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ドラマ「最高のオバハン 中島ハルコ」をクィアリーディングする〜第3話〜

 Aロマ作品に本気(マジ)で真剣(ガチ)な人間です。こんにちは。

 

 何度も自分のブログ内で同じようなことを言っていて恐縮な気持ちなのですが、私はAロマのための作品を渇望し、そういう作品を探したりクィアリーディングによって自分のためのエンタメを獲得するというのを趣味と意地と執念でやっています。今回は、ドラマ「最高のオバハン 中島ハルコ~マダム・イン・ちょこっとだけバンコク~」第3話を取り上げて、ドラマについての文句(言っちゃった……)を書いていこうと思います。

 

 本文の前に、書くにあたって参考というか気持ちの整理に助けられたのがこちらのポッドキャストです。

open.spotify.com

 今回取り上げる「中島ハルコ」3話は、「颯斗」というキャラクターをAロマンティック的な人物と描きながら、彼をはじめとするクィアを否定することで異性愛規範を維持しようとするバックラッシュ作品だと思いました。それにAロマが巻き込まれたことがとても悔しかったし、悲しかった。そんな思いのお焚き上げとして読んでいただけたらと思います。では。

 

【ハルコ(大地真央)のもとに、新たな相談が舞い込む。人気アイドルの颯斗(草川拓弥)に世界配信されるラブストーリーの主役のオファーが来たのだが、颯斗が理由も言わずに断るというのだ。そんな颯斗を拉致監禁して理由を話させるハルコ。すると、颯斗が恋愛未経験のアイドルであることが発覚。ハルコはそんなことを気にする颯斗を笑いつつ、どうせ大根演技しかできないのだから。オファーは断って当然!とその場を斬るが……
20代の交際未経験者が4割を超える若者の恋愛事情を嘆くハルコ。FUBUKIの鰯(大友花恋)は二次元キャラに恋をするフィクトセクシャル、コンプラ担当の百花(木村葉月)は付き合ってもすぐ蛙化現象で別れるリスロマンティック。ダメンズにひっかかってばかりのいづみも一筋縄でいかない令和の恋愛事情に愕然とする。颯斗や鰯と同世代の龍(堀海登)は、彼らの気持ちが分かると言うが、そんな龍にカンボジアからラン(GEE SUTTHIRAK)が電話をしてきて……
一方、颯斗は世間が作り上げたアイドル颯斗像に悩んでいた。そんな颯斗を、なぜか町中華で修業させるハルコ。大将の哲治(浜田晃)と女将の和歌子(田島令子)に預けられた颯斗は、意味も分からないまま店の手伝いを始めることに。
町中華の修業が世界を変える!?令和の恋愛事情をハルコがバッサリと斬る!】

東海テレビ「最高のオバハン 中島ハルコ~マダム・イン・ちょこっとだけバンコク~」第3話より引用

www.tokai-tv.com

 

カミングアウトの無力化とクィアな生存の否定

 颯斗は、所属する芸能事務所の社長でありおばでもある池尻が「世界配信が決まっている恋愛ドラマの主演のオファーが来たが、理由も言わずやりたくないと断っている」とハルコのもとに相談に来たことで「問題」が発覚します。ほとんど脅迫のようなハルコの質問に対し「恋愛に興味が持てない」「これまで好きになった人や交際経験はない」「結婚は避けて人生を終えたい」、さらに、恋愛や性経験について語る中で「自分に好意がある女性とふたりきりでいることは、考えれば考えるほど、考えたくなくなる」と語ります。そんな颯斗をハルコは「“モテモテのアイドルなのに童貞”を、実は気にしている性根」がばかばかしいのだと大声で笑い飛ばし、それでもドラマを断る考えを曲げない颯斗を「恋愛に興味ないんじゃ、どうせ無様な大根演技しかできない」のだから、オファーを受ける必要はないと切り捨てます。

 

 颯斗は、自身の恋愛や性愛に関する経験を「ない」と表現し、そういった好意の延長線上にある未来を拒絶します。自分のAロマンティック性に自覚的で、その過程で伴う痛みや傷つきも感じられる語りにシンパシーを感じましたし、その言葉がハルコを始めとした周囲の人々に踏みにじられる姿は、見ていて本当に苦しくなってくるシーンでした。

「恋愛が分からない/興味がない」「性的に惹かれるってどういうことか分からない/興味がない」という言葉は、アセクシュアルスペクトラムの説明として用いられる言葉たちだ。アセクシュアルスペクトラムとイコールで結ばれてもいいような言葉なのだが、アセクシュアルスペクトラム知名度の低さや、セクシュアルノーマティヴィティによって未来のイメージを支配されているために、カミングアウトの力をはく奪されている。一時的な状態だ、勘違いしているだけだ、そういうパフォーマンスをしているだけなど様々な憶測で、アセクシュアルスペクトラムとは結びつかないように無力化されてしまう。

─井村麗奈「Aro/Ace作品の表象と受容につきまとう困難と可能性─日本の状況と照らして」(つくばリポジトリ.2024)1-2より引用

つくばリポジトリ

 

 颯斗は「恋愛未経験アイドルであることを気にしている」と語ったわけではありません。聞かれたから「恋愛に興味が持てない」と答えただけです。しかしそれは「恋愛や性経験がないことを、人は悩むはず」、そして「人は必ず恋愛や性愛を経験する(ことを望んでいる)」という前提によって、ただ関心がなかったり経験がないことに過剰にマイナスな意味が結びつけられ、それらを不要とする人々の存在は不可視化されてしまいます。

 この一連の流れは、颯斗の「恋愛に興味が持てない」というAロマンティシズムの表明が、そのことで明らかにされ(てしまっ)た恋愛や性経験のなさという「異常」を示すためのものに変えられてしまった場面と読むことができます。

 さらに、「恋愛に興味がないのに恋愛ドラマで演じたって、大根演技にしかならない」という嘲笑は、ただ侮辱的なだけでなく、「多くのクィアは、日々ヘテロを演じて社会を生き抜いている」というクィアの現実を無視した暴力的なセリフでもあります。

多くのヘテロパーソンは、身の回りにクィアが存在することを想像することすらしません。それは、ヘテロではないことが知られると面倒なことになったり傷つけられたり、最悪の場合暴力にさらされることもある恐怖と常に背中合わせで生きているクィアたちが、生活のあらゆる場面で神経をすり減らしながらヘテロに擬態しているからです。これは、クィアクィアのまま生きていける社会だったらする必要のない努力です。颯斗がインタビューで答えた結婚観・恋人観に対する言葉は、「某メジャーリーガーの真似」というのがバレるようなものでありながら、いづみはそのことに指摘されるまで気づいておらず、颯斗をヘテロパーソンと解釈していました。これも、颯斗の「努力」の賜物でしょう。

 必死に擬態してきた颯斗は、恋愛ドラマのオファーというかたちで恋愛に巻き込まれることになり、異性(恋)愛規範を前提に作り上げられる「アイドル・颯斗像」の期待に応えなければならないプレッシャーと、自分自身の在り方とのギャップとの間で葛藤します。この姿は規範に苦しむクィアの図と重ねて読むこともでき、颯斗はここで自分の人生から恋愛を退けようとすることを選びます。そんな颯斗をハルコは「ファンの皆様にこれまで散々噓をついてきた」と非難し、「二度と噓をつかなくてもいい方法」をつかむためにと、夫婦で経営する町中華での住み込み生活を命じます。

 ここでハルコが言う「嘘」とは、颯斗がしてきた「ヘテロに擬態する努力」を指します。ヘテロではないこと(≒クィアであること)が悪でありながら、ヘテロに擬態すること(≒恋愛を獲得しようとする努力をしないまま、恋愛する人間を演じること)も悪であるという最悪のダブルバインドが展開されており、クィアクィアのままで生きていく未来が完全に否定されます。

 

 バックラッシュ作品としての問題点

 本回のサブタイトルは「ハルコ、令和の恋愛事情を斬る!」なのですが、これが意味するのは「性の多様性が叫ばれるようになった現代」に対してのバックラッシュだと感じました。

 作中では、Z世代の恋愛事情の調査のなかで「二次元キャラクターと結婚している」と語る鰯は「フィクトセクシュアル」、「両想いになると嫌になる」百花は「リスロマンティック」という用語で説明されています。Fセクやリスロマといった語が登場すること自体は、いわゆる「LGBTQ」では語られることが少なかったクィアの存在が認識されている結果として肯定的に読み解くこともできます。しかしこれらは、性交渉率や交際経験率の減少している、「従来の恋愛規範に沿わない若者の価値観」を批判する文脈で描かれているように感じました。「性の多様性」概念を表立って否定することはしないけれど、これまで通りの恋愛や性愛を望まない令和の価値観に、いずれ人類は結婚不要時代に向かっていくのでは……と憂いを覚えるハルコたちという形で、異性(恋)愛規範に沿うべきというメッセージを発しています。

 ここで気になったのが、「フィクトセクシュアル」や「リスロマンティック」の語が登場するのに対し、「Aロマンティック」が登場しないことについてです。このドラマが放送されている2025年現在、「Aロマンティック」という言葉は、少なくともセクシュアルマイノリティに関心がある人たちにとっては全くの新しい用語ではないんじゃないかなと思います。(あくまで希望的観測ですが)それはつまり、他者に恋愛的な好意を持たなかったり惹かれなかったりすることは、一時的な出来事や「まだ」そうであるだけなのではなく、セクシュアリティでありアイデンティティであると理解する動きが、少しずつ広まってきているということです。一方でフィクトセクシュアルやリスロマンティックの知名度も、同様に広まっているのではと思います。ドラマ内では、フィクトセクシュアルは二次元のキャラクターへの惹かれをする文脈で、リスロマンティックは「蛙化現象」との関連で定義づけられているのだと思いますが、これらは「他“者”に恋愛的に(=排他的でロマンティックな相互の長期的な関係)惹かれる」という規範から外れる、広義のAスペクトラムのラベルだと言えます。個々のラベルの説明をするのは今回の本筋からずれるので置いておきますが、私が思うのは、Fセクやリスロマという言葉を知っているなら、必然的にAロマにもたどり着くんじゃないか?ということです。颯斗の語りは恐らく意図的にAロマ当事者にはわかる塩梅の表現をされているように感じますし、「恋愛に興味が持てない」といったワードは、Aロマと気づかせるきっかけのワードとしてよく使用されるもので、明確に示されてはいませんが、エースリーディングをするまでもなく、制作陣は颯斗をAロマのキャラクターとして描いているのだと思います。では、なぜ颯斗にAロマンティックのラベルが与えられなかったのか。それは、この作品のテーマ「令和の恋愛事情を斬る!」に集約されています。

 

 この作品で「問題」と設定されているのは、颯斗が「恋愛に興味が持てない」ことです。それをきっかけに物語が動き、最終的に颯斗は恋愛ドラマのオファーを受け、「あなたはまだ人を愛することの素晴らしさを知らないんだ。でも俺は知っている」と語り、相手役の女性とキスをするシーンが放送されます。さらにドラマ外では、Fセクと言われている鰯と颯斗が付き合っていると噂され、「いずれ、(鰯が二次元キャラクターと結んでいる)結婚証明書の相手が変わるかもね」と語られる場面で終わります。この結末は、「多様性の時代である令和の恋愛事情は複雑になっているけど、結局今まで通りの愛の形が素晴らしいよね」という、セクシュアリティを多様な価値観に矮小化し、さらにそれらを異性愛関係に当てはめることで矯正する、強烈な異性愛主義にクィアが取り込まれるバックラッシュのさまを描いていると感じました。

 異性愛主義を維持し肯定するためには、颯斗のように恋愛に興味が持てないことは異常事態でなければなりません。ところが颯斗に「Aロマンティック」というラベルを貼ると、「恋愛に興味が持てない」ことは「尊重されなくてはならないセクシュアリティ」になり、「解決されるべき問題」ではなくなってしまいます。すると、解決されるべきなのは颯斗を始めとするクィアたちではなく異性愛規範であると、その矛先がマジョリティの方に向いてしまいます。それを避けるため、異性愛規範を温存し続けるために、颯斗はAロマとして描かれながら「Aロマンティック」のラベルを手にすることはできず、「恋愛に興味が持てない」ことを解決されるべきこととして、セクシュアリティを無視され異性愛をなぞるようにしか存在することができなかったのだと思いました。颯斗のヘテロに擬態する努力も、そこで味わってきた痛みや苦々しさも、アイデンティティを軽んじられる悔しさも、全ては「(異性)愛は素晴らしい」というメッセージに回収されるために使われているのが本当に悔しすぎる!!!!!

 

 

 冒頭でリンクを貼ったY2K新書で言われてる通りのことが起こっていてダメージをくらったけど、自分なりに問題を問題として引っ張り出すことができて若干感情が整理された気分です。颯斗のようにどうにかサバイヴしてるみんな、打倒・異性愛規範でやっていこうね!!!!!