエンドの型にはまらずどうか大暴力を突き進んでくれ!!!と願っているので、来週を見届けるのが楽しみです。そして面白いからまずはグレショーを観てくださいという前回同様の布教を以てブログを締めたいと思います。ありがとうございました!

 

tver.jp

 

 

 

 

 

 

 

*1:sexual orientation はわからないというか見えてこない...と思っていたら、福谷さんのnoteでヘテロロマンティックということが示されましたね...でも高本に言ってないだけ、というのも十分あり得ると思ってます。高木をどのように信用していたのかは謎だし、そういうふうに行間を読んでいくのが楽しいのよ

*2:Aロマンティックについてはこちらのサイトを読んでみてください

「アロマンティック」とは何ですか? 定義は? | AセクAロマ部

*3:つい最近「こどもの一生」を観てきたので、「全員知っている共通の話題」がどれだけ乱暴に機能し、どんな悲劇をもたらすかということがより恐怖を伴って伝わってくるんですよね…山田のおじさ~ん…

*4:だからと言ってそう感じる個人を否定する気はないです。するとしたらその根底にある社会規範です。ただそれらが私にマイクロアグレッションとして機能している側面は確実にあります