前回は、柊くんと明日香の間に描かれた「すれ違い」「嫉妬」とは、柊くんが異性(恋)愛規範によって経験させられてきた自身の愛の無力化、愛の自己否定の蓄積による「諦め」がかたちになったものであることを指摘し、それらを特にシンや佐久間先生といった周囲の人々との関わりの中で克服し、自らのアイデンティティと愛を肯定できるようになった過程を描くことで、柊くんが自分のための感情としての明日香に対する「好き」を認め、過去から現在、そして未来にまたがる思いが(再)確立されたことでふたりの関係の可能性が少しずつ開き始める…というところまで読み解いていきました。
シンと明日香が商店街の福引でゲットした2組4名の温泉旅行ペアチケットで、湊さんとシン、そして明日香と柊くんは温泉旅行に出かけます。いつもと違うシチュエーションに浮足立つ明日香と対照的に、柊くんはあくまで「勉強のため」に来たのだと、いつもの態度を崩しません。
結局いつものように明日香の勉強に付き合う柊くんは、休憩したいという明日香に、風呂に入ってきたら?と勧めます。しかし明日香は、温泉に入りたいわけではなく、一緒に入り(言葉にはしていませんがふたりで「いちゃつき」)たいのだから、ひとりで入っても意味がない、風呂は夜派の柊くんに合わせて我慢する!と再度机に向かいます。入りたがってたのに何で?と柊くんは戸惑いを隠せません。
ここまでの流れは、前回取り上げた「不意に柊くんの手を握る明日香と、その意図を察することなく『明日香のために』部屋から出て行ってしまう柊くん」とよく似たシチュエーションとして描かれています。しかし前回と異なるのは、明日香の思いをくみ取らずにいる柊くんに「明日香が合わせる」ことで、前回描かれていたような「すれ違い」を回避していると読める点です。
これまでのふたりは「明日香の気持ちがわからない柊くんと、そのことにやきもきする明日香」という構図があり、お互いが相手の気持ちに寄り添った態度はとっていない、ある意味平行線的な関係性でした。ですがこの段階での明日香は、すれ違う前からあった「ほんと柊くんは柊くんだよね」的な「柊くんの個性」としての受容、そして(明日香の捉え方からは)建築のこと以外で自分のことをずっと考えてくれるほど「嫉妬」をしてくれていて、それくらい自分のことを好きでいてくれることがわかっているので、無理に働きかけたり焦ったりする必要はなくなった…という、ふたりの関係性の中身が変化している姿を描いたシーンだと思います。
「すれ違い」が起きそうな場面で回避されたことから、一般的に「すれ違い」が前提としている「恋愛のコードを理解しているか否か」という判断基準は、ふたりの関係性には無効であると読むことができます。ここで注目したいのは、柊くんの態度はこれまでと変わったところはないため、恋愛コードの無効化のカギは明日香の方にあるということです。明日香にとっては、自分が向ける「好き」を柊くんが信じてくれたことの方が重要なため、自分の持っているAlloロマンティック・セクシュアルな欲望を理解されないことにもどかしさは抱えつつも、「一緒にいたい」を優先して叶える方向を選んでいます。ふたりは近しく、親密である(いたい)関係性は「恋愛的」な関係性である(べき)という規範から脱却した関係性として、少しずつ近づいていきます。
日本酒で酔っ払った柊くんは、「飲むと眠くなる」という自己申告そのまま寝落ちし、明日香が一緒に入りたがっていた温泉の営業時間が過ぎるまで起きませんでした。明日香はその間、柊くんの寝顔を眺めるでもなく、(比喩としての)寝込みを襲うでもなく、黙々と勉強をしていたようです。その成果を自慢すると、頑張ったご褒美に今日は一緒に寝てもいい?と、断られることを前提に問いかけます。すると、柊くんは何でもないように「別にいいよ」とまさかのオーケーを出し、驚いた様子の明日香を気にするでもなく、当たり前のように自分の布団の裾をめくり、再び横になり目をつぶります。
そんな柊くんを見つめ、意を決したように肩に手をかけて唇を近づけようとする気配には一切の動揺を見せず、ふと何かを思い出したように明日香の腕を掴んで動きを止めさせ、柊くんは何かを取ってきます。それは売店で見つけた、明日香によく似たねこのぬいぐるみでした。
「何これ?」
「これ、明日香に似てたから」
「くれるの?なんで急に」
「別に…何か明日香にあげたくて。……嫌だった?」
「ううん、めちゃくちゃ嬉しい。ありがとう、柊くん」
「…よかった」
「じゃあ、一緒に寝よっか」
「……やっぱやーめた!……あ、そうだ。話でもしようよ、柊くん」
「話?」
「うん。柊くんがまた、見に行きたい建築とかさ。あとは、行ってみたい国とか、そんな話」
「……それでいいの?明日香は」
「うん。今は、これだけで十分だから」
そう言って、明日香は嬉しそうにぬいぐるみを手に取って眺めます。
柊くんにとって、明日香への贈り物はこれが2つ目です。1つ目がキャンディー、そしてねこのぬいぐるみ。どちらも明日香のためのものですが、「自分だけが持っている好き」の象徴であるキャンディーから、「明日香に伝えるため好き」の象徴であるねこのぬいぐるみを通して、それぞれに込められた思いを想像し、柊くんにとって「好き」が届けるべきものに変化していった過程と、それを可能にしたものについて考えていきます。
キャンディーは、泣きながらさくま屋に来ることの多かった幼かった頃の明日香のために渡していたものでした。渡す動機を「どうすればいいかわからない」と言っていたように、そこには言葉にはならない曖昧な感情が込められており、上手く言えないまま、それでも今もずっとポケットに忍ばせているものです。キャンディーとは、柊くん自身は自覚していない(かもしれない)、何と呼べばいいかわからなくとも、明日香を大切に思い続けており、佐久間先生の言葉を借りれば「明日香のことが大好き」という感情の証でした。しかしキャンディーが明日香に渡されたとしても、そこに込められた思いまでは明日香に届くことはありませんでした。柊くんが自覚していないために届けようがなかったためでもあり、明日香が今もキャンディーを忍ばせていることを知らなくても、つまり柊くんが明日香を大切に思っていることが伝わらなくてもそれは重要ではなく、キャンディーの存在も明日香への思いも、柊くんの心の中にあればそれでよかったからです。
しかし前回指摘したように、その思いが明日香に届くことのない、届けようのないものだったのは、Aロマンティックパーソンが直面しがちな「自分の愛は無力である」という自己否定により「好き」を獲得できずにいたこと、そしてその原因である「“恋”愛以外は『(本当の/正常な/優先されるべき/特別な)愛』ではない」という社会の(有害な)デフォルトが関係しています。異性(恋)愛規範が柊くんに「明日香に笑ってほしい」以上のことを自覚し、伝えようとすることを拒み、その思いを「好き」と呼ぶことを諦めさせてきたという視点が、エースリーディングによって獲得されるのです。
そんな思いの象徴だったキャンディーは、佐久間先生との会話の中で、柊くん自身も自覚していなかった感情に「好き」という名前をつけていいのだと受け入れたことで、自分の中に存在する明日香に対する「好き」を(再)獲得します。そして、これまで明日香から受け取るばかりだった「好き」──実際は返そうとしていましたが、Aロマンティシズムの漂白と、異性(恋)愛規範によるAロマンティック的な愛の無効化によって、柊くんから明日香へのそれは存在しないものとして扱われていました──を、目に見えてわかる確かなものとして、明日香に手渡します。ふたりにとって「ねこ」とは、「重要な他者」概念を置き換えた言葉であり、「そばに置いてよ」という明日香の願いであり、そして柊くんの「好きなもの」でもある、いくつもの意味が込められたものです。柊くんが明日香にねこを、しかも明日香によく似ているからと選んだことは、「柊くんって何考えてるかわかんない」と悩み続けてきた明日香への「明日香のとことを考えているよ」というアンサーで、言葉にせずとも愛情が込められていることがわかります。
「何か明日香にあげたい」は、そういう様々なものを明日香に伝えたいという思いでの行動と読むことができます。柊くんがそう思えるようになったのは、周囲の手を借りながらふたりの関係にまとわりつく規範を引き剝がし、恋愛に支配されていた「好き」を自分の感情として獲得したことで、自分の愛は無力であるという諦めを克服することができるようになったからです。それにより、その思いを伝えることに価値や意味を見出せるようになり、何より自分が明日香に向ける、そして明日香が自分に向ける「好き」を信じられるようになったことで、初めて柊くんは明日香に思いを伝えられるようになったのです。
そして明日香は、渡されたぬいぐるみを受け取り「めちゃくちゃ嬉しい」と幸せそうな表情で眺めます。この場面は、明日香にとっては柊くんが初めて自分に「好き」と伝えてくれた瞬間で、柊くんにとっては異性(恋)愛規範によって無効化され続けてきた「好き」が、ようやく明日香に届いた瞬間でした。ここで描かれる「初めて」と「ようやく」が接続された瞬間は、AlloパーソンとAロマンティックパーソンが生きてきた世界の違いを明らかにしながら、互いへの思いを諦めずにそのズレを再構築していったことで、長い時間をかけてようやく柊くんの思いが報われる日がやってきたのだと、胸が締め付けられるシーンでした……
柊くんは明日香の望みである「一緒に寝る」を叶えようとしましたが、明日香がそこにロマンティック・セクシュアルな欲望を込めていたのに対し、キスしようとする動き自体には何の反応も見せず、そういったムードを察しません。柊くんが”自分と同じ思いで”一緒に寝ることを許容したわけではないこと、自分の持っている欲望を理解し、叶えたいとは思っていないことは、明日香も薄々わかっています。これまでの明日香はそのことに悩み、どうして柊くんは自分の気持ちを分かってくれないのかと苛立ったり、自分を好きだと言ってくれない柊くんに振り回されたりしながらも、自分の思いや欲望は変わることはなく、「柊くんに自分の思いをわかってほしい、欲望に応えてほしい」という態度をとってきました。
しかし自分を好きだと伝えてくれたことで、自分の欲望を叶えることよりも、柊くんの「好き」を大切にしたいと、明日香の優先順位が変化しました。それがわかるのが、一緒に寝ようという自分の提案を取り下げ、代わりに「柊くんのしたい話をしよう」と話題を変えた場面です。
「柊くんのしたい話」とは建築の話ですが、それは当然身体的な接触もないし、明日香の興味からは外れていて、しかも大学院で学ぶほど専門的な知識を持つ柊くんが話す内容となれば、理解できないことも多いはずです。明日香にとっての「建築の話」とは、柊くんにとっての「恋愛の話」と同じものを意味し、そして柊くんも明日香同様に、明日香が建築に自分と同じ関心を持っているわけではないこと、同じ気持ちで建築の話をしたいわけではないことをわかっています。だから柊くんは、「それでいいの?」と明日香に問いかけるのです。自分が理解したくても理解することのできない、けれど相手にとっては大切な世界があり、その中で自分は部外者にしかなれないとき、どうするか。
明日香は、柊くんの中に自分が干渉できない空間があることを受け入れ、その上で自分が欲しいものを望むことより、柊くんが大切にしているものに寄り添うことを選びます。同じ気持ちにはなれないことに寂しさを覚えることもあるでしょうし、自分の思い、しかも「分かってほしい」という感情に応えてくれないことはとてももどかしいでしょう。それでも、「今はこれだけで十分だから」と言えるほどに、柊くんが「好き」だと伝えてくれたことは、明日香にとっても本当に大切なことだったのだと思います。
再三になりますが、明日香がそれほどまで望んでいた「柊くんに好きと言ってほしい」がなかなか叶えられなかったのは、異性(恋)愛規範が柊くんの思いをそう呼ぶことを困難にさせてきたためです。異性愛規範や恋愛伴侶規範は、Aロマンティックパーソンに特に有害に働きますが、そうではない人々にも同様の影響を与え、複雑で鮮やかなはずの感情や関係性を一緒くたに塗りつぶしてしまいます。それに抗おうとすることで、セクシュアリティに関わらず私たちは多様な人間関係を諦めずにいられるはずです。そして何より、Aロマンティックパーソンがこれまで戸惑い、躊躇い、諦めてきた「好き」をもう手放さずに済むためにも、それらは「有害さ」として(批判的に)知られる必要があると私は考えます。
努力の甲斐あって模試でA判定が出た明日香は、そのことを柊くんに伝えに行きます。柊くんは嬉しそうな顔を浮かべると優しく明日香の頭を撫で、そしてA判定が出たらデートに行くという約束をおずおずと切り出す明日香の顔を覗きこみ、「どこ行こうか?」と提案します。
そうしてふたりは、明日香の考えた柊くんの見たい建築をめぐるプランでデートをします。建築を見る柊くんは今まで見てきた中でも一番と言えるくらいにいきいきしており、そんな柊くんを見つめる明日香も嬉しそうです。デートに行くこと自体は明日香の望みですが、その内容は「柊くんを楽しませるために」と明日香が考えたものです。明日香がずっと行きたがっていた思いをくみ取りデートの約束をきちんと果たす柊くん、そして「自分のしたいこと」ではなく「柊くんを喜ばせられるもの」を一緒にしようとする明日香と、お互いが相手のためを思って歩み寄る姿を見ることができます。
......この作品の好きなポイントに「マジョリティがマイノリティに変化(≒マジョリティ側への適応)を求めない態度が一貫している」ところがあるのですが、もしかしたら明日香が柊くんに合わせる態度は「我慢」とか「自己犠牲」的に映るのかも?と思いました。私は、柊くんが明日香に合わせる=そもそも自分の中にない欲望に応じることを求められることと、明日香が柊くんに合わせる=自分の欲望より相手の思いを優先させることは非対称なことだと考えます。そして明日香が自分の欲望を我慢していたとしても、「好き」が「我慢」に変化したわけではなく優先順位が変わったに過ぎないことで、柊くんが明日香に合わせるより負担が軽く済む最善の策だと思っています。また明日香が柊くんに合わせる態度が「我慢」に見えやすいとしたら、それは明日香の欲望が異性(恋)愛規範に則ったものであり、その欲望に応えることは「当然のこと」としてマジョリティに広く共有されているものだから、という注釈をつけておきます。
湊さんのことだけ忘れてしまった(この展開未だに飲み込めません)シンの記憶を取り戻すため、シンみな、あす柊、そして桜子ちゃんとその彼氏・健太でトリプルデートに出かけた一行。ふたりで休憩するタイミングで、柊くんは明日香に話しかけます。
「あのさ明日香、この前の話なんだけど」
「うん?」
「明日香が、俺のこと忘れたらって」
「ああ……」
「あれからずーっと考えてて、それで、やっと答えが出た」
「明日香には、俺のことを忘れてほしくない。そんなの絶対に嫌だ」
「正直、好きとか付き合うとか、そういう実態のないものはよくわからないし、今でも、明確には分かってないんだけど」
「俺は、……明日香のことがとっても大切だよ」
「それって……」
「いつもそばにいてくれてありがとう」
「あ、あのさ、柊くん。その...つまり柊くんは、俺のこと...」
「好きだよ」
「だから、これからも一緒にいてくれる?」
柊くんの中で「好きとか付き合う」、つまり恋愛の文脈にあるものは、変わらず「よくわからない」ものだと口にします。しかし明日香の最初の告白、「猫でもいいよ、猫でも犬でも、サルでもキジでもいいよ。俺をそばに置いてよ」を受け取った柊くんは、「時間があるときはなるべく一緒に過ごすように」し、「すれ違い」によって遠ざかったときも、周囲の人々の力を借りながら自分から近づいていきました。キャンディーやねこのぬいぐるみに明日香を大切に思う気持ちを託し、そうして柊くんは、自分に「好き」と伝え続けてきた明日香のそばにいることを選んできました。明日香は、柊くんにとって確かに「大切」な存在なのです。
柊くんは明日香のことを「大切」と表現しますが、この言葉選びは非常にAロマ的な感覚だなと思います。異性(恋)愛規範に支配されているこの社会において、「付き合っている」関係にある者が相手に伝える「好き」は、望む望まざるに関係なく恋愛の文脈に埋め込まれており、その価値や感情は恋愛(的なもの)に帰結させられてしまいます。自分が意図しない意味に思いが捻じ曲げられてしまうもどかしさや苦々しさを経験しているから、私たちは「好き」という言葉を慎重に、恐々と扱い、それが大切な相手であればあるほど、そうだと伝えることを躊躇うのです。自分にとってとても重要で、何にも代えがたいほど大切に思っていた相手が恋愛関係を手にした瞬間、望んでいないのに優先順位を下げられてしまったり自分から遠ざかってしまう経験を、多くのAロマパーソンと同様に柊くんも味わってきたのだと想像します。そして自分ひとりがその悔しさに抗ったとしても、相手がその抵抗の意味を理解し伴走するとは限りません。そんな異性(恋)愛規範という理解できないルールが敷かれた世界で生きてきた柊くんにとって、「柊くんのしたい話をしよう」とそばにい続けた明日香は、たった一人、ルールより自分を優先した人物だったのかもしれません。
「少しわかった気がする。今まで明日香が伝えてくれてた気持ちが、どういうものなのか」
「だから、これからは俺も返していければって思うよ。明日香がくれる気持ちと同じ量を返せるかはわからないけど」
「同じ量の気持ちじゃなくても、一緒にいられること自体が幸せだと俺は思います。そりゃ俺も、もっと一緒にいたいとか、今以上のものを求めてしまうこともあるけど、それでも、そうやってもがいている時間も含めて、幸せなことだと思うから」
「…そんなもの?」
「はい。そんなものです」
ドラマ「みなと商事コインランドリー」の柊くんをクィアリーディングする~シーズン2・1話~7話編~ - 光を見ている
明日香が異性(恋)愛規範というルールより自分を優先させたことで、柊くんの優先順位も変化しました。たとえ同じものを返せなかったとしても、明日香の気持ちに応えようとすることが、柊くんにとって重要なことになったのだと思います。
柊くんは敢えて「大切」という表現を選んだのだと思いますが、しかし明日香は「それってつまり…」と、他に欲しい言葉があるというメッセージを発しています。
明日香の「好き」と自分の「好き」は、同じものではないかもしれない。自分が明日香を思う「大切」と、明日香が自分に向ける「好き」でさえ、同じものではないかもしれない。それでも、明日香が望んでいるものを伝えることを選び、自分が明日香を思う「大切」という気持ちを書き換えて「明日香が好きだよ」と、初めてそう言葉にしたのだと思います。
全身で喜びと幸せを表現し抱きしめてくる明日香をそっと抱きしめ返す柊くんは、府と明日香が離れる気配を感じます。一呼吸置き、まっすぐ見つめたまま「キスして」と願いを口にします。すぐに「なーんて」と冗談めかしたように言った明日香に対し、柊くんは少し目を泳がせ、小さく息を吐くと、明日香の頬にそっとキスを贈ります。
そもそもキスという行為自体がロマンティック(and/or)セクシュアルな欲求の文脈にあるとされており、多くの人が多くの場合、キスと言ったら唇にするものを想像し、そこにはロマンティック(and/or)セクシュアルな欲望や気持ちの動きが存在することを前提としていますが、そのセオリーから外れた柊くんのキスは、そういった文脈から切り離された行為として捉えることができます。
前提として、キス自体はAロマだろうがAセクだろうがそうでなかろうが、行為としては可能です。しかしこれまでの振る舞いを考えれば、柊くんの中に「大切な人にキスをする」選択肢が存在するとはあまり思えないですし、それは柊くんの欲望でされたものではないと読む方が自然だと思います。きっと明日香に言われなければしなかったでしょう。でも、「これまで手を握り返してほしい」や「一緒に温泉に入りたい」といった明日香の思いに「なんで?」と理由を求めてきた柊くんは、今回はそうすることはせず明日香の望んだものを返しました。柊くんにとって、明日香の気持ちに応えようとすることこそに意味があるからです。キスという行為に期待されている文脈や価値を無視し、明日香の望みに応えることの意味だけを取り外すことで、明日香と自分の思いの妥協点を探り、その上で柊くんにとって重要な「明日香が大切であることを伝える」を実現させたのがこのシーンの意図なのかなと思いました。
自分のための感情としての「好き」を獲得した柊くんは、明日香と共に恋愛のコードを無効化させ、異性(恋)愛規範から脱却した関係性にふたりを近づけていきます。ねこのぬいぐるみを通して柊くんは異性(恋)愛規範によって無効化され続けてきた「好き」をようやく明日香に届けられるようになり、明日香は柊くんが初めて自分に「好き」と伝えてくれたことで、異性(恋)愛規範という理解できないルールに人知れず抗いながら生きてきた柊くんに、自分が干渉できない空間があることを受け入れた上で「柊くんのしたい話をしよう」と寄り添うことを選びました。明日香がルールより自分を優先したことで、同じものを返せなかったとしても、明日香の気持ちに応えようとすることが重要だと柊くんも優先順位を変化させました。そして、明日香のことが大切だと伝えるために、明日香が望んでいた「好き」という言葉を明日香のために届け、異性(恋)愛規範から脱却した「大切」な関係を選び取り、「好き」という言葉の価値を再獲得することができるようになったのだと思います。
最後まで柊くんは恋愛を理解しないままで、そして最後まで明日香との関係を諦めずに築いています。その姿を追いながら、いちAロマンティックパーソンとして未来に希望を重ねて見れたことが、本当に幸せなことだと思っています。クィアリーディングによって柊くんのAロマンティシズムを見つけ、明日香との関係性をAロマンティックに読み解いていきましたが、Aロマンティックの人々が異性愛規範や恋愛伴侶規範に思いを諦めさせられることなく、大切な存在を諦めることもなく生きていく未来は、絶対に不可能なことではないのだと思えた、とても大切な作品になりました。みなしょーに出会えてよかった!!!!!