光を見ている

まるっと愛でる

26年目の生まれ変わり、26年後の姿

 V6 grooveコンに行ってきました。終わってからメモに感想を延々と書いており、ツイートでは収まらない分量にまで膨れ上がったのでこちらに書こうと思います。ガンガンセトリや内容に触れ、かつ私の感想や解釈をガンガンに書いていくものなので、ネタバレ回避したい方は閲覧を避けてください。全部を網羅した内容でもなく、ただ思ったままに書いているので脈絡も情緒もとんでもないことになってます。そもそも記憶力が終わってるので、全然違うものを見ていたらごめんなさい。では。

 

 

 

 2021年10月2日、 V6 groove宮城公演。私にとって初めての、そして最後となるV6のライブに参加してきた。3月に報告があったときは有観客のライブがあるかどうかすらわからず、ライブが発表されても相当な倍率だろうから当たらないかもしれない、もしかしたらV6を見ることのないまま終わるかもしれないと、諦めとも微妙に違う納得のような感情で受け入れていた。それなりに長い時間V6を見てきたが、それはいつもテレビだったりライブ映像だったりはたまた特典映像だったりと、生で見ることがなかったため(舞台などでは何度か、トニセンと森田さんと森田さんの舞台に来ていた健ちゃんを見たことがあったが)、どこか映像で見る人たち、という認識をしていたように思う。だから当たったときライブの感じが想像できなかったし、そもそもあの動画を見てから、あの時から自分はV6に対して何をどう思っているのかすらわからず、ずっと混乱と困惑とさみしさのようなものを抱えたままだった。その気持ちは入場するまで変わらず、ずっと困惑したままこの日を迎えた。

 

 チケットが発券され席を探してもどうしても見つけられず、おかしいな…と思っていたら、スタンドとアリーナの意味を勘違いしており、アリーナ席の、文字通り双眼鏡が不要な距離感の席が用意されていることに気づいたとき、一気に困惑が吹っ飛んだ。現金なものである。普段は超絶自担ロックオン型オタクだが、今回は、というよりは今日このライブは「V6」を見ようと思っていたので、双眼鏡を使わなくても見れるのはありがたかった。しかし近いのは普通にマジでヤバいので、ヤバい気持ちとヤバい出来事が衝突した結果逆に感情が凪いだ状態になり、会場をゆっくり見渡す余裕すら生まれてしまった。青のライティングが綺麗で、やっぱりV6を象徴するのは青だなあと考えていた。ステージには花道に布が3×2セット下げられていて、音源を流していたのか換気の音なのか会場の構造上の問題なのか、ザーザーというまるで雨のような音が鳴っていた。セトリを把握したうえでライブに臨んだため『雨』の空気感作ってるのかな、と考えながら開演前の時間を過ごしていた。そして5分前を切ったところで、歓声NGライブの風物詩(といってもA.B.C-Zしか行ってないけど)、いつもの掛け声の無言&拍手バージョンが起こり、たとえ無言でも気持ちが否応なしに高められ、会場BGMで流れていた『僕らは まだ』が終わり、ライブが始まった。

 

 

 

 V6はトライアングルである。トニセン、カミセンというそれぞれ完成した最小限のトライアングルの集合体というだけでなく、トニセンカミセンが組み合わさり大きな三角のフォーメーションを組み、6人のトライアングルも作ることができる。その時のセンターは森田さんだったり坂本さんだったり健ちゃんだったりして、それによってV6の雰囲気もがらっと変わる。トニセン、カミセンでのパフォーマンスでは、センターを入れ替わりながら歌い踊る。トニセンにもカミセンにもそれぞれ代表的なシンメがいるが、空気感は全く別で不思議で面白いなと思う。

 


 V6はサークルである。発表されたときからあまりにも詩的なのに示唆的で、勝手に恐れを感じていた『Full Circle』は、ライブで聴くと今のV6に必要な言葉で、今のV6を表す最高のもので、今のV6の姿だった。互いに向き合って、互いに背を預けて、それぞれに手足を伸ばして踊る姿は、V6として完全体だった。最初の『雨』も、最後の『95 groove』でも、円になっていた。今のV6の作品で最高傑作の一つ、『PINEAPPLE』はフルサイズで披露されたが、二番の象徴的な振り付けも、「はなればなれでもあなたに触れてる」「遠くにいても同じ時を同じ愛を生きているから」という歌詞も、途切れることのない円環を歌っている。好みの話として、私は横一列でするパフォーマンスの方が全員を見やすくて好きなのだが、このライブには円形のフォーメーションがとても似合っていた。

 


 V6は一本の道である。MCで岡田さんだけ一歩後ろからお兄ちゃんたちの話を聞いている姿に、岡田さんが見てきたV6の姿、5人を見ている岡田さん、という図を垣間見た気がした。岡田さんは「自分以外の5人の姿」をV6として語ることが多い。このアルバムやツアーでも岡田さんが撮った写真が沢山使われていて、V6本人の感じているV6を見ることができることが嬉しい一方で、職人気質で一歩引いている姿にさみしさを感じることもあった。岡田さんの見ているV6の風景を、岡田さん含めて見ることができたことで、なんとなくそのさみしさが昇華された気がした。ずっと近くにいたんだな、と思った。MC以外の場面では、岡田さんは博をひっ捕まえて楽しそうに踊っているし、健ちゃんはメンバーとの距離が近いし、井ノ原さんははしゃいで動き回る。一列に横並びになっても、踊っていればそのラインは完全な直線にはならないし、ちゃんと並んだって身長差ででこぼこしている。違う大きさの歩幅で、花道を一緒に歩き、歌い、踊る。愛おしい一本の道だ。

 

 

 V6はばらばらである。揃いの黒いスーツで始まり、青と黒をベースにしたそれぞれ形の違う衣装、シルバーの羽織もの、緑、紫、青のグラデーションカラーのスーツ、真っ白の形違いの衣装、そしてカラフルなばらばらの衣装でステージの向こうに帰っていった。今回のペンライトは、ファンカラーのピンク、ピンクの点滅、そして赤、オレンジ、黄色、緑、青、紫の順に変わっていくのが繰り返されるというものだった。ばらばらというのは、違うものが存在しているという意味で、寂しいものではないということにやっと気づくことができた。『Full Circle』の「みんなカラフルでいいんじゃない?」のときのカラフルなライティング、綺麗だった。そういえば、今のV6のダンスは意外と揃っていないことに気づいた。それがいいと思った。それぞれの解釈、気持ちよさ、ノリがあって、同じ音楽を聴いていてもこんなに違うんだ、でもまとまりがあるのはV6だからなのだと思う。『95 groove』が終わりあのカラフルな衣装、メンバーによってはジャケットを脱いでばらばらな姿で最後の挨拶をして、階段を上って去って行く後ろ姿を見て、超新星爆発みたいだな、と思った。V6という宇宙に散っていって、幕が閉じて、愛あるメッセージが流れて、最後にハートを残していった。たぶん諸々のさみしさがやってくるのは11月1日以降で、不思議とそのときは満足感だけが残っていた。

 

 

 

  V6はV6である。2015年、V6は自らの関係を他人、友達、家族、仲間のどれにも当てはまらないと歌っていたが、彼らは今回のツアーで『家族』という森田さんプロデュースの曲を歌っている。最初このタイトルに戸惑いを覚え、言葉を選ばずに行ってしまうと、嫌だと思った。あんなに唯一無二の尊い関係が、急に陳腐なものになってしまうような気がした。せっかくどんな関係にも当てはまらない「V6」という関係なのだと自分たちを定義づけたのに。6人以外には想像できない、6人にしか共有できない感覚を分かち合っていたはずなのに、どうして多くの人がわかるようなものとしてしまうの。どうして固有の物語としてのV6を手放してしまうの。そう思っていた。

 この戸惑いは、パフォーマンスを見て、何よりこのライブで歌われることで解消されることになる。解消されるどころか、この曲がどれだけ今のV6、そしてこれからの6人にとって意味があるものなのか思い知らされた。

 

 この曲は森田さんプロデュース曲である。そして森田さんは11月1日をもってジャニーズ事務所を退所し、5人は残る。書きながら胸が痛くてたまらなくなるが、これまで退所したタレントと元グループのメンバーが共演するという例はほとんどなかったはずだ(中居くんがサタスマに出た以外の例を知らない)。だからたぶん、11月1日以降6人が揃う姿を見るのは、とても難しくなるだろう。それに、森田さんが進むであろう方向と5人の方向は重ならないだろうから、V6というくくりがなくなったら、少なくとも表でのつながりは薄くなる、もしかしたらほとんどなくなってしまうだろうと覚悟している。そして、11月1日でV6は解散する。あの動画以来本人たちの口から言われていないので、できればこんな言い方をしたくないのだが、V6という場所はなくなってしまう。私が今まで感じてきた困惑やさみしさのような訳のわからない感情の底にあるのは、V6がなくなってしまう、6人が離れてしまうという喪失感だ。

 『家族』では、花道にワンズコンの『刹那的Night』の鳥かごの布版みたいなセットが現れ、その中で歌う。電球が下りてきて、そして上がり下がりをしたり揺れたりしているのを見て、彼らの魂が抜けだしていったのだと思った。歌詞に体温があるけれど、これはこの世レベルの話ではない、もっと大きく深い話なのだと感じた。やがて5人がばらばらの順番でセンターステージに向かい、森田さんは最後のパートを歌う。

 

俺たち家族

お互い守る

そばにいない時も近く

俺たち家族

家族 家族

血のつながり関係なく

俺たち家族

俺たちは

 

 森田さんはこう歌いながら布から抜け出し、一人でセンターステージに向かう。一人で歌い踊るのだが、ふと歩みを止めて振り返りセンターステージに背を向けたとき、それまで一人で立っているのだと思っていた森田さんは、先に着いていた5人を背負っており、V6として立っていたことに気づく。森田さんを一人にするフォーメーションではなかった、森田さんは一人になったのではなかったのだと気付いた時の衝撃は言い表せない。V6はばらばらになるのではない、別れるでもないのだと知った。パフォーマンスを見ないとわからなかった。

 5人は事務所に残るという事実を鑑みて(これからの)V6を語ろうとすると、森田さんはどうしても「出ていく人」になってしまう。そしてV6は解散してしまう。6人がつながりを持つことはできなくなってしまうのではないか。

 『家族』で森田さんは、V6がなくなってしまう代わりに家族という言葉の意味を再定義し、「そばにいない時も近く」「血のつながり関係なく」、そして一人で立っているように見えても後ろには5人がいるという姿を見せることによって、自分は一人になるのではないということを示し、V6がなくなった後にもV6が続くようにしたのだと思う。離れても、V6という苗字がなくなっても(かつて27時間テレビで慎吾ちゃんが「SMAPは自分のもう一つの苗字」だといっていましたね)、血の代わりに同じ音楽、同じグルーヴが体を流れていて、それによって繋がっているのだと、V6を生まれ変わらせた。「出ていく人」である森田さんがこれをやってのけたこと、家族という言葉をV6に合わせて再定義したこと、V6を生まれ変わらせることで続くようにしていくこと。20周年のとき、『SPOT LIGHT』で森田さんは「背中を押してくれる仲間がいるから」と、自分の後ろにいる5人を親指で示しながら歌った。あの時と一緒で、森田さんは5人を信じていて、そして森田さんも5人と別れるつもりはないんだろうな、距離は離れてしまうけれど、つながりが途絶えることは望んでいないのだろうなと感じ、森田さんのV6への思いに触れることができた気がした。いや、思いに触れたというよりは、「いなくならないでね」と書いたときから森田さんの本質は何も変わっていないのだと気づいた。V6をV6に取り戻すのだと3月12日の動画で岡田さんは言っていたが、自らV6の定義を書き換えることで、本当にV6はそれを実行していた。26年前に急に集められて、自分の意思ではなく選ばれたメンバーで結成されたアイドルグループが、なくなる前に自らの定義を書き換えて、生まれ変わらせることで終わらせないようにする。こんな画期的で大胆で、難しいことを言葉ではなく自分たちのパフォーマンスでやってのけるなんて、V6にしかできないんじゃないだろうか。

 

 

 『わからないだらけ』。最初、カミセンの曲でもいいのでは?と感じた。『12ヶ月』や『テレパシー』のようなカミセンの切ない曲には名曲がたくさんあるが、これらと近いところにある曲だな、と初めて聴いたとき思っていた。

 この曲は健ちゃんプロデュース曲だが、聴きこんでいくと重みが出る曲だった。『雨』や『家族』のそれとはまた違う、健ちゃんの感情や体温がそっと流れ込んでくるようで、健ちゃんのドライで冷めたところと、どうしようもなく愛を求めている寂しがりやなところが、「三宅健版の『それもきっとしあわせ』」だと思わせてくるような曲だ。そして歌割。1番のA、Bメロは剛健の掛け合い、そして剛健が一緒に歌うようになっている。このぴったり感は、この世で誰よりも互いを共有してきた最小の宇宙こと剛健にしか出せないものだった。

 博担をしているのでどうしても坂長の関係性ばかり追ってしまうのだが、井ノ原さんが「ふたりが仕事の話をしているのを見たことがない」と言うように、坂長はジュニア時代からのエピソードから始まり、ステージ上の出来事よりも、付き合いの長い同僚としての会話や、グループの年上二人という役割によるやりとりから、関係性や互いへの思いを感じることが多いように思う。一方の剛健は、ステージ上、テレビ上でのやり取り以外では、坂長と比べるとあまり互いのことを語らない気がする。これこそ剛健が剛健たる所以で、ジャニーズジュニア・ブランドを打ち立てた、当時圧倒的な人気を誇っていた、ゆえにきっと二人っきりだったシンメであり、「剛がやらないならV6やりたくない」と健ちゃんが選んだV6のメンバーであるという、ステージの上に共に立つ相棒としてのシンメなのだと思う。この曲で剛健が背中合わせになって歌ったときの画の強さは語りつくせないものがあった。あのわずかな時間のなかに剛健が全て詰まっていて、ステージの上で剛健は完成するのだと知った。

 

 

 『ジンクス』。オレキミコンのDVDを何回も見ているので、あの蛍光色のマイクスタンドが出てきて、曲中でスポーン!とステッキに化けたとき見たことあるやつ!と喜んでしまった。あれ笑うやつでしたか?



 『オレじゃなきゃ、キミじゃなきゃ』。トニセンらしさが詰まった大好きな曲。トニカミ掛け合いゾーンで披露されたのだが、『Born to run』を歌い終えたカミセンがムービングステージ?せり?階段状になっているステージの下段に残り、上段に登場したトニセンと向かい合うように立っている。そしてそのままトニセンが歌い出すと、トニセンがカミセンに向けて歌うかのような構図になっていて、まさかトニセンがこのメッセージをカミセンに歌う日が来るとは、と感慨深くなった。この曲は人生のほろ苦さを歌っているけれど、過去にすがる曲ではなく、「今じゃなきゃできないこと信じて走れ」と、今を歌っている、とてもこのライブに似合う曲だ。発売当時トニセンは37、36、32歳、そして今のカミセンは42、42、40歳。今のカミセンの方が年齢は上で似合うのに、今のカミセンでも歌ってるのを想像できない。

 トニカミ掛け合いゾーンはそれぞれのカラーがすごくて、こんなに違うユニットが一緒にいたんだと気付かされた。これまでトニセンばっかり見てきたので「カミセン」を見るのは初めてだったけれど、今の年齢になっても曲の若さに負けない、鋭さをずっと持っていてすごいと思った。『Ash to Ash』で登場したとき、本能的に最強だ…と思った。カミセン、信じられないくらい強くて、カミセンがイケイケだった時代を見たい、彼らがファンや彼らの後輩にはどのように映っていたのかを知りたくなった。そして『High Hopes』の最後、三人が人差し指を重ねて掲げたシルエットの強さ。あのたった何秒かで、カミセンの歴史を浴びて、その眩しさに目がくらんだ。

 

 

 『グッドラックベイビー』。このライブで唯一泣いた曲だった。自分でもびっくりするくらい涙が湧き上がってきて止まらなかった。

 ライブに行く前から、この曲は涙腺を刺激する曲だった。言われなくてもトニセンからカミセンへの歌だということがわかってしまうから。世界一温かくて優しくて切ないエール。離れてしまうことのさみしさを、「グッドラックベイビー」と背中を押し、見送ることでそっと隠している。それでもにじみ出てしまう気持ちを「またこうして 笑い合えたなら」とそっと歌う、そんな曲だ。

 

 曲が始まると同時に後ろに流れ出した映像は、親子のクマが歩いている場面から始まる。そして物語はずっと子熊にフォーカスが当てられている。つまりあの物語は、「トニセン(親熊)の目を通して見るカミセン(子熊)」の話なのだと思う。親と離れることを決めて、一人で歩き出す子熊。頭に雪が積もるような厳しい道を、一人でまっすぐ前を見て歩き続ける子熊を見て、親熊は何を思ったのだろう。子熊の歩みを止めることはせず、そっと画面に映らないところで見守っている。グッドラック、幸運を祈ると願いを込めて。しかもベイビーと呼びかけるなんて。今はそこまで意識しなくなったけれど、そういえばV6は長らくジャニーズで最も年齢差が開いたグループで、トニセンはカミセンの先輩で教育係で保護者でお兄ちゃんだったのだ。トニセンにとってカミセンはずっと変わらず子熊なんだということを知らされて、トニセンのカミセンへのまなざしの温かさに涙が止まらなかった。今回のライブは、最後や別れということは感じさせないライブだった。それは安易なエモーショナルを作り上げないようにしたであろう構成や、最後のあいさつで井ノ原さんが神経を使って言葉を選んでいた空気からも感じた。そんな中で唯一歌われた別れがこの曲だった。『家族』で歌われた「お互い守る」とは違う、トニセンとして年下の子たち、テンションが上がってギリ放送禁止用語を言いかけちゃう子、好物があるとテンションが小学生みたいになる子、強くデカくなっても力加減を覚えず容赦なくのしかかってくる子、未だにトニセンの前でカミセンはこんな調子だなんて知らなかったし、何も変わらない子たちを見送る強さ、トニセンとしての矜持を見た。トニセンは強く、湿っぽさを全く出さずにいたからこそ、歌詞の持つ柔らかいさみしさと一人で歩く子熊、そして最後の歌詞、

またこうして 笑い合えたなら

にあまりにも切なくなった。でも、さみしくなれてよかったとも思う。

 

 

 『素敵な夜』。正直情緒がついていかなかったけれど、これのおかげで楽しみたいモードに気持ちを持っていけてよかった。こういう演劇チックな演出にすると思ってなかったし、トニセンだけでやるならまだ想像はついたけれど、V6でやるのは新鮮だった。確かこの曲でトニセンの誰かがふざけて岡田さんが笑ってグダったところがあっていいものを見れました。Happy.

 

 

 『愛なんだ』。メドレーは全部最高で、ビリスマやグッデイ、ハニビを生で聴けたのがめちゃくちゃ嬉しかった。そしてやっぱり、V6のライブに行ったら愛なんだを聴きたかった。どんだけ歌番組で歌われていようと私は愛なんだが大好きで、あの曲のカラッと晴れた夏空のような空気感を味わえて最高に幸せだった。

 ところで、曲だけで聞くと『グッドラックベイビー』で「結局愛ってなんなんだ」と言われている。アルバムではこの曲が最後なので、『愛なんだ』がちらつきつつ愛なんだが歌ってるのとは違うところに答えがあるのかな…と考えていたが、ライブでは『グッドラックベイビー』→『愛なんだ』の順に歌われたことで、愛とは?の答えはずっと前からあったんだと思った。

 

 

 

 博と目があった。6人が花道を歩いてきて、私がいるブロックの方に博がやって来た。ずっとペンライトを振っていたのだが、この距離感ならたぶん出せば見えるはずと思い、慌てて持って行った公式の博のうちわを向け、手を振っていた。ふーっと歩きながらブロック全体に手を振っていたのだが、私の前にいる人が紫の服を着ている人で、きっと博担だったのだと思う。その人に手を振っているのを後ろから見て、本当に自分のファンを認識して手を振っているんだと思った。

 すると、その私の前の人の顔に目線をやった流れで奥、つまり私のうちわに目線をやったのが分かった。まずすっと目線だけが動き、私の持つうちわに目をやり、ふっと顔を上げ、目が合った。ライブでよく見せる、そしていつもにこやかだけどライブ以外ではあまり見せない穏やかな満面の笑み、菩薩スマイルと形容されるようなあの表情で、確か左手にマイクを持っていたので右手を振ってくれた。時間にして2秒にも満たないくらいだっただろうか、反応らしい反応を何もできず、そのまま博は歩いていってしまった。

 あの不思議な時間は何だったんだろう。ただ目が合ったというだけで、たったの2秒だけで、誇張でもなんでもなく、これからあの瞬間を何回も思い出しながら生きていくんだろうなと思った。

 

 


 森田さんと、トロッコにいる姿と目があった。席がトロッコの通路のすぐ近くだったので、何回かトロッコに乗ったメンバーがかなり近いところまで来る機会があった。その中の一回で、森田さんがやってきた。

 森田さんは、ファンサをするというよりはファンをよく見る人だと思う。自分のファンを狩るタイプのファンサマシーン井ノ原さんと対照的に、手を軽く振るか、そこにいる人の顔をじっと見ている印象があった。そして私も森田さんの視界に入ったようで、1秒くらいだったけれど、明確に目が合ったとわかるくらいじっと見つめ合った。あの1秒は、今までの人生で最も濃い瞬間だった。

 森田さんのお辞儀は深い。そして言うことはきちんと言う人だ。井ノ原さんが最後に挨拶した時、被せるような勢いで「ありがとうございます」といい、客席に深く礼をしていた。本当に嘘がなくて誠実で、人ときちんと向き合おうとする人だなと思った。

 

 双眼鏡は使わなかったけれど、自担ロックオン型オタクなので博をずっと見るのかなと考えていたが、一番目を奪われたのは森田さんだった。舞台上の姿は2回見たことがあり、「FORTUNE」で森田さんが踊る姿を見たこともある。舞台の森田さんの存在感はライブでは見れないものがあり、一言でいうと「爆発」の演技をする人だと思う。

 ライブでの森田さんは、これまで見たことがないような人だった。特典映像などで健ちゃんに絡むとき、「センス」を嬉しそうに連呼する人だが、確かに森田さんには圧倒的なセンスがあった。身体が言葉にも音にも光にも空気にもなっていて、センターで踊るときは「V6のセンター」で、そうではないところにいるときや、照明が当たらないところではグルーヴに身を任せて踊っていた。森田さんの暗闇でも光る生命力そのもので、場所はどこでもいい、どうか踊り続けてくれ、と思った。

 そんな中、ターンをする振付は誰よりも健ちゃんが目を引いて、森田さんの隣に立ち続けた健ちゃんの美学とプライドを見た気がした。剛健は時折びっくりするくらいダンスが揃う瞬間があって、しかしターンだけはどの瞬間も独立して三宅健のものになる。健ちゃんのターンはジャニーズで一番最高。

 

 

 曲と曲の合間の僅かな瞬間、博を挟んで右に井ノ原さん、左に森田さんがいて、博が何かを言ったのか、二人が同じタイミングでとても優しい表情で博に笑いかけていた。森田さんがそっと愛おしそうに博の顔を見るのも、井ノ原さんが目尻をふにゃっとさせたあの表情で博をのぞき込むのも、見覚えがあるような気がして、3人にまるっと愛おしさが止まらなかった。

 


 めちゃくちゃパワフルにセンステに向かって走る博の姿を見て、ただただフィジカルの強さを感じた。48歳って何?マジであの人強い。

 『TAKE ME HIGHER』で、やっぱり博は正面を向いて、顔を上げて踊っていた。博は踊るとき、必ず正面を向いている。それはテレビの向こうにファンがいることを知っている人だからすることだと思っていたけれど、ライブでもそうしていて、本当にあのまま、6年見てきたままの姿でそこに立っているのだなと思った。私はファンになった当時から一貫して博のことを「よくわからない人」だと思っており、それは今も変わっていない。でも、そのわからなさの中身は少しだけ形を変えて、たぶん私が見てきた長野博は間違いではないのだな、と思った。

 

 


 最後のメッセージ。まさかV6から言葉を投げかけられるなんて思ってもいなかった。「あなたが好きです」と言われるなんて想像もしていなかった。あれで、ファンとしてのひとつの願いが叶ったかもしれない。これまで、愛を一方的に投げかけることしかできなかった。渡すという言葉は適切ではなかった。届いているのかわからないから。知ることはできないと思っていたから。でもあれは、アイドルとファンにしかできない愛のやりとりだった。声を出せない、手を伸ばすこともできない、表情も半分以上隠れているという特殊な環境下で、あれは確かに互いに思いを交わし合うことができたのだと、そう信じることができた。自分たちを愛している存在がいることを認めてくれてありがとう、好きということを受け入れてくれてありがとう、ファンでいさせてくれてありがとう、そんなことを思いながら最後の岡田さんのメッセージを読み、6人の作るハートを眺めていた。

 

 

 

 

 終わってみて、もうきっと6人と会うことはないのだと強烈な寂しさが込み上がってくる瞬間と、でも6人はこれからも繋がっているということを信じれて嬉しくなる瞬間と交互にやってくる。このライブは「V6にV6を取り戻す」ためのもので、だからあんなにさみしさを感じさせない内容で、感じさせないように気を配られたものになったのだろうなと思う。ライブの度にV6を取り戻し、そしてV6がなくなったあとどう在るのかということまで表現して、愛を残していった。これらは全部形に残らないものだけれど、全部心に残っている。V6のファンでいることはどういうことなのか、という自分なりの答えを得られた気がした。今一番強く残っているのは、最後のカラフルな衣装で6人が横並びに歩いている後ろ姿だ。あの姿をずっと追いかけてきたのだと、ずっと見たかった姿を見ることができて、V6を好きでいてよかったと思った。

 今は終わりに向かっている気はしない、ただ完成を見届けたいと思っている。どうかこれからの日程も健康に気を付けて、V6を楽しんでほしい。私もこれからのV6を楽しみたいし、愛していきたい。

 

V6 / 「Full Circle」Music Video Behind the scenes YouTube Ver. - YouTube

【追記】

 ちょうどこの日に投稿された動画。ライブ終わりのバスの中で見ていた思い出。