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ドラマ「君となら恋をしてみても」をクィアリーディングする~特権を取り出し「恋人」を読み換える~

 

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 現在絶賛再放送中、「なぜ60分×12話でやらなかったのか悔やまれる部門」「なぜ全国放送じゃなかったのか謎すぎ部門」堂々の1位受賞ドラマこと「君となら恋をしてみても」江ノ島を舞台に、誰に対しても優しいまぶしすぎる高校生・山菅龍司と、過去のトラウマを抱えながらも龍司と出会い、惹かれていく転校生・海堂天のひと夏を追ったBLドラマです。全5話という短さ(マジで本当に足りなすぎる……)ながら、龍司と天の出会いと交流を柔らかく描き、ふたりがそれぞれ抱える痛みや喪失感を分かち合いながら、互いに惹かれあっていく……そんな作品なのですが、私がこのドラマ作品を魅力的だと感じるポイントは、クィアリーディングによって山菅龍司というキャラクターのAロマンティック”的”な可能性を読むことができる点です。

 

 

 Aロマンティックとは、一般に「他者に恋愛感情を抱かないセクシュアリティ、およびそうである人」を意味します。

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 当ブログではこれまで、クィアリーディングによって作品のAロマンティック性を読み解いていく…ということをちまちまとやってきています。これは私の趣味でもあり、またAロマかつAセクの当事者として、自分のためのエンタメが少なすぎる現状の中でどうにか自分のような人々が物語の中に存在していることを感じたい、という期待と願いを賭けた抵抗でもあります。

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 直近だとこんな感じで書いてきました。


 この作品において、山菅龍司という人物はAロマンティックとしては描かれていません。しかし「もし龍司がAロマンティックに近い人物だったら」というクィアリーディングを通して、本来想定されているであろうものとは違った龍司と天の関係が読めるようになるのではないか、そしてその関係性はAロマンティックな自分のための物語になりうるのではないかという思いでブログを書いていきます。

 

 

「曖昧な感情」─鈍感さと優しさが隠すAロマンティックな可能性

 龍司は、「付き合いたい」という天の言葉に対し「俺の中の曖昧な感情を、今伝えるのは間違いかもしれないけど」と、付き合うということは考えたことがなかったこと、そういう関係になることは今は想像つかないと説明します。しかし、

「俺も天のこと、好きになっていけたらいいって思ってるよ」

「なかったことにはしないし、今まで通りにもしない」

「ちゃんと好きだってこと知っておくから、だから、しばらくは俺に片想いしといて」

と、天の「好き」や「付き合いたい」思いを否定することはせず、天が自分に恋愛感情を向けている状態のまま保留させることで、天の思いを受容しつつ、現状の関係性のラベルは変化させることなく繋ぎ留めます。

 

 龍司は、抱きしめられはっきり「好き」と言われるまで、天の思いに全く気付いていませんでした。好かれていることは理解していても、そして天の口から「自分は男が好きな人間だ」ということを聞かされていても、その感情が自分に向く(かもしれない)可能性は、そのときまで思いもしていなかったようでした。視聴者は天のモノローグからどれだけ龍司のことを好きかを知ることができますが、でも表情を見ただけでもう天が龍司に恋していることは一目瞭然です。天の側に立つと、弁天橋で告白されるまで全く天の思いに気づかない龍司はかなり「鈍い」タイプに見えてくるかと思います。
 また山菅龍司という男は非常に優しく誠実で、天の軽いノリでされた「俺男が好きだし」という(龍司にとっては)いきなりのカミングアウトに対しても、その装った態度を見抜き「茶化さなくていい」と真剣に向き合い、これ以上自分の前で傷つくようなことはしなくていいと伝えるという姿からは、ある意味天のally的な役割を果たす、クィアフレンドリーなキャラクターとして読むことができます。しかし龍司は天だけにその優しさを見せているわけではなく、クラスメイトや先生、家族に対しても分け隔てなく、無意識に気遣いができる人として描かれています。そんな誰からも好かれるいい奴である龍司が、あんなにもダダ漏れだった天の思いに気づいていなかったこと、天の告白に「友達から告白されたことなんかなかったし、正直今も戸惑ってる」と答えたことは、誰に対しても優しく、それゆえに誰からも愛されることを当たり前に受け止める龍司のキャラクターとしてとても納得感があります。そして「今恋人の関係になるのは想像がつかないが、天のことを好きになっていけたらいいと思っている」という言葉は、龍司の誠実さが強く優しく発揮された場面だと読むことができます。
 しかし一連の龍司のキャラクター造形を見ていくと、鈍感さ、そして優しさのもとで、龍司のそばにあるAロマンティシズムが見えにくくされる可能性もあるとも読めるな、と思います。ここで、ともすれば見落とされてしまいがちなAロマンティシズムを拾い上げるポイント、それによって龍司が備えているAロマンティック可能性をどう読み解いていったのかを書いていきます。

 

 龍司がなぜ天の思いに気づかなかったのかを考えるとき、「龍司の『個性としての』鈍感さ」だけでなく、「龍司が『恋愛やそのルールに』鈍感」であった、つまり恋愛感情を理解しない(できない)、恋愛の文脈を前提にした規範に沿わない人物であると読むことで、Aロマンティックな可能性を読み解くことも可能になります。「『好き』がどういう気持ちなのかわからないというフレーズは、Aロマンティックなアイデンティティを獲得する過程で割と多くの当事者が経験する共通の感覚なんじゃないだろうかと思いますが、そうだと明言されていないキャラクターからAロマンティック可能性を発見する際のキーワードとしても機能することも多いです。これの類語として「鈍感さ」という要素も同様に理解できるのではないかと思います。クィアリーディングによって「恋愛に対しての鈍感さは、恋愛に関わる規範に沿わないことを示している」と読み換えることで、より多くの作品からAロマンティックな可能性を開いていけると考えています。

 Aロマンティックを理解しようとするときに重要な概念として、「恋愛伴侶規範:amatonormativity」という人はみな恋愛感情を備えており、それが育まれる関係はあらゆる人間関係より優れたもので、誰もが他の関係より優先して求める善いものである」という社会的な前提があります。

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これが広く共有されることで、恋愛に対する鈍感さには(主にネガティブな)意味が生じます。それを理解しない人は冷たいだとか変だとか、人間的に未成熟であるとかいった、Aロマンティックパーソンが受けることが非常に多いステレオタイプ的偏見につながりやすくなるのです。

 ここで注意しなければならないのは、これらは「Aロマンティックな人々が受ける偏見」として捉えられること自体が難しい、単に「個人の個性」として理解されることが多いものである、ということです。
 恋愛を理解しないからといって、それは必ずしもAロマンティックパーソンであることを意味するわけではありません。しかし恋愛に対する鈍感さを「Aロマンティックだから」と理解しようとするとき、「恋愛がよくわからないのは誰でもそうだよ、でもそのうちわかるようになるから、恋愛感情がないなんて大げさだよ」と、「あなた固有のものではなく、皆に共通するものだから」とAロマンティックなアイデンティティを漂白しようとする無意識のまなざしが存在していることを無視してはいけないと思っています。成人を指して「既婚/未婚」といった表現をすることを考えてほしいのですが、「すべての人間が結婚するという前提」のもとで「既に結婚している」か「未だ結婚していない」という尺度が共有されることで、「結婚する意思のない」人々は不可視化され、彼らを想定しない社会構造・社会規範が構成されるという問題が発生します。Aロマンティックパーソンに対してもこれと似たことが起こり、「すべての人が恋愛感情を備えているという前提」によってAロマンティックは不可視化されてしまうのです。
「みんなに」優しく、誰からも愛されるという龍司の個性が、恋愛感情(だけ)ではなく他者からの好意全般に鈍い人物としての説得力を持たせることにつながり、それによって恋愛感情への鈍さというAロマンティック可能性が見えにくくなってしまい、アイデンティティを獲得しにくくなってしまう…という、Aロマンティックの人々が経験する困難に思いを馳せながら龍司を見ていました。

 

 

「好き」と呼ば(べ)ない理由─異性(恋)愛規範が邪魔をする思い

「こないださ、店で天に食わせたいものあったのに、どう声かけたらいいかわかんなくて、連絡できなかった。……会いたいって思った

今の自分の気持ちじゃ、天が伝えてくれた『好き』にはまだ足りないかもしれないけど、……」

 

 龍司が夏休みの間じゅう天と会話をすることとがなかったのは、天の告白に返事をしないうちに自分から連絡を取るのは無神経だと考えたからでした。龍司は天の告白を重要なものとして受け止め、応えようとしますが、おそらく天への感情は曖昧なままで、天が自分に向ける「好き」とのズレを感じています。でも天を大切に思う気持ちは確かに存在している。自分自身がそんな思いを何と呼べばいいのか分からず、何と伝えればいいかも分からず、とてももやもやしていたのだと思います。
 そんな中、母親の亡き父を思う気持ちを知った龍司は、自分の天に対する思いを少しずつ溢れさせていきます。会えないとさみしい。おいしいものや綺麗なものを教えてあげたい。好きそうだなと思う。すっごく、会いたい。

 龍司にとって一番大切な思いは、「天に会いたい」でした。だから、曖昧なままであっても、天の「好き」には足りなくても、告白に何と返事すればいいかわからなくても、自分の思いを何と呼べばいいのかわからなくても、天に会うことを決めたのだと思います。
 ここで注目したいのは、龍司が自分の思いは天とは同じではないと理解していることです。天が自分を思う気持ちは「好き」と呼びますが、自分の思いは「まだ足りない」と感じ、代わりに「会いたい」と天への思いを表現します。天に告白されたときは「俺も天のことを好きになっていけたらいいと思っている」と、「好き」を目指すようなことを言っていますが、これ以降も天への感情を「好き」と呼ぶことはしません。

 天に何と伝えればいいか分からず悩んでいた龍司は、亡き父を思う母がこぼした「会いたい」「ずーっと、あなたのことが好きなのよ」と自分の思いが重なり、天への思いの輪郭を掴みかけます。
 しかし、両親の関係をそのまま自分たちにトレースしようとすると、異性愛関係と非異性愛関係という異性愛規範による立場の違い、そして「好き」とは「(恋愛的に)好き」であり、「“恋”愛以外は『(本当の/正常な/優先されるべき/特別な)愛』ではない(例えば「友達以上恋人未満」のように)という社会的文脈が邪魔になり、規範からは外れた天への思いを「好き」と理解したり呼ぼうとするのが難しくなるという問題が起こってしまいます。恋愛的な文脈で「好き」を向ける天に「好き」と応えようとすると、龍司の思いは自動的に異性(恋)愛規範のレンズを通して違うもの、つまり恋愛的な意味での「好き」に変化してしまいます。固有の関係の中で生じる惹かれや愛情、献身が恋愛感情に回収され、自分の思いと社会が提示する「愛」に齟齬が生まれる苦々しさや悔しさを幾度となく味わってきたことで、自分の感覚を表す言葉を獲得できず自己受容に戸惑ったり、大切な人に思いを伝えようとすることをためらったり諦めたりする経験は、Aロマンティックパーソンに広く共有される感覚なんじゃないかなと思います。そんな違和感を感じたからこそ、龍司は「好き」という言葉を選べなかったのだと思います。異性(恋)愛規範があらゆる人間関係に入り込み、恋愛関係に収まらない多様で固有の関係を抹消することで、そこで生まれるはずの思いや言葉まで奪われてしまう、自分の感情を表すはずの言葉が、口に出した瞬間自分の思いから離れたところに行ってしまう。だから違う言葉を探し、迷い、確かめながら、それでも伝えたい思いを諦めたくない。言葉に詰まりながらも天に向き合う龍司の姿は、そんなもどかしさや葛藤に共感することでAロマンティックな可能性を感じられる部分でもあったと感じました。

 

重要な、恋愛的ではない存在としての「恋人」─特権を取り出し、関係を読み換える

「でも……俺は、……会いたいって理由だけで会える相手が天ならいいな……それが、恋人の特権なら……天と付き合いたい。……そういうんじゃだめかな」

 

 ここで、アンジェラ・チェン著「ACE アセクシュアルからみたセックスと社会のこと」第7章【恋愛再考】から、「クィアプラトニック・パートナー」実践についての文章を引用します。

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 リーはその当時まで、クィアでアローセクシュアルだと自認していたが、自らのアセクシュアリティについて理解し始めた。テイラーはリーと話すことを通じて、自分がアロマンティックだと認識した。二人は近しい友人になり、自分たちの関係を何か別のものにしたいと決意した。(中略)─この時代に生きるリーとテイラーは別の語を用いた。「友人」と「恋愛パートナー」の間の社会的間隙を記すのに利用可能な数少ない明確な呼び名の一つ、「クィアプラトニック・パートナー」である。

─アンジェラ・チェン「ACE アセクシュアルからみたセックスと社会のこと」(左右社、2023年発行)p252より引用

クィアプラトニック・パートナーシップは、独特な感じ方というより、お互いの重要性を、明白に恋愛的でない関係としては稀な仕方で認めることに関わっている。これらの関係は友情という関係単体の中に典型的に見出せるものの境界を越える。その際、「恋愛的」と描写されるのが誤っているように思えるものとしても越えるのである。クィアプラトニックの)「クィア」という部分は、ジェンダーに関することではなく、社会的境界線を揺らがす(ルビ:クィアリング)ことに関わっている。

─アンジェラ・チェン「ACE アセクシュアルからみたセックスと社会のこと」(左右社、2023年発行)p254より引用

 

 リーとテイラーが、ふたりの関係を指すのに「クィアプラトニック・パートナー」という名称を用いたのは、「友人」と「恋愛パートナー」の間にあると理解しているふたりの関係を、「重要な、明白に恋愛的ではない関係」として認めるためでした。この実践は、「好き」や「大切」といった特別な愛や献身が恋愛感情やその関係特有のものとされる社会の中で、ふたりの関係性を「恋人未満」程度のものとされる「友人」に留めることを拒否し、そして大切で重要な関係とは恋愛関係の中に(のみ)生じるという社会規範も揺るがすために、親密な人間関係で想定される「恋人」でも「友人」でもないラベルを新たに選ぶ関係の書き換え」と言えますが、龍司がとったのはこれによく似た方法としての「関係の読み換え」の提案だったのではないか、と思います。

 龍司は「恋人」のラベルを使いましたが、それはあくまで天の「付き合いたい」という願いに応えただけであり、龍司が望んだのは「会いたいという理由だけで会える」という「恋人にのみ許された特権である…と読むことができます。「恋人だから→会いたいときに会える」ではなく、「会いたいときに会える関係を表す言葉が『恋人』しかない→だからそれを使う」と表明し、既存の枠組みの中で優先順位を読み換えることで、「恋人」に期待される恋愛感情(の重要性)は前者ほど問われなくなります。龍司の天への思いを異性(恋)規範に合わせて「恋愛感情」に書き換えるのではなく、天を「恋愛関係」を築きたいほど重要な相手であると定義づけながら、「恋愛感情」の重要性を遠ざけることで、「重要な、恋愛的ではない」関係を築く可能性を開いていったのだと感じました。

私たちは恋愛的関係の言葉と規範から借り物をして、ほかのタイプの気持ちを構築できる。クィアプラトニックパートナーは、通常軽く受け取られるタイプの関係を引き受けて、それが十分に重要であり、通常ならざる、ぎこちなくなりかねない会話に値するほどのものだと判断する。多くの種類の関係が十分重要になりうる、そういった対話をあえてしてみてよいくらい、もしくは期待をかけ専念してよいくらいに。

─アンジェラ・チェン「ACE アセクシュアルからみたセックスと社会のこと」(左右社、2023年発行)p261から引用

 龍司は関係の読み換えをすることで、恋愛関係の枠組みを借りながら、そこで恋愛関係に(のみ)独占されている「特別で重要な関係」を築いていこうと提案したのだと読めるようになります。

 恋愛伴侶規範は、あらゆる人間関係の中で恋愛関係こそが最も重要で本質的なものだと特権化させることで、他のあらゆる関係性の価値を下げようとします。この規範は、婚姻制度を始めとしたさまざまな法制度と結びつき、社会を通して人々に強力な影響を与えています。この規範の下では、龍司が天をどれほど重要で大切な存在だと感じていても、「『恋愛的な』好き」を向けていなかったとしたら、それだけで龍司の愛情はそれだけで価値の劣るものにされてしまいます。龍司の天を思う気持ちは固有のもので、それが恋愛的なものでなくとも十分に大切で重要なものです。それを異性(恋)愛規範のレンズを通して理解する必要はありません。変化するべきなのは龍司ではなく、ルールのほうです。

  関係を読み換え、「恋人」という枠組みを手に入れたことでその支配から解放され、天と龍司は互いを「特別」だと理解できるようになりました。恋人同士になったふたりは灯台に戻ると、会えなかった時間を埋めるように、好きなもの、これからふたりで行きたいところを朝日が昇るまで語りあいます。未来の話ができるのは、ふたりがふたりのままでいることを諦めなくてもいい証です。一度は恋を諦めた天が龍司と出会い、恋人になれたこと。龍司が天を思う気持ちを変化させることなく、大切な存在としての「恋人」になれたこと。そんなふたりの物語こそが「君となら恋をしてみても」だったのだと思います。

 

 

 

 「もし龍司がAロマンティックだったら」とクィアリーディングすることで、恋愛に対する鈍感さという表象から人物のAロマンティックな可能性を発見できるということ、一方で異性(恋)愛規範があらゆる人間関係に入り込むことでAロマンティシズムが見えにくくされてしまうことといった、Aロマンティックパーソンやそのアイデンティティが社会の中でどのように不可視化されているかを考えてきました。そして龍司の「恋人の特権」だけを取り出した上での「恋人関係」の提案は、「クィアプラトニック・パートナー」実践で見られた関係のラベルを新たなものに書き換えることで「重要な、恋愛的ではない」関係を築く方法と近い「関係の読み換え」だと解釈し、ふたりの「恋人関係」は非規範的なものになる可能性を開いていったと読んできました。龍司とAロマンティック可能性を通じて接続できたこと、それによって自分のための物語と思える作品がひとつ増えたことがとても嬉しいです。龍司が言語化を諦めず、天と対話することから逃げなかったからこそ、私もここまで龍司を信じることができたなと思います。本当に素敵な作品に出会えてよかった!!!

 

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 この夏行った江ノ島旅行の思い出写真たちです。ここで龍司と天が過ごしていたんだなと思うとめちゃくちゃ楽しかったです......