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エンターテイナーの孤独と愛の邂逅 〜『THE BOY FROM OZ』感想②〜

 

 私の千秋楽が終わってしまいました......次いつピーターに会えるかわからないのがすでにめちゃくちゃ寂しいです......

 マジで好きすぎて、感想文を書く手が止まりません。ということで前回同様、『THE BOY FROM OZ』を観劇して考えたことを書いていきます。私の壊滅的な記憶で書いているので事実と全然違う!ということが発生していると思いますが、どうかただのオタクの感想文でしかないということを念頭に置いてお読みください!!当然のように内容に触れていますので、ネタバレご注意ください!あと曲タイトルですが、今手元にパンフがないため2003年のサントラのタイトルで書いており、タイトルが違う!みたいなことが発生しているかもしれませんが、ご了承を。

 

 

 

オーストラリアからリオへ

 最初は気づかなかったんですけど、1曲目の『The Lives of Me』、煌びやかに跳ねるイントロに反してすごい切ないメロディと歌詞なんですよね。まるで、ピーターの人生は切なさから始まっていると示しているような。この感覚がピーターをよく説明しているな、と感じたのですが、そういうピーターの人生の側面を強く感じたのが、『I Still Call Australia Home』です。

 このナンバーは、グレッグが去り、ディーが去り、そしてライザが去っていったあと、ピーターがひとりで歌い始めると、後ろに大勢の街の人々がコーラスとして入り、とても迫力をもって響いてくる曲です。「故郷はオーストラリアだけ」と何度も繰り返されるフレーズが印象的ですが、曲が盛り上がるほどどこか切なくなってしまう曲でした。

 ピーターにとって故郷、オーストラリアは、どうしても息苦しさを感じ出ていくしかない場所であり(マリオンに結婚でも孫でも見せて、と言われ、「...死刑宣告だね!」とすっきりした顔で言ってみせた姿にめちゃ励まされたし、そういう感情が爆発したのが『Not The Boy Next Door』だった)、どうしても安寧を求めてしまう場所でもありました。小さくて、古臭くて、保守的な慣習に支配されていて。それだけでも、煌びやかなスパンコールとスポットライトを求めたピーターがそこに留まることができない十分な理由に思えますが、ピーターが故郷に戻ることができないのは、そこがピーターの孤独の原点だからだと感じました。

 幼い頃、自分で稼いだ自信の象徴であり愛するママを喜ばせてあげられる自己の価値の象徴でもあるチップをパパに渡してしまったとき、ママに言われた「心の中にしまっておけば、ずっと自分だけのものにしておける。誇り高く、微笑んでいるのよ。」という言葉(私の記憶力の問題でニュアンスです)が、良くも悪くも、ピーターのエンターテイナーとしてのプライドになり、そして悲しみや孤独を表に出すことを嫌うように、できないようになってしまいました。正直そのセリフを聞き、「なんつー酷なことを言うんだ...」と思いました。その言葉によって幼いピーターは、パパが自ら命を絶ってしまった悲しみを胸の中に閉じ込め、そのことが彼の人生にずっと影を落としていました。ジュディとバーで話していたシーンで、ピーターが「...ガキの頃辛い経験をして、」と切り出したとき、ジュディは「私の前でそんなこと言う?」と、結果的に、やっと語ろうとしたピーターの孤独を再び彼だけのものにさせてしまいました。あのとき言えていたら。孤独を分け合うことができていたら。故郷を離れた異国の地で、本当の自分を見せることができていたら。彼の人生は少し変わっていたのかな、なんて思いました。のちにライザに言われた「私たちは本音で話すことができない」というのも、あれだけピーターはライザを愛していて、きょうだいのような、ライザの望んだ形ではなかったかもしれないけれど確かにライザもピーターの愛を感じていたはずなのに、ふたりが愛し合っていたはずなのに孤独だったのは*1、ピーターが本当の気持ちを話すことができなかったからで、その理由には少なからずママの言葉の存在があるのだと思います。悲しみを語りたくなかったから語らなかったのか、悲劇と捉えられ、悲しい気持ちにさせることを嫌がったゆえに語れなくなったのか、本音を語ることをあきらめていたのか。実際はわかりませんが、ピーターのあっけらかんとした語り口は、そういうところからきているのかもしれません。

 もちろん、孤独はピーターのものだけではありません。ジュディは孤独であったけれど、孤高な存在でもあり、孤独すら従えているような、彼女にしか出せない力強さがありました。また、初めてピーターと初めて会った香港のバーで「今の私を愛してくれるのはファンだけ」というようなことを呟いており、この物語の中でもかなり明確に「ファン」の存在や愛を感じることができる強さを持った人物だったのかなと思います。1幕の終わり、「ストーンウォールの暴動」でジュディのことが触れられていますが、ジュディ・ガーランドは現在もクィアコミュニティに大きな影響を与える人物であり、彼女を愛する人々は、史実を交え語られることで確かな存在として感じることができます。

 ライザは、ジュディへの複雑な感情、ピーターへの複雑な思いがあり、ジュディを喪ったことがきっかけとなりピーターに別れを告げました。彼女の人生もまた孤独でしたが、ライザはどこかジュディとに似ているところのある、ステージの上至上主義のようなところがあり、孤独より何よりステージの上に立つことが生きがいのような人だったのかなと思いました。ライザのソロナンバーの詞がそれを代弁していましたが、ステージの上には音楽がそばにあれば他には何もいらない、というような人だったのかなと思います。そしてそのそばには、いつも沢山の、まさに「家族のような」仲間がいて、彼らに囲まれてパフォーマンスをしていました。「ライザ!」のコールが象徴的だったと思いますが、ライザの周囲にも仲間がいたと、ライザ自身が感じているということだったのかなと思いました。

 そう考えると、実はピーターは自分のファンの顔を見ていません。正確には子ども時代以降、栄光を手にしてからの時代、ステージ上でピーターの周囲にはファンが描かれていませんでした。彼のそばにはアレン・ブラザーズの片割れ、クリスがいましたし、それこそジュディやライザ、グレッグ、ディー、たくさんの共演者、関係者、そして彼の口からファンの存在も聞くことができました。しかし、彼が物語の中で語り掛けるのは、いつも客席にいる私たちでした。そこには時代の隔たりがあり、あくまでもピーターが語り、見せているのは彼の過去に起こったことです。沢山の人に囲まれていたようで、心の内はいつもひとりだったことの表れなのかな、と思いました。

 そんな中で、時折客席に向かって、観客以外に語り掛ける存在がいました。ママです。ママとは、顔を合わせていなくても、距離があってもまっすぐ話すことができる。愛されていることを疑わなくてもいいし、思いっきり愛することもできる。でもママの元に、オーストラリアに帰ることはできない。そこでは本当の思いも心の中にしまっておかなければ生きていけないから。大切だけど苦しくて、でもどうしたって心にある場所、彼のエンターテイナーとしての原点、オーストラリア。

 ピーターは、人生の終わりを原点や彼の手にしたプライドのみに従うのではなく、全てを連れて孤独を抜け出す道を選びました。それがエンディングの『I Go To Rio』につながります。リオは眠らない街、いつまでも明るいままの、終わらない夢です。そこには真っ白の衣装、華やかなスパンコールに身を包んだ、みんながいました。オーストラリアに別れを告げて孤独に生きることを選んだのではなく、そこにある全てを持って皆を自分の夢に先頭を切って連れて行った姿に、ピーターの愛した人々、彼らの人生もピーターの愛に照らされ、その輝きを見せてもらっているのだと感じました。

 

 

 

クィアな欲望が描かれること

 まず『Bi-Coastal』が最高のナンバーすぎるのよ!!!あまりにもクィアバイブス丸出し、クィアカルチャー知らない人を完全に置いてけぼりにしてるんじゃないの?なパフォーマンスで、あの曲を会場で誰よりも楽しんだ自信ありますし、うっかり「GAY!!!」と叫びたくなりましたもん。*2ピーターにグレッグという恋人がいるということ、キスシーンがあることは観劇前から知っていましたが、ピーターがライザとの家にオトコを連れ込んで遊ぶシーンまであるとは思いませんでした。あのシーンよかったですよね...シンプルにオタクの魂の方が滾ったのも大いにありますが、ひとりのクィアとして、クィアな欲望、(広義の)私(たち)のためのような欲望の存在が物語の中で描かれるのって、こんな楽しいんだと思いました。例えばボーイズラブはBL文化として盛り上がりがあり、それが同性愛コミュニティとコミットしているという見方もでき、またそのような現実もあります。*3しかし、前提としてこの世はまだまだ圧倒的に異性愛主義に強固に支配されており、異性愛以外の愛の形は、大体隠される欲望です。*4ただでさえ絶対数が異性愛と比較して少ないのに、それが隠されてるんだから、見つけるのにはまあまあ労力が必要なんですよね。それが今回、舞台という生の現場で出会えたこと、それだけでラッキーでした。しかもそれがジュディ・ガーランドを描き、そして「ストーンウォールの暴動」との関連まで描かれるなんて。こんなに直接的にLGBTQコミュニティに関する人物の話だったとは思っておらず、先人へのリスペクトの思いと、明確にこの物語は私のためのものなのだという思いが湧き上がってきました。(ジュディ・ガーランドはなぜゲイの人々から支持されたのか?)マジでピーターやグレッグ、ジュディの示した希望を続けていくためにも、参院選で性的マイノリティの権利を守る意思、政策を掲げている党に投票しようねみんなたち。7/10だよ。

 また、性的マイノリティを描く際によく起こる「物語からの不幸な退出問題」(と勝手に私が読んでいる)現象もピーターに降りかかることはなく、そこもストレスを生まない理由でした。厳密に言えばグレッグはエイズで物語から去っていきましたが、しかしゲイのキャラクターを主役に置き、そして彼が自分の人生を語るスタイルを取ることで、悲劇の渦に翻弄されるかわいそうな人物ではなく、ピーター自身が語ることを選んだ話、そしてその言葉や歌からどうしても溢れてしまう悲しみややるせなさ、別れがあった、という態度がとてもよかったと思います。辛いことがあってもそれを悲劇にするか、自分の望む終わり方にするか、ピーターが選ぶことができるということは、私の人生もそうであるということです。そういう意味でも、私に必要な舞台でした。

 

 

 

リトル・ピーターとの巡り合い

 一幕で描かれた、リトルピーターが初めて稼いだお金をパパに渡してしまうシーンは、二幕の終盤の方で再び登場します。そしてそこでは、冒頭にはなかった「その後」まで描かれます。ママは子どもの頃、サーカスに入りたかったこと。ピーターの音楽好きはパパ譲りであること。エンターテイメント、ショービジネスが家族をつなぐことができたかもしれなかったこと。それを戦争が奪っていったこと。


 「やめて、パパやめて!」。あの悲痛な叫びは、リトルピーターが心の中に閉まっておくしかできなかった言葉であり、リトルピーターがいたからこそ、ピーターが初めて言えた本音でした。本当は直接言いたかっただろうし、去って行く背中を追いかけたかっただろうし、止めたかったはずです。エンターテイナーの仲間としてもつながることができたかもしれないパパに、エンターテイナーとして認められて、褒められ、愛されたかったでしょう。

 そうすることができなかった経験が、ピーターに遠ざかっていく人の背中を追いかけることを諦めさせるようになり、それによって周囲の人々は「自分はピーターに愛されていない」と感じ、ますますピーターは本音を心の内に留め、人に話すことができなくなり、誰かと居てもいつもひとりでいるような孤独*5を抱えていたのでしょう。「愛していると言えばそれが本当のことになると思ってるの?」とライザに問い詰められたり、「あんたは自分のことしか考えていない」「現実と向き合え」とグレッグに諭されたりしていましたが、愛しているのに、その人たちの方が皆自分の元から去って行く経験を繰り返したら、他者を愛することへの無力感を感じ、ありのままの姿でいることから逃げたくなるのも無理はないんじゃないだろうかと思います。その苦しさに耐えるために、本音を話すことを避けてきたとして、誰がそれを咎められるでしょうか。

 

 ふたりはこの舞台で巡り合い、互いに初めて心の内を分け合うことで、それぞれの孤独を癒すことができたのかなと思いました。それを表していたのが、冒頭でバーで踊るリトルピーターのことを見つめ、音に合わせて小さく踊るパパの姿を見つけ、はっとした表情でゆっくり、そっとパパの方に近づいていくピーター、の場面です。あの場面で毎回泣いてしまいました。あの光景は、リトルピーターがいて、ピーターがいなければ叶わないものでした。リトルピーターが歌い踊り、それをパパが見つめ、「悪くないな」と褒めてくれていたことをピーターが知ることができたことで、ようやく彼の胸のつかえが取れ、救われたのだと思いました。

 

 

 

 

エンターテイナーの孤独と愛の邂逅/坂本さんがピーターを演じたこと

 本当に、舞台中たったの1秒も、坂本昌行だと思いませんでした。*6そこにいるのはピーター・アレンでした。私はピーター・アレンがどういう人だったかをこの舞台でしか、坂本さんが演じたピーター・アレンしか知らないけれど、坂本さんにピーターが乗り移っているのだと心から感じ、信じさせられました。そのあまりの重なり具合に、どうして坂本さんは、誰より愛されたいのに誰よりも愛を与えてしまい、それを受け取ってもらえず、もしくは不可抗力で失ってしまう経験を重ねてきたゆえに愛に挫折し、どこか諦めを抱えている、愛を信じきっているわけではない、だけどやっぱりいつも愛を求めている役を、あんなに説得力を持って、ピーター・アレンとしてその姿を信じさせることができたのか、観終わってからずっと考えていました。

 ピーターは、愛を与えてほしかった人から愛を受け取れず、そしてその人を失ってしまうことで孤独を感じていました。そしてその心の中の孤独を癒し、肯定したのは、他者ではなく自分自身でした。それはまさに「君を救えるものは 君のたましいだけ」であると思うのですが、それだけでなく、どこかで他者に愛されること(で救いを受けること)を諦めていたのではないか、と思いました。

 

 

 V6の25周年ライブで印象に残っているのが、無観客配信ライブでのファンからのサプライズ動画*7を見ての、「25年アイドルでいることは、25年大勢の人に愛される自分たちでいようとすること」「(それは)俺らにしかわからないと思っていることとかもあった」という岡田さんの言葉です。この言葉に、なんとなくピーターの求めた「愛」観、そしてピーターが抱える孤独と、それを生む理由のひとつである「諦め」と近しいニュアンスを感じました。

 「愛される自分でいようとする」ことは、愛される姿であることを目指すべきというニュアンスもありますが、そう望まなければならない、そうでなければ存在することができないとも読めるような、どこか宿命のようなニュアンスも感じられるような気がします。そして「愛される自分でいる」ではなく「いようとする」ということは、アイドルである限りそれが叶うことはない、アイドルである限りずっと愛されたい全てのものから愛されることが(でき)ないという孤独が付きまとうのかもしれません。アイドルとして生きることは、大勢の人に愛されるというだけでなく、ある意味そうである限り愛されたいという欲望を追い続けなければならず、そうであるほど孤独から逃れられない人生を送ることと同義なのだと。そこになんとも言葉にできない切なさを感じました。

 そしてそれは時に、彼らを愛している(愛してきた)のにそれを気づいてくれないという思いや、届けてあげられないのだと感じるファンにもまた孤独をもたらすものだと思います。私がライブでペンライトを振るときの気持ちはまさにそれで、ここにあなたを愛している人間がいることに気づいてほしいという思いで大好きなアイドルのメンバーカラーを灯していますが、これがどう映っているのかと思うことがあります。2020年、コロナ禍によって無観客配信がメインになったとき、ジャニーズのライブでは客席にカラフルな電飾が装飾されたり、画面にペンライトを振るような映像が流されたりするような場面をよく見かけました。アイドルたちの口からあのライトに励まされた、というような言葉が聞かれ、ペンライトの意味を理解したと同時に、だからこそそこにいたかったとか、そんな意図がないことはわかっていますが、私(というファンの存在)は代替可能なのか、というようなひねくれた無力感のようなものを覚えたこともあります。会えないことがこの感情を生んだのか、アイドルとファンという関係はそういう構造でできているのか、そもそも愛とはそういうものなのかはわかりませんが、ともかくピーターの孤独、諦めについて考えたとき、この岡田さんの言葉を思い出し、あの会えなかった時間に感じたやるせなさを思い出しました。

 

 坂本さんがピーターの愛と孤独をあんなに説得力を持たせられたのは、坂本さんがアイドルだからなんだろうなと思いました。大勢の人々に愛されるだけでなく、そうであることを求めるから生まれる孤独の中にもいたから、あれだけピーターになることができたのでしょう。そういう意味でも、坂本さんはピーターそのものでした。

 そして『I Go To Rio』。あの何重にもなった大きな祝福。私にとって今回が初観劇だから以前のことはわからないけれど、V6が2021年11月1日に最後のライブをしたあのとき感じた26年分の愛が、私がV6を知る前から、私が生まれる前からずっとV6に注がれてきた愛が集約され、届いたのだと感じられた、あの感覚と近かったです。たぶん順番として、愛を求めているピーターではなくまずは人々がピーターを愛し、そうしてからいつかどこかでピーターもそのことに気づき、その瞬間初めて愛は相互のものになる。それがどれだけ尊く美しく大切な瞬間かを、他でもないV6に教えてもらった私は、ピーターや周囲の人々、彼を愛してきた人々だけでなく、V6や、これまで彼らを愛してきた人々、そして今もV6を愛している人々のことを思って、未来に希望を見、そして改めて、愛は届くのだと信じることができました。

 岡田さんは先ほどのコメントに続けて、「ファンの子とか見てくださる人たちは、受け止めてくれたり、あ、わかってくれてるんだなっていうことに今気づいた」「どっかわかってもらえないだろうなみたいなとこはあった気がするけど、今わかってくれてんだなという感じがすごいあった」と言葉を続けました。あのときは、同じ会場で相互に思いを届けることは叶いませんでしたが、しかし25年の年月をかけて確かに愛は届きました。その軌跡を知っているから、余計にあの瞬間、時代を超えて降り注ぐ愛を浴びるピーターの姿に涙が止まらなくなりました。

 孤独はスターの宿命として、そうである限り終わりなく続いていきました。しかし愛もまた時代を超えて叶うのです。でも愛されたい相手に愛されなければ、その願いは叶いません。ピーターが『I Go To Rio』であんなに晴れやかで幸せそうだったのは、客席にいる大勢の観客、それは今目の前にいる人々だけでなく、これまでエンターテイナーとして生きてきたステージから見てきた客席にいる全ての人々の愛が、彼を満たしていたからなのだと思いました。

 

 

 

 

 エンターテイメントを愛するオタクとして、クィアなひとりの人間として、V6を愛してきたファンとして、本当にこの舞台と出会えて良かったです。今後の公演もどうか無事に続きますように。そして、いつかまたピーターと出会えますように。

 

 

*1:ライザの「グレッグだったらなんて言ってたかな?」は、ピーターと本当の意味での和解をして、大切な存在であることを再確認できた、その上でやっぱり恋人として、グレッグのように愛されたかったという思いから出た言葉なんだろうなと思いました。私はお互い大切なことが確認できたらいいじゃん!!!なんで!!!ピーターの愛がそこにあるのに!!!と思っていましたが...恋愛至上主義......

*2:もちろん差別的な意味でなく、同志よ!!みたいなニュアンスです

*3:参考文献:BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす | 溝口彰子, 中村明日美子 |本 | 通販 | Amazon

*4:さらに、性的マイノリティを描いた作品で圧倒的に多くの割合を占めるのはゲイ男性を描いたものであり、レズビアントランスジェンダーAセクシュアルの表象はとても少ないです。“LGBTQコミュニティにおいての”強者はゲイ男性であり、レズビアンや非バイナリーな人々、私のようなAセクシュアリティ上にいる人々の欲望はさらに追いやられるという、マイノリティ内の不均衡も存在します。しかし前提として、ヘテロセクシズムが強固に支配しているこの社会が当然の・正しいものとして認めている欲望は異性愛主義のみであり、そこから外れたセクシュアリティは異常なものとして存在すら認められていない現状があります。「クィア」という言葉は、元は「奇妙な」という意味で同性愛者への差別用語として使われていましたが、当事者たちが「奇妙でどうした、何がおかしいのだ」というニュアンスで、レッテルとして用いられた言葉をポジティブな意味に再構築し受け入れたという歴史を表す言葉でもあります。

*5:カノトイのサカモトじゃん.........

*6:着替えシーンで膝のテーピングが見えて、そこで初めて坂本昌行を思い出しましたが、それでもそこにいたのはやはりピーター・アレンとしか思えませんでした

*7:ちなみに、このサプライズ動画はV6FC会員名義で配信を視聴した人しか見れない、彼らと彼らのファンにしか見れないように設定されていました。円盤化されたものではそこも含めて見れますので、詳細は是非V6 25th anniversaryライブ、円盤をお求めください