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フラワーデモ 6.11

フラワーデモ6.11、参加してきました。

人生初めてのデモで、何をするのかもよくわからないし、正直会場に向かうのも怖かったです。詳しいことは後述しますが、私が行ってもいいのかな、とも思いました。ただ、性暴力、性犯罪について理不尽なことが頻繁に、腹立たしいことに頻繁に起こる今の日本で、声を上げることを経験しないと、自分も含めて誰も守れなくなるんじゃないだろうか。そう思って、参加を決めました。

 

 

斜め前に立っていた参加者がマイクを持って話しました。その方は性被害に遭った経験を告白し、加害者を殺したいと思うほど憎んだ、と言いました。殺したい、という単語を人の口から聞いたことがありますか?ツイッターでは見たことがあり、文字で表された思いを軽視するつもりは全くないけれど、目の前の人がそう話すことのとてつもない重みを感じました。そして、それだけのことをした人が、法で裁かれずにいるのかもしれない、世の中の恐怖、理不尽さを強く覚えました。

私は性被害に遭った人と話したことはないと思っていたけど、そんなことは私にはわからない ことだと、ようやく気づきました。さっきまで一緒にスピーチを聞いている人、とだけ思っていた人がマイクを持ち、自身の経験を語り出した時、目の前で話している人は、性暴力に遭った過去を持っていて、というのを目の当たりにした時、社会の問題と自分を分断できるわけがないと気づきました。そして、性犯罪があまりにも身近なものであることを思い知らされて、涙が出ました。あの場にいた人たちは、性別も年齢も社会的立場も様々で、そこにいる皆が話を聞こうとしていて、それが救いでした。

 

 

今回参加するまで、デモはもっと激しいものだと思っていました。しかし実際参加してみると想像とは違い、私たちの声を聞いて、という主張の場でした。ただ、聞いてなんて優しいものではありません。静かな声、涙声、憤りの声の裏には、辛い、許せない、私の尊厳を奪うな、というその人の抱えてきた人生がありました。マイクを持つ人の悲しみ、そして問題を真正面から見てやるという静かな気迫を、会場の空気の強さを、場に行き、直に顔を見て声を聞くことで感じる思いがありました。横断幕の下に置かれたプラカードの「私たちは黙らない」の言葉がとても重かったです。 悪いのは加害者という当たり前のことが何故か聞き入れられないことが多々ある今、黙らないことの持つ力はあまりに大きいものだと思いました。

今回仙台デモに参加しましたが、発起人は私と同い年の方でした。スピーチをした人の中には私より年下の方もいました。スピーチをしたのは下の世代のためでもある、と言った方もいました。問題は決して人事ではないことを教わり、やっと本当に自分ごとと捉えることができたように思います。語られた性暴力は単なる事例ではない、社会に昔も今も存在する現実なのだと思い知らされました。

 

 

知らないということは本当に恐ろしいことだな、と思いました。自分はもちろん、誰もが守られて、理不尽な仕打ちを受けることがあってはならない、だから知識、倫理といったもの持たなければならないのだと思いました。

そして、声を上げることを恐れる余裕はないな、とも思いました。行動するためにも、声を上げ聞く場が必要ということを実感しました。次回もフラワーデモが開催されるなら参加しようと思います。その時には、今日以上に話を聞き、考え、声を上げられるようにしなければ、と思いました。