光を見ている

まるっと愛でる

「I know I love you」という自己受容/愛する君と夜へ行こう

 「クィア・リーディング」をご存知でしょうか。

gendai.ismedia.jp

  この記事にあるように、クィア・リーディングとは異性愛の枠内に収まらない性愛のありかたに注目」し、異性愛だけを前提にした読解では抑圧されてしまう可能性に光をあて」ていく作品の読み方のことです。異性愛主義の下ではないことにされていた関係などを拾い上げ、クィアな可能性を望む人々が「自分のための物語」という希望を探していく試みだと解釈しています。

 私はAロマンティック・Aセクシュアルで、そのなかでも恋愛に関する作品に関心のない、楽しま(め)ない方の人間です。そういう人間としてジャニオタをやっていると、時折二つの困難にぶち当たります。一つは、楽曲や舞台、ライブ、雑誌など、あらゆるところに恋愛の要素が絡まっていること。そういうときは完全にフィクション(他人事)として割り切るか、恋愛が描かれていない部分に着目するか、そもそも摂取することをしないといったように、何種類かの付き合い方を覚えました。そしてもう一つは、「自分のための歌だと思える愛の歌が全然見つからない」ことです。ジャニーズに限らず、この世にあるラブソングは大体恋愛について歌っているため、ラブソングを聴いててこの気持ちわかる!とか、この曲聴いてて楽しい!みたいな経験ってほとんどないんですね。むしろ恋愛の歌ばっかりと辟易することのが多い...共感できるということだけが価値を生むわけではないですし、恋愛について歌っているけどもっと広い愛についても歌っているよね、という曲はあります。1番だけ(2番だけ)聴けばというような、部分的にはクィアに優しいと感じる曲もあります。そもそも論ですが、この世にあるのは恋愛の歌だけじゃないですし。でも、純粋に楽しみの幅が減るし、ストーリーの中に自分と同じような人間がいないことには世界からの疎外感を感じるし、楽しくないんですよね。あるいは、そこに私は求められていない、存在していないんだという孤独を感じたりもします。

 外に目を向ければクィアのための歌はちゃんとあります。でも私は、ジャニーズの楽曲の中でクィアな愛の歌を、私のための歌を見つけたい。だってジャニオタだから……好きな人たちが歌うからこそ意味があるんですよ!!!そう願いながらジャニオタ苦節7年目にしてついに見つけた、恋愛じゃない愛の歌、私のための物語。それは、Sexy Zone『Twilight Sunset』という曲です。クィア・リーディングをすることで自分のための歌だと思えるジャニーズの曲に、やっと出会うことができました。

 ということで今回は、「『Twilight  Sunset』における『僕』と『君』の関係性と愛を、Aロマンティックに読み解く」をやっていこうと思います。私はジェンダーセクシュアリティを専門的に学んだわけでもなく、またAロマやAセクを代表するような人間でもありません。ただの個人の解釈、しかし一人のクィアなジャニオタの希望を探し求める営みの一つだと思っていただければ幸いです。では。

 

 

注1)このブログでは、「Aロマンティック(Aロマ)」を「他者に恋愛感情を抱かないセクシュアリティ、及びそうである人」という意味で使用します。

注2)「恋愛」の定義については、このブログを読むあなたが恋愛感情を持つ人であるならば、あなたが「これは恋愛である」と感じるもの・ことを「恋愛」としてお読みください。「恋愛」とされるものは十人十色であり、全ての人に完璧に合致する共通の定義を挙げることは大変困難なことだと思っています。

 しかし、それを以て確かにそれらが「ない」のだと感じる(感じてきた)私を含めたAロマンティックの人々の経験やアイデンティティを否定することは、誰にもできないことです。

 

 Aロマンティックについてもう少しよく知りたいという方は、こちらのサイトをご覧ください。

acearobu.com

 

 

 最初にざっくりと結論のようなものを書いておくのですが、この曲はクィア・リーディングによって、

・『君』の存在によって恋愛ではない愛を獲得し、Aロマンティックを受容する

・『僕』の自己肯定、愛のある世界を生きていくための希望を見つける

歌でもあると読み解くこともできるのではと思います。そのように読んだ理由というか、異性(恋)愛以外の可能性、『僕』がAロマンティックである理由、自己肯定とは、そんな感じのことを書いていこうと思います。

 

 

 まず、登場人物である『僕』と『君』について。『僕』は一般的に男性の一人称なので、その通り男性であると仮定します。そして注目すべきは、この曲で『君』のジェンダーを特徴づけるような描写は登場しないという点です。外見に言及するのは「笑う君の髪」だけで、あとは『君』の表情についての描写しか出てきません。それによりこの曲は、『君』が女性以外である可能性、異性愛規範から自由になる可能性を含んでいると考えます。今回はSexual orientationではなくRomantic orientationの方に着目して読んでいくものですが、しかし異性愛主義が強固に敷かれている社会には、「男性と女性は恋愛関係に至るもの」という暗黙の前提があります。そのため二人称のジェンダーを決定しないことは、それだけで異性愛規範から解放された自由な歌であると受け取ることができます。

 

 

 

愛なんてまだ I don’t know でももしかして love you?
君の肩に陽が落ちる
相変わらずな僕ら 夕風に飛ばしたジョーク
笑う君の髪がせつない

 愛なんてまだわからないと思っていたけれど、でも君と出会ったことでこの恋心に気づいた、という一節(はこの読み方が一般的な解釈ということで合ってるのでしょうか)です。でも私はこのフレーズを聴いて、全く別のシチュエーションを思い浮かべました。とても個人的な経験で、そして忌まわしい記憶として残っている出来事です。このフレーズが冒頭にあるからこそ、『僕』がAロマンティックである可能性を見つけることができたと言っても過言ではないほど、今回のクィアリーディングにおいて鍵となった詞です。

 Aロマに向けられる偏見の代表的なものに、「『まだ』運命の人(恋愛の対象になる人)に出会っていないだけ」*1があります。そして恋愛至上主義が強固に敷かれているこの社会で「愛」とは「恋愛」を指すため、この一節は「(恋)愛なんてまだわからない」と読むことができます。そうだとすると、この歌詞から私は、(恋)愛のない世界に生きるAロマンティックの『僕』が、(一般的に言われる恋)愛なんてまだわかんねーよ、と自嘲的に、どこか寂しげに呟く姿を思い浮かべます。愛=恋愛というなら、僕はまだ愛なんて知らないよ(だって恋愛感情がないのだから)という皮肉の裏には、『君』に対して抱いているこの愛そのもの、そしてそうである自分も否定されてしまうのだろうかという悲しみや孤独が込められているように思います。

 その孤独感を打ち消そうとするのが「でももしかして、君を愛している?」という問いかけです。このとき、『僕』はまだ自分の中にある愛を信じられていません。愛=恋愛のこの世界では、この感情を愛だとは思えないし、『君』を愛しているだなんて、嘘になってしまうから言えない。自分を疑って、でもやっぱりこれは愛なのだと信じたくて、揺れる気持ちのまま隣にいる『君』を見ている。そうやって自分自身に問いかけることで、今まではないと思っていた「愛」の輪郭が見えてきた。異性(恋)愛主義の下では見つけられなかった、というより存在を許されていなかった(恋愛ではない)「愛」を、『君』の存在によって見つけ直すという、愛の」発見のシーンなんじゃないかなと思います。

 愛する感情って恋愛にのみ許されたものじゃないんですよね。そうじゃなきゃこんなにジャニオタやってないやいという話で。現実の他者に向ける愛だけが存在を認められた愛じゃないし、恋愛や性愛には当てはまらなかったり説明できなかったりする愛だって確かに存在しているんです。愛はここにあるんですよ。*2

 

ずっとこのままでいたい 願うほどに
ふたり近づいてしまうから 簡単じゃないね

 ただ単に「ずっとこのままでいたい」だけではなく、ふたり近づいて「しまう」という、どこか近づく(より深い関係になる)ことを避けているような表現です。どうして『僕』は『君』と近づくことを望んでいないのでしょうか。

 親しさを表す言葉に「友達以上恋人未満」というものがあります。親密さを表す尺度ですが、これによると恋人関係的であるほど親密で深い仲であることになるんですよね。どうして友達より恋人の方が価値があることになってんだよ!!!という呪詛は一旦置いておいて。そういう規範がある世界で生きていく以上、恋愛的に『君』を好きになることができない『僕』が『君』と親しい関係を築くには、自分を偽ることで「恋人」になるか、自分に正直になることで「(ただの)友達(=「恋人」より格下の存在)*3になるか、どちらかしか選べません。『君』を大切に、愛おしく思っているのに、ただ恋愛的な好意を向けることが(でき)ないだけで、その愛の価値が下げられてしまう。だからといって、自分を偽る(=恋愛感情を持つ人間として振る舞う)ことは途方もなく苦しいことです。

 このままでいたいと願う「ほど」近づいて「しまう」、というニュアンスを踏まえると、「現状維持をしようとすると望まぬ接近をしてしまう」とも言い換えることができます。そのように読むと、ふつうにしていると意図せず恋愛関係の方向に進んでいってしまう、恋愛のコードを読み取れないことでの戸惑い、そしてそれは「簡単じゃない」という、複雑で難しい恋愛のルールを前に、どうしようもできずに立ち尽くしている『僕』の姿が浮かび上がってきます。
 『君』と近づいていくにつれ、相手が自分に恋愛感情を向けていることを感じ取ってもどうにもできないまま、時間は残酷に苦渋の決断を迫ってきます。告白を断ったことで「友達」に戻りたいわけではないし、だからと言って「恋人」にはなれそうもない。『君』が大切であることは嘘じゃない。ただ大切に思う気持ちをそのままに、大切で特別な存在のままでいたいのに、友達を特別な存在とすることは恋愛至上主義によって許されず、しかし恋人になることはできない。

 

今すぐこの瞬間を閉じ込めてよ どうか Twilight Sunset
君の可愛い嘘は 僕をだませない
本当の君をもっと見せて そばにいていいかな?
もう少しだけ Waiting for starlight

 だから、「今すぐこの瞬間を閉じ込めてよ」なんですよね。恋愛関係を迫られる前の、今このままでいたいという切実な願い。

 想像ですが、『僕』は、過去にも恋愛的な好意を寄せられたことがあったんじゃないかなと思います。一言で表すと「モテる」タイプの人物なんじゃないかなと。過去の似たような経験から、『君』が自分に恋愛的な好意を寄せているけれどそれを隠している(きっと強がりだったり照れだったり恥ずかしさだったり、隠すことでときめきが生まれるということもあるのでしょう)(参考文献でしか知り得ない感情なので実際そうなるのかはわからん)こともわかっていて、『君』の表情や軽く飛ばし合ったジョークの中から、自分に対する恋愛的な好意を感じ取っていたんじゃないかなと想像します。恋愛感情を持っていなくとも時に恋愛ごとに巻き込まれるものですが、何となく、『僕』は告白されるのが初めてじゃない雰囲気がするんですよね…

 ここでの「嘘」とは、「人は当たり前に恋愛をするもの」という規範の揶揄なのかもと思います。それを「嘘」だと言い、その嘘をついているのは『君』だと示されていることから、『僕』にとって『君』は違う世界の住人(恋愛感情がない『僕』/ある『君』)であることを読み取ることができます。「嘘は僕をだませない」は、嘘そのものにだまされないという意味だけでなく、自分を偽って『君』の好意にこたえて恋人になることはできない、規範に取り込まれることはできないという示唆でもあるんじゃないでしょうか。

 でも「そばにいていいかな?」。だまされることはできないことへの罪悪感を感じているようなニュアンス(まだ『僕』は「恋愛感情がないことは人を愛せないということ」という規範を捨てきれていないため)も含みながら、ある意味恋愛規範の象徴でもある『君』から離れたくないのは、『君』への愛の存在を無視することができないからじゃないでしょうか。

 ふたりはどうなっていくのでしょう。

 

I wanna be with you always 驚いた顔して
光る頬をつたうプリズム

そっと指をのばしたら 届きそうで
触れてしまったら壊れそうで なんてきれいだ

 「いつでも一緒にいたいと思っているよ」と告げたことで『君』が涙を流したのは、もしかしたら『僕』に「恋人になってほしい」と告白し、そして断られてしまったからじゃないかなと思います。
 「ごめん、恋人になることはできない。でも『いつでも一緒にいたいと思っているよ』」と伝えられたのかな、なんて想像します。『僕』が自分のことを好きになってくれないのだという告白にただでさえショックを受けているのに、だけど一緒にいたいんだと言われて、もう何が何だかわからなくなって困惑している「驚いた顔」なのかなと。(Aロマのことを知らなければ余計??となるだろうなと思います。経験談です。)

 自分が「そう」であることが困惑の原因になってしまっていることが痛いほどわかっているから、『僕』はただ涙を拭ってあげることしかできない。でも、拭おうとした君の涙があまりにもきれいで、そう思えることが『君』が特別な存在であることの何よりの証なのだという気づきが、どこか俯瞰的なまなざしで歌われます。

 

今すぐこの瞬間を閉じ込めてよ どうか Twilight Sunset
ふたりの秘密はもう 誰も隠せない
本当の君をもっと見せて 僕はここにいる
もう迷わない Looking for starlight

 別の世界の住人どうしだった『僕』と『君』が、ここで初めて『ふたり』というつながりを手にします。
 自分は恋愛をしない人間であるという「僕だけの秘密」(=クローゼット※セクシュアリティを公表していない状態)を、きっと初めて自分以外の人に伝えたことで、「ふたりの秘密」になったんじゃないかなと。これまで『君』以外に告白されても「恋人になることはできない」だけで済ませていたけれど、でも恋人という形ではなくそばにいたい、「I wanna be with you always」なのだと、『君』にはもう一歩確信に踏み込んで伝えたい。*4「相変わらずな僕ら」から察するに、ふたりは出会ってからある程度の時間が経っていて、くだらないジョークを飛ばし合えるような仲なんですよね。そういう居心地の良さや信頼感があって、そして何より特別で大切な存在だから、曖昧にごまかさず、本当のことを伝えることを決心した。そして『君』に自分の感情を委ねることをやめて、「僕はここにいる」と、自分の思いや存在をないことにしないと覚悟を決めた瞬間だったのだと思います。

 

笑うその声も ふとした仕草も
すべてが愛おしくなってく

 ここで初めて、『君』を「愛おしい」と感じる心情が明確に歌われます。「もしかしてlove you?」と疑うようにしか言えなかった愛を、素直に『君』に向けることができるようになったのは、「もう迷わない」と決めたからです。

 

I know I love you

 『僕』は、「愛=恋愛」の世界で、それまでないことにされてきた自分のための言葉、自分のための感情としての「愛」を、『君』の存在によって獲得します。恋愛的に人を好きにならなければそれは人を愛さないことと同義とされてきたけれど、『君』に抱く感情は確かに「愛」なのだと知ることになるのです。

 そんな『僕』が言う「僕が君を愛していることを僕は知っているよ」は、人を好きになるならそれは恋愛感情であり、人は必ず恋愛をし、恋愛こそあらゆる関係の中で最も尊ばれるべきという恋愛至上主義に飲み込まれることを拒否し、ありのままに『君』を愛しているのだという誓いの言葉なのです。

 

僕らはこの時間を止められないから Twilight Sunset
君の優しい嘘は夜に溶かしてしまえ

 「I know I love you」なのだと、『僕』は自分がAロマンティックであることを受け入れました。受け入れたことで世界は広がり、これまで見えなかったものが見えてくるようになり、今まで以上に傷つくことが増えていくでしょう。でも、時間は止められない。何より、『君』への愛が存在しなかった時に戻ることはできません。

 カミングアウトに限らず、一般的ではない、規範から外れているとされている自分のことについて告げたとき、驚いた顔をされた後に「わかるよ」と言われた経験がある方は少なくないんじゃないでしょうか。わかるよの後に続く言葉を聞いたら、いや全然わかってないじゃんとなる、*5どう言われたり扱われたりすることが嫌で苦しいかはちゃんと伝わってないけれど、否定はしないようにしてくれてるんだろうなという気遣いを感じるやつ。あれが「優しい嘘」なんだと思います。まずまずの関係のままでいいなら、そこに込められた優しさだけ受け取って良しとするかもしれないけど、『僕』にとって『君』はそういう相手ではありません。ちゃんと理解してほしいしちゃんと理解したいから、ぎこちない嘘も、わかってもらえなかった悲しさも、傷ついたことも、自分のことを思ってくれた優しさも、大切に思う気持ちも、全部まとめて『君』を受け入れようとする心情を歌ったのが「夜に溶かしてしまえ」なのだと思います。

 

今すぐこの瞬間を閉じ込めてよ どうか Twilight Sunset
ふたりを包む空は 淡いグラデーション
本当のことをもっと話そう 夜が来る前に

手をつないでさ もう迷わないで
あと少しだけ Waiting for starlight

 これまで「本当の君をもっと見せて」だったのが「本当のことをもっと話そう」となり、手をつないで「さ」、もう迷わない「で」と『君』に語りかけることで、対話を試みていることがわかります。

 「本当のこと」ってなんでしょう。「本当」の対義語が「嘘」なので、「嘘をつかない」ことでしょうか。先程『君』の嘘についてはわかりましたが、『僕』がつく嘘とは、クローゼット状態の性的マイノリティが、自分が何者かバレないように日々積み重ねる小さな嘘のことだと思います。『君』の無理解からくる嘘と、『僕』の自分を偽るための嘘。互いにそれをやめて、嘘をつかないでいられるふたりになろうよと歩み寄る姿が描かれています。

 また、この曲での「グラデーション」は夕焼けから夜空に移り変わっていく空の色のことを歌っていますが、この曲における「夜」には、二つの意味があると思っています。一つは、これから否応なしにやってくる、『僕』の愛を愛だと認めない、変わらず暗いままの世界。そしてもう一つは、愛を獲得し、時間が進んでいくことを受容したことでやってくる、偽りのない自分自身や愛を見つけ信じることができる、孤独ではない新しい世界。

 段々と夜の色が深まっていく中で、『僕』は愛を見つけなおし、獲得し、肯定することで暗い世界がやってくることを受け入れる勇気を得ます。しかし、まだ完全に恐怖を拭い切れたわけではありません。だから、夜が来る前にもっと話そうと『君』に語りかけます。これまで孤独だった『僕』に、初めて本当のことを話したい存在が現れたことで、『僕』にとって「夜」は、暗い世界の始まりであり、愛を獲得し進んでいくことができる温かい未来の予兆にもなり得るのです。

 

 

 ここで、タイトルであり、サビに毎回登場するフレーズでもある『Twilight Sunset』について考えてみます。「Twilight」は夕暮れや黄昏を、「Sunset」は日没や夕焼けを意味し、どちらも同じ時間帯の同じ風景を示す単語です。最初は「君の肩に陽が落ちる」だったのが、後半に「夜」という単語が出てくるようになり、最後は「夜が来る前に」「あと少しだけ」となることから、夕方になりかけのまだ明るい時間帯から日が沈み完全に夜になる直前までの、決して長くはない時間の経過が描かれていると考えられます。長いようで短い瞬間の中で夕暮れ刻の光景は毎秒ごとに変わっていきますが、1番の「今すぐこの瞬間を閉じ込めてよTwilight Sunset」は、愛を再発見したものの信じ切ることはできず、変わらないでくれと世界に願う、葛藤や不確かさを表すものとして、2番では変わっていく覚悟を決めた『僕』と、同じ世界に生きるようになったふたりを柔らかく照らす光として、最後には夜が来る前に残されたわずかな時間の中で、暗い世界を生きていく決心と、孤独を脱却することができたという確かな希望として歌われています。そして一度だけ歌われる「僕らはこの時間を止められないからTwilight Sunset」は、暗くなっていく世界も、『君』の存在も、愛も、全てを受容し生きていくという勇気と自己肯定として描かれています。『Twilight Sunset』とは、変わってしまう苦しさ、切なさ、不確かさを表す刹那的な光景から、『君』と愛を信じながら生きていくことができるこれからの世界へと広がっていく移り変わりを照らす、ささやかだけどとても美しい希望の光なのです。

 

 この曲に登場するのは『僕』と『君』だけですが、最初は『君』と『僕』は違う世界の住人として描かれていたのが、時間が進むにつれ「ふたり」になります。

 この曲のなかで、「ふたり」の関係に名前はつきません。もっと言うと、この曲でふたりの関係は変化しないまま終わります。きっと「恋人」にはならないだろうなというのはこれまでの文脈から想像できるのですが、「(ただの)友達」と表すにはもっと特別で代えがたい存在でしょうし、しかしこれからふたりで何をしたいのか、どんな関係になりたいかというのは読み取れません。これからどう関係が変化するか、もしくは変化しないのかは、夜になってみないとわからないと言えるでしょう。
 ふたりが進んでいく「夜」は、相変わらず愛=恋愛の世界であり、そこでは恋愛関係があらゆる関係のなかで優先され、特権化されています。また、恋愛感情がない人間はその存在すら想定されておらず、そこで『僕』はいないことにされ、『僕』の愛もないことにされてきました。その中で生きていくには、恋愛感情がある人間に擬態し無理やり「(恋愛関係にある)二人」のフォーマットに当てはまるか、愛のない、孤独でかわいそうな「一人」のレッテルを貼られるかの二択を迫られます。どちらにせよ『僕』は、自分を偽るか、諦めるかによって関係性を変化させなければなりませんでした。*6

 この曲には、『僕』の偽りも諦めも不要です。恋が叶うとかフラれるといったわかりやすくドラマティックなストーリーは必要ではなく、ただ「そばにいていい」だし、「本当のことをもっと話」すだけでいいのです。『僕』が「I know I love you」であり、そのことを『君』に伝えられた、ただそれだけでこんなにも美しく、『僕』が生きていく世界は大きく変わっていくのです。

 

 

 

 クィア・リーディングと呼ぶには、「こうに違いない」という強めな読み方を展開してしまったという自覚はあります。クィア・リーディングは、「必ず異性愛以外の物語を読み取る」というものではありません。でも、こういう読み方になってしまうことをどうか許してくれと切に思います。私が訓練を受けた批評家ではないゆえの未熟さ、こうでもしなきゃAロマンティックのための愛の歌は見つけられないという不均衡さ、その中でようやく「私(たち)のための愛の歌」という可能性を見つけられたときのう嬉しさ、救われた気持ち、そういうものが溢れて仕方がなかったのです。

 Aロマは感情が乏しい、Aロマは孤独でかわいそう、Aロマの人生は単調である(もちろん、そうであることは不幸であることを意味するものではなく、悪いことでもありません)というステレオタイプがあるなかで、『僕』が不幸な別れを経験せずに、マジョリティ側への適応というかたちの変化でもなく、自己受容によって新たな自分のための愛の定義を獲得し、共に暗い世界を生きていくことができる存在を見つけることができた姿が美しく描かれていることは、脱ステレオタイプ的なAロマンティックの愛の表現の可能性であり、私(たち)はこんなにも美しい世界を生きているという証明でもあります。
 Aロマンティック的な描写において、恋ができないことは不幸ではないという描かれ方をされることはそれなりにありますが、それだけに留まらず、Aロマであることの肯定、愛の獲得、そして関係性の変化を求められることなく「大切な存在」をそのまま愛することができると描かれているのが、どれだけ稀有で、嬉しいことか。そうさせてくれるのがクィア・リーディングであり、この曲の素晴らしさだと思いました。

 

 

 基本的にジャニーズの楽曲は、ただ日常で聴かれるためというより「ライブ(という非日常)でパフォーマンスされる」ことが最大の目的であり意義だと思ってるので、「セトリへの組み込まれ方」という文脈によって意味が全く変わるし、曲だけを切り取ると本来の意味がなくなることも起こる*7ので、この読み方がSexy Zoneの皆様、そしてファンの皆様が思う正解だとは思っていないです。
 しかし、私にとってこの曲は紛れもなく「私の(ための)愛の歌」であり、そう思わせてくれる曲がジャニーズにあることは、しかも同世代のジャニーズがこの曲を持っていること、何より、こんなに美しい愛の曲を自分の曲だと思えることで、私の生きている世界はこんなにも美しく愛に満ちているのだと思えることは、果てしなく大きな希望となります。『僕』が暗い世界の中で自己を肯定し、愛を獲得できたように、私が生きるこの世界は美しいのだと信じさせてくれた『Twilight Sunset』に、最大限の愛を送り終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

 

 

 試験が終わり次第SZ10THのDVD買おうと思います。ジャにのを見始めてから、単純接触効果だけでは説明できない感情で菊池風磨さんに惹かれているので、見るのが楽しみです!!!

 

 

 

*1:セクシュアリティとは現在の状態を説明するもので、他者に恋愛感情を抱かないと言う人に今後の可能性を求めるのは、今その状態で生きていることの否定です。また、セクシュアリティは変化する可能性を含んでいるものですが、そのセクシュアリティを自認したり名乗ったりすることは、多くの場合それまでの経験の積み重ねを根拠にラベルを選びとっている、もしくは選び取らざるを得ないものであり、名乗る者の「安易な名乗り」であることより、そうではない、あなたはシスヘテロであると訂正しようとする者による「安易な否定」の方が起こりやすいと考えています。

*2:Sexy Zone 君だけFOREVER 歌詞 - 歌ネット

*3:「友達」が「恋人」より格下の存在であるというのは、「恋愛関係は他の関係より優先されるべき」という規範が社会に強く影響していることを表すものであり、私はその考えに断固反対の立場です。この規範についてもっと知りたいという方は、エリザベス・ブレイク著『最小の結婚』という本をお読みいただけると、詳しく説明がされています。

*4:なぜこう伝えることが確信に迫ることになるかというと、「付き合うのは無理だけど、一緒にいたい」という矛盾を敢えて起こしているからです。別に言わずに隠したままでもいいことを、混乱させることは避けられないし、もしかしたら否定されてとても傷つくかもしれないけれど、それでもこの人には伝えたいという葛藤と覚悟がしばしばカミングアウトには伴います。

*5:偉そうに書いていますが、絶対自分もやってきてしまっているんだろうなという反省も込めてこう書いています

*6:かなり多くのAロマを扱った作品が、この二択を迫るストーリーとなっています。確かにその苦しさを描くことはリアリティを持たせますが、そこにどうやって希望を見出せばいいのか?と思います。しんどい日常を忘れたくてエンタメを頼っているのに、同じような地獄を見せられても何も面白くない。

*7:「本来の意味」が後天的に生まれるというオモロ現象がよく起こるからジャニーズの魔法をめちゃくちゃ愛してる